春秋左傳事類始末宋、桓公を立てる(宋立桓公)

宋の水害への閔公の謙譲な対応を臧文仲が称えるが、その後南宮長万が乗丘の戦いでの辱めを恨みに閔公を弑逆し、公族が反撃して桓公(御説)を立てるまでの経緯。莊公十一・十二年(前683〜前682年)。

年表(2件)

莊公十一年(前683年)

  • 宋で大水害が起き、魯の荘公が見舞いの使者を送った。宋の閔公は「私の不徳のため天が長雨の災いを下した、かえってご心配をおかけした」と答えた。
  • 臧文仲は「宋はこれから興るだろう。禹や湯は自らを罪して国が興り、桀紂は他人を罪して急速に滅んだ。諸侯が凶事に『孤』と称するのは礼にかなっている。おそれと謙譲の言葉を用いる者はまず立派だ」と評した。後に、この言葉が公子御説(後の桓公)自身の発言だったと知り、臧孫達は「これは民を憐れむ心を持つ君主にふさわしい」と述べた。
  • 乗丘の戦い(十年の出来事)で、荘公は金僕姑という矢で南宮長万を射抜き、御者の歂がこれを捕らえた。宋の人々がその返還を求めると、宋の閔公は南宮長万を辱め「以前は敬っていたが、今や魯の捕虜だ、もう敬わない」とからかったため、長万はこれを深く恨んだ。

莊公十二年(前682年)

  • 南宮長万は蒙沢で閔公を弑逆し、公子游を立てた。蕭の叔大心と戴・武・宣・穆・荘の公族が公子游を宋で殺害し、桓公(御説)を立てた。