春秋左傳事類始末楚子、随を伐つ(楚子伐隨)
楚の武王は隨を侵し、鬬伯比の策で弱兵を見せて少師を増長させる。隨の季梁は民への忠と神への信を説いて開戦を諫め隨侯は一時政治を修めるが、桓公八年(前704年)に楚が再侵すると少師が主戦を主張して隨は速把の戦いに敗れ、少師は戦死、隨は楚と和睦した。
桓公六年(前706年)
- 楚の武王が隨を侵し、薳章を遣わして和平を求めさせ、瑕に軍を布いて備えた。隨は少師を遣わして交渉に当たらせた。
- 楚の鬬伯比は楚子に、「漢水東方で思うように振る舞えないのは自ら招いたこと。三軍を張り武備を誇示すれば漢東の国々は恐れて結束し離間しにくくなる。漢東最大の隨が力を誇示すれば小国は隨から離れ、それこそ楚の利になる」と進言し、少師の驕りに乗じて弱兵を見せてこれを増長させる策を提案した。
- 熊率且比が「(賢臣の)季梁がいる限り効果は薄いのでは」と懸念すると、鬬伯比は「後々の布石になる、少師は主君の信頼を得ているから」と答えた。楚は軍を弱く見せかけ少師を迎え入れた。
- 少師は帰国後に楚軍への追撃を進言し、隨侯もこれに応じようとしたが、季梁が「天が楚を助けようとしており、その弱さは我らを誘う罠だ、なぜ急ぐのか」と諫めた。
- 季梁は、小国が大国に勝てるのは道(民への忠と神への信)にかなう場合であり、上は民の利益を思うのが忠、祝史が正しい言葉を用いるのが信だが、今は民が飢えているのに君主が欲を満たし、祝史が偽って祭祀を報告している状況で、そのようなことでは勝てないと説いた。
- 隨侯が「牲は肥え、供物は豊富だ、何が不信なのか」と問うと、季梁は「民こそ神の主であり、聖王はまず民を安んじてから神を祀った。祭祀の言葉が真実であることが大切であり、農事の三時を害さず民が和し年が豊かであること、上下に誠実な心があること、讒言や邪心がないことこそ肝要」と答え、三時を大切にし五教を修め九族を親しみ祭祀を丁重に行えば民が和し神が福を降すが、今は民の心がばらばらで鬼神にも頼るべき主がなく、供物だけ豊かにしても福は得られないとし、政治を修め兄弟国と親しむよう勧めた。
- 隨侯は恐れて政治を修め、楚はしばらく攻めなかった。
桓公八年(前704年)
- 隨の少師が寵を得るようになると、楚の鬬伯比は「好機だ、逃すな」と進言した。夏、楚子は隨を攻め、漢水と淮水の間に布陣した。
- 季梁は降伏を申し出るよう勧めたが容れられず開戦となった。少師は隨侯に速戦を促し、隨侯は楚軍に応戦した。季梁は「楚は左を尊ぶので王は必ず左軍にいる、王とは戦わず、弱い右軍を攻めれば勝てる、一方が敗れれば全軍が動揺する」と進言したが、少師は「王と当たらねば対等でない」と反対しこれに従わなかった。
- 速把で交戦し、隨軍は敗北、隨侯は逃れたが、鬬丹が隨侯の戎車と御者を捕獲した。
- 少師も戦死し、隨は楚と和睦した。楚子は当初和睦を拒もうとしたが、鬬伯比が「天が隨の禍(少師のような佞臣)を除いた以上、隨はまだ滅ぼせない」と諫め、盟を結んで軍を引いた。