春秋左傳事類始末晋、驪姫の難(驪姬之難)
晋の献公が驪姫を寵愛し、その子奚齊を立てるため太子申生・重耳・夷吾を辺境に配し讒言で申生を自死に追い込み重耳・夷吾を出奔させた末、献公没後に里克が奚齊・卓子を殺し荀息が殉死するまでの経緯。桓公二十八年から僖公九年(前684〜前651年)。
年表(7件)
- 桓公二十八年(前684年)驪姫が奚齊を得て公子たちを辺境に配す策を進言
- 閔公元年(前661年)太子申生に城を築かせ、士蒍が太子廃立の兆しを述べる
- 閔公二年(前660年)太子申生が皐落氏討伐を命じられ、里克・狐突らが不安を語る
- 僖公四年(前656年)驪姫の讒言で太子申生が自死、重耳・夷吾が出奔
- 僖公五年(前655年)寺人披が蒲を攻め、重耳が翟へ亡命
- 僖公六年(前654年)屈が攻められ夷吾が梁へ逃れる
- 僖公九年(前651年)献公没後、里克が奚齊・卓子を殺し荀息が殉死
桓公二十八年(前684年)
- 晋の献公は賈に妻を娶ったが子がなく、亡父の側室であった齊姜と通じて秦の穆公夫人と太子申生を得た。さらに戎から二女を娶り、大戎の狐姫は重耳を、小戎子は夷吾を生んだ。晋が驪戎を討つと、驪戎は驪姫を差し出し、献公は驪姫との間に奚齊を、その妹との間に卓子を得た。
- 驪姫は我が子を後継に立てたいと望み、寵臣の梁五・東関嬖五を通じて献公に「曲沃・蒲・二屈(本来は北屈)は国境の要地、宗邑や国境に主がいなければ民の統率も戎への備えもできない。太子には曲沃を、重耳・夷吾には蒲・屈を治めさせるべきで、これは辺境開拓としても名分が立つ」と進言させ、献公はこれに従った。夏、太子は曲沃、重耳は蒲城、夷吾は屈にそれぞれ配置され、他の公子は皆辺境に置かれたが、驪姫の子二人だけは都・絳に留まった。梁五・東関嬖五(「二五」と呼ばれた)は驪姫と結んで公子たちを讒言し、奚齊を立てさせようとした。
閔公元年(前661年)
- 献公は二軍を編成し、自ら上軍を、太子申生に下軍を率いさせて耿・霍・魏を滅ぼした。帰還後、太子のために曲沃に城を築くと、士蒍は「太子はもう立てられないだろう。都城を分け与えられ、位はすでに卿に等しい、これ以上どうなろうか。いっそ逃れて呉の太伯のようになるべきではないか、良い評判を保てる。諺にも『心にやましさがなければ家を失うことを憂えない』という。天が本当に太子を助けるなら、この晋という国はもういらないはずだ」と述べた。
閔公二年(前660年)
- 献公は太子申生に東山の皐落氏討伐を命じた。里克は「太子は宗廟社稷の祭祀を司り、日々君に仕える者だ。君が出征すれば太子は国を守り、守るときは監国、従うときは撫軍というのが古の制。軍の指揮や作戦は君主と大臣の役目で太子の仕事ではない。太子が軍を率いれば、命令に従えば権威がなく、専断すれば不孝になる。それに皐落氏は本気で戦う構えだと聞く」と諫めたが、献公は「後継者はまだ決めていない」と答えるのみだった。里克は退出して太子に会うと、太子は「私は廃されるのか」と問い、里克は「民を治め軍事を学ばせるのは、務めを果たせないことを恐れてのこと、廃される理由にはならない。むしろ不孝を恐れよ、自らを修め人を責めなければ難を免れる」と答えた。太子は出征し、献公は偏った色の衣と金の玦を与えた。狐突が御者、先友が車右、梁餘子養が別の御者、罕夷・先丹木が車右、羊舌大夫が軍尉となった。
