春秋左傳事類始末鄭、昭公・厲公の乱(昭厲之亂)
鄭の太子忽(昭公)は北戎を破る功をあげながら斉との婚姻を二度固辞するが、荘公没後に後ろ盾を欠いて祭仲に廃され、宋の圧力で厲公が立つ。以後、昭公の復位、高渠彌による昭公弑逆と公子亹の擁立、斉での公子亹誅殺、鄭子の擁立、厲公の櫟からの復帰と鄭子誅殺に至るまで、桓公六年(前706年)から莊公十六年(前678年)にかけて鄭の君位が激しく争われた顛末を描く。
年表(7件)
- 桓公六年前706年太子忽が北戎を破るが斉との婚姻を固辞する
- 桓公十一年前701年荘公が没し祭仲が後ろ盾のない厲公を立て昭公は出奔する
- 桓公十五年前697年厲公が祭仲暗殺を図るが露見し出奔、昭公が復位する
- 桓公十七年前695年高渠彌が昭公を弑し公子亹を立てる
- 桓公十八年前694年斉が公子亹を殺し高渠彌を車裂きにし祭仲が鄭子を立てる
- 莊公十四年前680年厲公が鄭に復位し鄭子を殺す
- 莊公十六年前678年厲公が雍紏の乱に関与した者を処罰する
桓公六年(前706年)
- 北戎が斉を攻め、斉侯は鄭に援軍を求めた。鄭の太子忽が軍を率いて斉を救い、戎軍を大敗させ、その将・大良と少良を捕らえ、甲冑をつけた敵兵の首級三百を斉に献じた。
- 太子忽がまだ斉と婚姻を結ぶ前、斉侯は娘の文姜を太子忽に嫁がせようとしたが、太子忽は「人にはそれぞれふさわしい相手がある、斉は大国で自分にはふさわしくない、『詩経』にも幸いは自ら求めるものとある、大国に頼る必要はない」と辞退した。君子はこれを「己の身の処し方をよく心得ている」と評した。
- 戎軍を破った後、斉侯が再び娘を娶らせようとしたが、太子忽はまた固辞した。理由を問われると、「斉に何の用もない時ですら受けなかったのに、今回は君命により斉の急を救っただけで、それで妻を得て帰れば、軍功によって婚姻を得たと言われる、民は自分を何と言うだろうか」と答えた。
桓公十一年(前701年)
- 鄭の昭公(太子忽)が北戎を破った際、斉人が改めて娘を娶らせようとした。祭仲は「主君(鄭荘公)には側室の子が多く、後ろ盾のないあなたは即位できないかもしれない、三公子はみな主君の子だ」と勧めたが、昭公は従わなかった。
- 夏、鄭の荘公が没した。かつて荘公は鄧曼を娶り昭公を生ませており、祭仲がこれを立てた。宋の雍氏の娘・雍姞は荘公に嫁ぎ厲公を生んでいた。雍氏は宋で寵愛を受けていたため、宋は祭仲を誘き出して捕らえ、「厲公を立てなければ殺す」と脅した。祭仲は宋人と盟約を結んで帰国し、厲公を立てた。昭公は衞へ出奔した。
桓公十五年(前697年)
- 祭仲が権勢を専らにしたため、厲公はこれを憂い、祭仲の婿・雍紏に暗殺を命じ、郊外で饗応してこれを行おうとした。
- 雍紏の妻・雍姫はこれを知り、母に「父と夫、どちらが親しいものか」と問うた。母は「男は誰でも夫になり得るが、父はただ一人、比べようがない」と答えた。雍姫はこれを祭仲に告げた。
- 祭仲は雍紏を殺し、厲公はその遺体を車に載せて国を出ながら「女に相談したのが間違いだった、死んで当然だ」と言った。
- 夏、厲公は蔡へ出奔した。六月、昭公が復位した。秋、鄭伯(厲公)は櫟の人々を頼って檀伯を殺し、櫟に居を構えた。
桓公十七年(前695年)
- かつて鄭伯(昭公の父・荘公)が高渠彌を卿に取り立てようとした際、昭公はこれを嫌って強く諫めたが聞き入れられなかった。昭公が即位すると高渠彌は自分が殺されるのを恐れ、昭公を弑して公子亹を立てた。
- 君子は昭公が高渠彌を疎んじたのは正しい判断だったと評した。公子達は「高渠彌はいずれ処刑されるだろう、悪事を重ねすぎた」と述べた。
桓公十八年(前694年)
- 秋、斉侯が首止に軍を駐屯させ、公子亹がこれに赴いた。高渠彌が随行し、斉人は公子亹を殺し高渠彌を車裂きにした。
- 祭仲は陳にいた鄭子を迎えて立てた。この時、祭仲は危険を察知して称疾し同行しなかった。人々が「祭仲は知恵で難を逃れた」と言うと、祭仲は「誠実に対応しただけだ」と答えた。
莊公十四年(前680年)
- 鄭の厲公が櫟から鄭を侵し、傅瑕を捕らえた。傅瑕は「命を助けてくれれば主君(厲公)を迎え入れる」と申し出て盟約を結び赦された。
- 六月、傅瑕は鄭子とその二子を殺し厲公を迎え入れた。
- かつて内蛇と外蛇が鄭の南門で争い内蛇が死んだが、六年後に厲公が入国した。隠公が申繻に「なお不吉な前兆はあるか」と問うと、申繻は「人が忌み嫌う気が凝って現れるもので、妖異は人の行いから生じる。人に隙がなければ妖異は自然には起きない、人が常道を捨てるから妖異が興る」と答えた。
- 厲公は復位すると傅瑕を殺し、原繁に使いを送り、「傅瑕は二心を抱いていたので既に罪を正した、自分を迎え入れて二心のない者は皆許す、上大夫の地位についてあなたと図りたい。自分が出奔していた間、あなたから内応の便りもなく、帰国した今も気にかけてもらえない、恨めしく思う」と伝えた。
- 原繁は「先君桓公は我が先祖に宗廟の祭器を司らせ社稷を守らせた、主君がいる限り他に心を寄せることこそ二心である。社稷を治める君主に対して民が臣とならぬはずがない、臣が二心を持たぬのは天の定めである。子儀(鄭子)は在位十四年、それを廃して主君を呼び戻そうと図ることこそ二心ではないか。荘公の子は他に八人もいる、皆が官爵で人を釣り二心を勧めて事を成そうとすれば、主君はどうするおつもりか」と答え、自ら縊死した。
莊公十六年(前678年)
- 鄭伯(厲公)は雍紏の乱に関与した者を処罰し、公子閼を殺し彊鉏の足を切った。公父定叔(叚の孫)は衞へ出奔したが、三年後に呼び戻され、「共叔(段)の家系を鄭で絶やしてはならない」として十月(良月とされ数が満ちる月)に入国させた。
- 君子は彊鉏が自らの足を守れなかったことを評した。