春秋左傳事類始末斉桓公の征伐と会盟(齊桓征伐盟㑹)

齊の桓公が譚・遂の討滅から始めて北杏・鄄・幽・召陵・葵丘などで累次の会盟を主導し覇者となり、王室の安定や楚討伐、諸侯の懐柔を進める過程。莊公十年から僖公十九年(前684〜前641年)まで44年間。桓公没後の後継争いにも触れる。

年表(21件)

莊公十年(前684年)

  • 齊侯(襄公)がかつて譚を通過した際に礼を尽くされず、即位後の祝賀にも譚は来なかったため、齊は譚を滅ぼした。

莊公十三年(前681年)

  • 春、齊侯・宋人・陳人・蔡人・邾人が北杏で会盟し、宋の内乱を鎮めることを図った。遂の人は参加せず、齊は遂を滅ぼしてこれを守備させた。宋は北杏の盟に背いた。

莊公十四年(前680年)

  • 冬、単伯が齊侯・宋公・衞侯・鄭伯と鄄で会した。宋が服従したためである。

莊公十五年(前679年)

  • 齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯が鄄で会盟し、齊がここに覇者となった。
  • 秋、宋・齊・邾が郳を伐ち、鄭がその隙をついて宋を侵した。

莊公十六年(前678年)

  • 冬、齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・滑伯・滕子が幽で同盟し、鄭との和睦が成った。

莊公十七年(前677年)

  • 夏、遂の遺民(因氏・頜氏・工婁氏・須遂氏)が齊の守備兵を酒宴でもてなし、酔わせて殺害したが、齊はこれを殲滅した。

莊公二十七年(前667年)

  • 夏、齊侯・宋公・陳侯・鄭伯が幽で同盟、陳・鄭が服従した。
  • 冬、周王が召伯廖を遣わし齊侯に王命を賜り、あわせて衞(子頽を擁立したこと)を討つよう求めた。

莊公二十八年(前666年)

  • 春、齊侯が衞軍を破り、王命を掲げて非を鳴らし、賂を得て引き上げた。

莊公三十年(前664年)

  • 秋、齊人が鄣を降した。
  • 冬、荘公が齊侯と魯済で会い、山戎討伐を謀った。燕を苦しめていた山戎を齊が討った。

莊公三十一年(前663年)

  • 齊侯が戎から得た戦利品を(本来は王への献上が礼であるところを)魯に献上したのは非礼であった。諸侯は夷狄討伐の功があれば王に献上し、中原諸国相手には行わない。また諸侯は互いに捕虜を贈らない、という原則があった。

閔公二年(前660年)

  • 春、齊人が陽の民を(別の地へ)移した。

僖公二年(前658年)

  • 秋、貫で会盟し、江・黄を服させた。齊の寺人貂がこのとき初めて軍事情報を他国に漏らした。

僖公三年(前657年)

  • 秋、齊侯・宋公・江人・黄人が陽穀で会し、楚討伐を謀った。齊侯は蔡姫と舟遊びをした際、彼女が舟を揺らして脅かしたため怒って蔡へ帰したが離縁はしなかった。しかし蔡はこれを機に蔡姫を他家へ嫁がせた。

僖公四年(前656年)

  • 春、齊侯が諸侯の軍を率いて蔡を侵すと蔡は潰走、そのまま楚を伐った。楚は「あなたと我らは風馬牛も及ばぬ遠さ、なぜ我が地に至ったのか」と使者を送った。管仲は「先君太公は五侯九伯を征討する権を周王室より賜った。楚が包茅を貢がず王の祭祀に支障が出ていること、また周の昭王が南征して戻らなかったことを問う」と答えた。楚は「貢の不履行は我らの罪、昭王の不帰還は水辺の者に問うべし」と応じた。
  • 齊軍は陘に進み、楚は屈完を派遣して交渉、齊軍は召陵に退いた。齊侯が諸侯の軍を屈完に誇示すると、屈完は「君が徳をもって諸侯を懐柔するなら誰も逆らわないが、力に頼るなら楚は方城・漢水を城池として使うので大軍も無力だ」と応じ、屈完は諸侯と盟を結んだ。

僖公五年(前655年)

  • 夏、荘公は齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・曹伯と首止で王世子に会い、周王室の安定を謀った。秋、諸侯が鄭で盟を結んだが、鄭伯は自軍を離脱して帰った。

僖公七年(前653年)

  • 秋、甯母で盟を結び、鄭問題を謀った。管仲は齊侯に「懐柔には礼と徳による」と説き、齊侯は諸侯への礼を修め、諸侯は貢物を進めるようになった。

僖公八年(前652年)

  • 春、洮で盟を結び、王室(襄王の即位)の安定を謀った。鄭伯は服従を誓い盟に加わった。

僖公九年(前651年)

  • 夏、葵丘で会盟し、旧盟を重ねて友好を修めた。周の宰孔が齊侯に胙(祭肉)を賜り、天子への拝礼を求めたが、齊侯は謙って拝礼を行った。
  • 秋、齊侯が諸侯と葵丘で盟を結んだ。宰孔は先に帰る途中、晋侯に「齊侯は徳よりも遠征に努め、覇業の絶頂は乱れの兆しだ、争いに加わらず国内の安定に努めよ」と語った。

僖公十三年(前647年)

  • 夏、鹹で会し、淮夷に苦しむ杞を助け、王室の安定を謀った。秋、戎の脅威のため諸侯が周を守備した。

僖公十四年(前646年)

  • 春、諸侯が縁陵に城を築き、杞をそこへ移した。

僖公十五年(前645年)

  • 春、楚が徐を攻めたため、荘公は齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・曹伯と牡丘で会し、葵丘の盟を重ねて徐を救った。

僖公十六年(前644年)

  • 荘公は齊侯・宋公・陳侯・衞侯・鄭伯・許男・邢侯・曹伯と淮で会し、鄫と東方経略を謀った。鄫の築城で疲弊した人夫が夜中に「齊で内乱」と叫んだため工事は中止された。

僖公十七年(前643年)

  • 齊侯の夫人(王姫・徐嬴・蔡姫)にはいずれも子がなく、多くの側室があった。長衞姫は武孟を、少衞姫は恵公を、鄭姫は孝公を、葛嬴は昭公を、密姫は懿公を、宋の華子は公子雍を生んだ。齊侯は管仲と諮り孝公を後継として宋襄公に託していたが、寵愛する雍巫(寺人貂を通じて公に取り入った)の働きで武孟の擁立を許した。管仲の死後、五公子はいずれも即位を望み、齊侯の死後、易牙と寺人貂は側近たちを殺して公子無虧を立て、孝公は宋へ逃れた。

僖公十八年(前642年)

  • 齊人は孝公を立てようとしたが四公子の勢力に敵わず、宋軍と戦った。宋は齊軍を甗で破り、孝公を立てて引き上げた。

僖公十九年(前641年)

  • 陳の穆公は諸侯に齊桓公の遺徳を忘れぬよう修好を呼びかけ、冬、陳・蔡・楚・鄭の人々が齊で会盟し、桓公の好誼を修めた。