春秋左傳事類始末晋、虞・虢を滅ぼす(晉滅虞虢)
虢の驕りを晋の士蒍が見抜き討伐を待ち、莘に神が降臨した凶兆を経て、晋が虞に道を借りて虢を討ち、宮之奇の諫言も聞かれず虞もろとも滅ぼされるまでの経緯。莊公二十六年から僖公五年(前668〜前655年)。
年表(6件)
- 莊公二十六年(前668年)虢が晋に侵攻
- 莊公二十七年(前667年)晋侯の虢討伐計画を士蒍が時期尚早と諫める
- 莊公三十二年(前662年)神が莘に降臨、虢の滅亡を史嚚が予言
- 閔公二年(前660年)虢公が犬戎を破るが舟之僑が災いを予見し出奔
- 僖公二年(前658年)晋が虞に道を借り虢の下陽を落とす
- 僖公五年(前655年)宮之奇の諫言も聞かれず、晋が虢を滅ぼしそのまま虞も滅ぼす
莊公二十六年(前668年)
- 秋、虢が晋に侵攻。冬にも再び虢が晋を侵した。
莊公二十七年(前667年)
- 晋侯が虢討伐を計画した。士蒍は「まだ不可。虢公は驕り高ぶり勝利を重ねれば民を失う。民が離れてから討てば抵抗できない。礼楽と慈愛は戦のための蓄えだ。民が礼譲・和を楽しみ、親族を愛し喪を悼むようになって初めて用兵できる。虢はそれを備えていない、しばしば戦えば飢える」と説いた。
莊公三十二年(前662年)
- 秋、神が莘に降臨した。恵王が内史過に理由を問うと「国が興ろうとするとき明神が降りその徳を監る、亡びようとするときも神が降りその悪を観る。得た神によって興ることもあれば亡ぶこともある、虞夏商周いずれにも例がある」と答えた。王が対応を問うと「その神にふさわしい供物を捧げよ、日取りもそれに応じる」と答え、王はこれに従った。内史過は虢が神に伺いを立てたと聞いて帰り「虢は必ず滅びる、暴虐でありながら神の言葉に頼っている」と述べた。神が莘に留まり、虢公は祝応・宗区・史嚚に祭らせると、神は土地を賜うと告げた。史嚚は「虢は滅びるだろう。国が興る時は民の声を聞き、亡びる時は神の声を聞くという。神は聡明正直で一貫しており人の行いに応じるもの、虢には徳が薄いのに、どうして土地など得られようか」と評した。
閔公二年(前660年)
- 虢公が渭汭で犬戎を破った。舟之僑は「徳もないのに恩恵を受けるのは災いのもと、災いが近い」と述べ、晋へ出奔した。
僖公二年(前658年)
- 晋の荀息は屈産の名馬と垂棘の璧を虞に贈って道を借り、虢を討つことを提案した。虞公が「それは我が宝だ」と渋ると、荀息は「虞に道を借りられれば、それはいわば我が外府(自分の蔵)に置くようなもの」と説得した。宮之奇はこの案に反対したが、虞公は聞き入れず、虞は晋に道を貸し、さらに先に虢を討つことまで申し出た。夏、晋の里克・荀息は虞軍と合流し虢を伐ち、下陽を落とした。秋、虢公は桑田で戎を破ったが、晋の卜偃は「虢は必ず滅びる。下陽を失っても恐れず戦功を誇るのは、天が虢の鑑を奪いその驕りを増している証、晋を侮って民を顧みない、五年ともつまい」と述べた。
僖公五年(前655年)
- 晋侯は再び虞に道を借り虢を討とうとした。宮之奇は「虢は虞の外表、虢が亡べば虞も従って亡ぶ。晋のような侵略者を招き入れてはならない、一度も過ぎるのに二度もあってよいものか。『輔車相依り脣亡びて歯寒し』とはまさに虞虢のことだ」と諫めた。虞公は「晋は同族だから害されない」と答えたが、宮之奇は「大伯・虞仲は大王の子、虢仲・虢叔は王季の子で文王に仕え功績が王室の盟府に記録されている、それでも虢は滅ぼされようとしている、虞が桓叔・荘伯の一族ほど晋に親しいはずもなく、その一族でさえ寵愛ゆえに害されたのだから、国となればなおさらだ」と反論した。虞公はなお「私の祭祀は豊かで清らかだから神は必ず私を助ける」と言うと、宮之奇は「鬼神は人を選ばず徳のある者に依る、『皇天に親しみなし、ただ徳を輔く』『黍稷は香らず、明徳こそ香る』というではないか、徳がなければ民も和せず神も享けない」と諭したが、聞き入れられなかった。宮之奇は一族を連れて虞を去り、「虞はもう年越しの祭りを行えまい」と述べた。
- 八月甲午、晋侯は上陽を包囲し、卜偃に勝算を問うと「勝てる」との答え。時期を問うと、童謡を引いて「丙の朝、龍尾星が日に隠れる頃、軍装を整え虢の旗を奪う、鶉火の星が明るくないうちに、天䇿星も薄暗いうちに、鶉が火の位置に来て陣を敷けば、虢公はきっと逃げる、九月十月の交わり目だろう」と答えた。丙子の朝、日は尾宿に、月は䇿星の位置にあり、鶉火の中天はまさにその時であった。冬十二月丙子朔、晋は虢を滅ぼし、軍は虞に宿営したのち虞を急襲して滅ぼし、虞の祭祀を復興させ、その貢物を王に納めさせた。