春秋左傳事類始末陳、鄭と講和する(陳及鄭平)
陳侯は五父の諫めを聞かず鄭との和平を拒んで敗戦を招くが、翌年になって陳鄭は和平を結ぶ。しかし盟約に臨む陳の五父の態度が疎略であったことから乱の兆しが見抜かれ、後に陳侯の子・佗が太子を殺して位を奪い、蔡人に殺される顛末に至る。隱公六年(前717年)から桓公六年(前706年)までを描く。
隱公六年(前717年)
- 鄭伯が陳を侵して大いに戦果を挙げた。前年、鄭伯は陳に和平を求めたが陳侯は許さなかった。
- 家臣の五父は「仁と親しみ隣国と善くするのは国の宝である、鄭の求めを許すべきだ」と諫めたが、陳侯は「宋・衞こそ脅威であり、鄭など恐れるに足りぬ」として拒んだ。
- 君子はこれを評し、善は逃さず悪は増長させてはならぬと述べ、陳の桓公が悪を改めずに自ら禍を招いたことを論じた。
史論(君子)
- 善機を逃さず、悪の芽は早く摘むべきとし、『商書』の「悪の広がりは野火のようで、近づけぬほどでも初期なら消せる」との句、周任の「国を治める者は農夫が雑草を除くように悪を根絶やしにすべき」との言を引いて、陳の桓公が悪を改めず自滅したことを戒めとした。
隱公七年(前716年)
- 陳と鄭は和平を結んだ。陳の五父が鄭へ赴き盟約の儀に臨んだが態度が疎略だった。洩伯は「五父はきっと禍を免れない、この盟いに誠意がない」と評した。
- 鄭の良佐が陳へ赴き盟約に臨んだが、彼もまた陳が乱れつつあることを見抜いていた。
桓公五年(前707年)
- 春、陳侯の鮑が没し、文公の子・佗が太子の免を殺してその地位を奪った。
桓公六年(前706年)
- 蔡人が陳佗を殺した。