春秋左傳事類始末衛の急子・寿、相次いで死ぬ(急壽相死)
衞の宣公は急子の妃に自ら娶り寿・朔を得たため、宣姜と公子朔は急子を陥れて殺そうとし、寿子は身代わりとなって死に急子も後を追って殺された。二公子はこれを恨んで恵公(朔)を退け公子黔牟を立てるが、恵公は後に復位し二公子を殺した。桓公十六年(前696年)から莊公六年(前688年)までを描く。
年表(2件)
- 桓公十六年前696年寿子・急子が身代わりとなり相次いで殺される
- 莊公六年前688年恵公が復位し黔牟を追放し左右の公子を殺す
桓公十六年(前696年)
- 衞の宣公は父の側室・夷姜と通じて急子を生み、右公子に養育を託した。急子のために斉から妃を迎えたが、その美しさに宣公自身が娶ってしまい、寿と朔が生まれ、寿は左公子に養育を託された。
- 宣姜と公子朔は急子を陥れようと画策し、宣公は急子を斉へ使者として送り出させ、莘の地で盗賊に襲わせて殺そうとした。
- 寿子はこれを急子に告げ逃げるよう勧めたが、急子は「父の命に背いて逃げれば、父のいない国に行くことになる、それでは子として意味がない」として拒んだ。
- 出立の際、寿子は急子に酒を飲ませ、自ら急子の旗を掲げて先に赴き、盗賊に殺された。急子が後から到着し「自分こそ求められた者だ、この者に何の罪があるのか」と言うと、盗賊は急子も殺した。
- 二人の公子(左公子・右公子)はこれを恨み、恵公(朔)を退けて公子黔牟を立てた。恵公は斉へ出奔した。
莊公六年(前688年)
- 夏、衞侯(恵公)が復位し、公子黔牟を周へ追放し、寗跪を秦へ追放し、左公子洩・右公子職を殺して即位した。
- 君子はこれを評し、二公子が黔牟を立てたことは道理を欠いていたと論じた。地位を固める者は本末(正統と傍系)を弁えてから立てるべきであり、本を知らず末を謀っても長く保てないとし、『詩経』の「本と枝が百代にわたり栄える」の句を引いて戒めとした。