春秋左傳事類始末宣公、莒僕を納れ季文子は国外へ出す(宣公納莒僕季文子出諸竟)

莒の太子僕が父紀公を弑して宝玉とともに魯へ出奔し、宣公が受け入れて邑を与えようとしたが、季文子は即日国境の外へ追放させた。大史克が舜の登用した八愷・八元と追放した四凶の故事を引いて、その判断の正当性を説いた一件。

年表(1件)

文公十八年(前609年)

  • 莒の紀公は太子・僕を生み、また季佗をも生んだ。紀公は季佗を寵愛して僕を退け、僕もまた国内で多くの無礼な振る舞いをしていた。
  • 僕は国人の支持を得て紀公を弑し、宝玉を携えて魯に出奔し、それを宣公に献上した。宣公は僕に邑を与えるよう命じ、「今日中に必ず与えよ」と述べた。
  • しかし季文子は司寇に命じて、同じ日のうちに僕を魯の国境から追放させ、「今日中に必ず送り出せ」と告げた。宣公がその理由を尋ねた。
  • 季文子は大史克に答えさせた。大史克はまず、亡き先大夫・臧文仲が季文子(行父)に君に仕える礼を教えたことを述べ、行父はそれを守り続けてきたと説明した。その教えとは「君に対して礼をもって仕える者には、孝子が父母を養うように仕え、君に対して無礼な者は、鷹や鸇が鳥雀を追うように誅する」というものである。
  • 先君・周公が定めた周の礼には、「法にかなうことを徳とみなし、徳によって物事を処理し、事は功によって測り、功によって民を養う」とあり、また「誓命」には「規範を壊す者を賊とし、賊をかくまう者を藏とし、財物を盗む者を盜とし、祭器を盗む者を姦とする。盗んだ財を持つ者は藏の名を負い、姦を利用する者は大凶の徳を負う。これらは常に赦されない」とある(「誓命」以下の言葉はすべて今は失われた『九刑』の書による)。
  • 大史克はさらに続けた。「還りて莒僕の人となりを観察したが、見るべきところは何もなかった。孝・敬・忠・信は吉徳であり、盗・賊・藏・姦は凶徳である。莒僕は、孝敬の点では自らの父君を弑し、忠信の点では宝玉を盗んだ。その人となりは盗賊そのものであり、その行いは姦そのものである。彼を庇い利するならば、盗品を蔵匿するに等しく、彼を手本とすれば民を惑わせる。彼は善に適うところが一つもなく、凶徳のみを備えているため、追放したのである」。
  • 大史克はさらに上古の故事を引いて説明を続けた。昔、高陽氏(顓頊)には八人の有能な子(いずれも顓頊の子孫)がいた。蒼舒・隤敳・檮戭・大臨・尨降・庭堅・仲容・叔達(後の垂・益・禹・皐陶らに当たるとされる)で、皆聡明で度量広く、誠実であった。世の人々は彼らを「八愷」(愷は和の意)と呼んだ。
  • また高辛氏(帝嚳)にも八人の有能な子がいた。伯奮・仲堪・叔獻・季仲・伯虎・仲熊・叔豹・季貍(後の稷・契・朱虎・熊羆らに当たるとされる)で、忠実・謹厳・協調・温和であった。世の人々は彼らを「八元」(元は善の意)と呼んだ。
  • この十六氏族は代々その美徳を保ち続け、堯の代に至った。堯はこの者たちを登用できなかったが、舜が堯に仕えるに及んで、八愷を登用して土地行政を司らせると万事が順調に進み、八元を登用して五教(父の義・母の慈・兄の友・弟の恭・子の孝)を四方に広めさせると、国内外がよく治まった。
  • 一方、昔、帝鴻氏には不肖の子がいた。正義を隠し、悪事に手を貸し、凶悪な行いを好み、悪人と徒党を組んで人と交わろうとしなかった。世の人々は彼を「渾敦」と呼んだ。
  • 少皥氏にも不肖の子がいた。信を破り忠を捨て、悪しき言葉を飾り立て、静かに人を讒言し、讒言を働いて悪事を隠し、徳のある人を欺いた。世の人々は彼を「窮竒」(驩兜・共工に当たるとされ、その行いは塞がり、その好みは奇怪であった)と呼んだ。
  • 顓頊氏にも不肖の子がいた。教え導くことができず、まともな言葉も理解せず、告げても頑なで、赦しても傲慢であり、自ら明徳を装いながら天の道理を乱した。世の人々は彼を「檮杌」(鯀に当たるとされ、頑迷で凶暴、比べるものがないほどの悪評であった)と呼んだ。
  • この三族は代々その悪をつのらせ、堯の代になっても堯はこれを除くことができなかった。
  • また縉雲氏(黄帝の時代の官名)にも不肖の子がいた。飲食に貪欲で財貨を欲しがり、驕り高ぶって満足を知らず、際限なく蓄財し、孤児や寡婦を顧みず、困窮者を助けなかった。世の人々は彼を先の三凶と並べて「饕餮」(財を貪るを饕、食を貪るを餮という)と呼んだ。
  • 舜は堯に仕えた際、四方の門で賓客を迎え、この四凶族(渾敦・窮竒・檮杌・饕餮)を四方の辺境に追放し、山川の悪霊を防がせた。これにより堯が崩じても天下は心を一つにして舜を天子と仰いだ。舜が十六人の賢臣を登用し、四凶を退けたためである。
  • そのため『虞書』は舜の功績を「五典を慎んで広め、五典がよく守られた」(教えに背くことがなかった)、「百官を統べ、百官がよく秩序立った」(政務が滞ることがなかった)、「四方の門で賓客を迎え、四門は厳粛であった」(凶悪な者がいなかった)と記す。舜はこうして二十の大きな功績を挙げて天子となった。
  • 大史克は最後に「今、行父(季文子)はいまだ一つの善事も成し遂げてはいないが、一人の凶悪な者(莒僕)を退けたことは、舜の功績の二十分の一に相当する。これによってどうにか咎めを免れられるであろう」と結んだ。