- 先友は「偏った衣でも兵権の要は太子にある、恐れることはない」と楽観したが、狐突は「衣は身分の象徴、佩玉は心の旗印。今回は服も佩玉も不吉な意味を持つ、恐ろしいことだ」と嘆いた。梁餘子養は「将たる者は本来正式な服装で任命を受けるはず、これでは先が思いやられる、いっそ逃げるべきだ」と言い、罕夷も同様の不安を示した。先丹木は「敵を全滅させねば帰れぬような服装だ、逃げたほうがよい」と言った。狐突も逃亡を考えたが、羊舌大夫は「命令に背けば不孝、務めを放棄すれば不忠、危険を承知でも受けねばならない」と諭した。太子が戦おうとすると、狐突は「乱の根はすでに定まった、無理に立とうとせず、孝と民の安寧を図るべきだ、危険を冒して罪を招くには及ばない」と諫めた。
僖公四年(前656年)
- かつて献公は驪姫を夫人に立てようと占ったが亀甲占いは不吉、蓍占いは吉と出た。献公は蓍占いに従おうとしたが、占い師は「蓍は浅く亀は深い、深いほうに従うべき」と諫め、卦辞に「福が奪われ変わる、一薫一蕕(良い香りと悪臭が混ざれば)十年経ってもなお臭いが残る」とあることを引いて反対したが、聞き入れられず驪姫は夫人となり奚齊が生まれた。
- 驪姫は大夫たちと謀り、太子に「君(献公)が斉姜(太子の亡母)の夢を見た、急いで祭るように」と偽り伝えた。太子は曲沃で祭りを行い、その供物(胙)を献公に届けたが、献公が狩りに出ていたため驪姫が六日間これを宮中に留め、毒を仕込んで献公に献上した。献公が地に供えると土が盛り上がり、犬に与えると犬が死に、小臣に与えるとこれも死んだ。驪姫は泣いて「これは太子の仕業だ」と讒言した。太子は弁明を勧められたが「父上は驪姫がいなければ安らかに過ごせない、私が申し開きをすれば驪姫は罪に問われる、父はもう年老いている、私が身を引くしかない」と述べ、新城で首を吊って死んだ。驪姫はさらに重耳・夷吾も共謀していたと讒言し、重耳は蒲へ、夷吾は屈へ逃れた。
僖公五年(前655年)
- かつて献公は士蒍に重耳・夷吾のため蒲・屈に築城させたが、士蒍は薪をいい加減に積んだだけの手抜き工事をした。夷吾がこれを訴え、献公が士蒍を叱ると、士蒍は「喪もないのに嘆く者には必ず憂いの種があり、戦もないのに城を固める者にはやがて敵が拠る。敵の拠点になりうる城をどうして念入りに作れよう。務めを怠るのも不敬、忠実に敵の拠点を作るのも不忠、忠と敬のどちらも欠いてどう君に仕えられよう。『徳を懐えば国は安泰、宗子(一族の子弟)こそ城壁』という詩の通り、君が徳を修め宗子を固く保てば、城など不要だ。三年のうちに戦が起こる、念入りに作る意味がない」と答え、退いて「狐の裘は乱れ、一国に三君あり、私はどちらに従えばよいのか」と歌った。ほどなく難が起こり、献公は寺人披に蒲を攻めさせた。重耳は「父の命に背けない」と言って垣根を越えて逃げたが、披に袖を斬られながらも翟へ亡命した。
僖公六年(前654年)
- 献公は賈華に屈を攻めさせた。夷吾は守りきれず翟へ逃げようとしたが、卻芮は「同じ翟でも重耳が先に行っている、それより秦に近く縁のある梁へ行くべき」と勧め、夷吾は梁へ逃れた。
僖公九年(前651年)
- 献公が死去した。里克は文公(重耳)を迎え入れようとし、三公子(申生・重耳・夷吾)の残党を率いて乱を起こそうとしていた。かつて献公は病床で荀息に幼い奚齊の後見を託し、荀息は「力を尽くして忠貞を守ります、成らねば命をもって続けます」と誓っていた。里克が奚齊を殺そうとする前に荀息へ「三家の怨みが動き出す、秦晋もこれを支援するだろう、どうする」と告げると、荀息は「殉じるまでだ」と答えた。里克は「無益だ」と言ったが、荀息は「先君に誓った言葉を違えられない」と述べた。十月、里克は次の場所で奚齊を殺害した。荀息は殉じようとしたが、周囲は「卓子を立てて補佐すればよい」と勧め、荀息は公子卓を立てて献公を葬った。十一月、里克は朝廷で卓子を殺し、荀息はついに殉死した。
史論(君子曰)
- 詩に「白圭の傷は磨けば直せるが、言葉の傷は直せない」とあるが、荀息はまさにこれに当たる。