樵史通俗演義第四十回 羅公山に李闖遂に滅び、杭州路に馬相潜かに奔る (羅公山李闖卒滅 杭州路馬相潛奔)

揚州陥落、史可法の最期

  • 清軍は揚州新城を陥落させ、旧城にも降伏を呼びかけたが史可法は応じず籠城を続けた。四日目、清の将は黄総兵の援軍と偽って城門を開かせ、清兵を突入させて虐殺を行った。
  • 史可法は事態を悟り自刎しようとしたが総兵劉肇基に止められ、北門の城壁から縋り降ろされて数騎とともに脱出し、その後の消息は知れなくなった。

羅公山、李自成の最期

  • 李自成は清・呉三桂連合軍に敗れ、甥の李過(一隻虎)や残兵十余万を率いて湖広を経て黔陽に至り、羅公山に三塁を築いて長期駐留の構えを見せた。
  • 兵糧不足のため劉宗堯・劉国能らを河南・湖広境へ、辛思忠・楊彦らを近隣へ、それぞれ略奪部隊として派遣した。
  • 李自成は寵愛する竇氏(後宮出身、正宮に冊立)に溺れる一方、悪夢にうなされて崇禎帝や旧臣の亡霊に追われる幻を繰り返し見るようになり、心身を病んで寝込んだ。
  • 病床の李自成は甥の李過が竇氏と密通する現場を目撃して激昂したが、その夜のうちに悪夢にうなされたまま息絶えた。
  • 竇氏は李過に迎えられ、粗末な棺で急ぎ羅公山に葬られた李自成の後を追うように、李過と関係を結んだ。李過は皇位を継ぐことをためらい、諸将(賀錦・牛佺・任継栄・劉体仁ら)と協議した結果、大勢は既に定まったとみて湖広巡撫何騰蛟に降伏した。

弘光帝と馬士英の逃亡

  • 揚州陥落の報が届いても馬士英はなお左良玉への警戒を優先し、防備は後手に回った。清軍の渡江が迫る中、南京では黔兵の暴行や物資の私物化が横行し、揚州からの報せも途絶えた。
  • 南京の門柱には馬士英・阮大鋮の失政を風刺する対聯が相次いで貼られた。
  • 黄得功は左夢庚との戦いで負傷しながらも大勝し靖国公に封じられたが、劉沢清は浦口に留まったまま動かず、朝政は混乱を極めた。
  • 五月九日、清軍が長江を渡り始めると、楊文驄は私財を守って早々に杭州へ逃げ、諸官も次々と便服に着替えて蘇州・松江方面へ逃走した。
  • 清軍渡江の報を受けた弘光帝は、なお梨園子弟を集めて酒宴を催し「馬士英が皇帝にしてくれたのだから、楽しめるうちに楽しむ」と享楽に耽り、その夜、太后や妃らを連れて密かに通済門から出奔した。
  • 禮部尚書銭謙益が馬士英邸を訪ねると、馬士英も母(実は太后と偽って連れ出す)と一族・家丁を引き連れ出奔するところであった。

逆党の末路

  • 吏部尚書張捷は雞鳴寺で縊死、中書舎人龔廷祥は投河、陳爊父子・呉嘉胤は自宅で自縊した。楊維垣は妾二人を殉死させて偽装の柩を用意し、自らは夜逃げの末、何者かに殺害され犬に食われる無残な最期を遂げた。
  • 弘光帝は太平府から蕪湖へ逃れ、黄得功に迎えられたが、朱大典・方国安らと杭州行きを議す中、劉良佐率いる清軍に追撃され、黄得功は矢を受けて自刎、翁之琪も投水して殉じた。
  • 阮大鋮は方国安に兵を託して先に杭州へ向かわせようとしたが、南京に戻る途中、偽太子を擁立した民衆が自邸を含む馬・阮一派の屋敷を襲撃し、二十四人の妾がさらわれたことを知り、慟哭して杭州へ逃れた。
  • 馬士英は母を太后と偽って護送し、広徳州が抵抗すると武力で攻め落とし、安吉では知州黄翼聖を脅して恭順させた。浙江巡撫張秉貞も太后の真偽を疑いつつ杭州へ迎え入れた。道中の家丁が歌う俗謡は、弘光帝の逃亡や黄得功の死、劉孔昭・劉良佐の裏切りを揶揄する内容であった。
  • 方国安の兵は独松関を過ぎて略奪・暴行を繰り返し、余杭県では老婆が兵に凌辱される事件も起きた。
  • 馬士英は杭州で潞王に即位を勧めたが拒まれ、北新関の防備を巡る秀才沈乗の献策が住民の反発を招き、沈乗は民衆に打ち殺された。身の危険を悟った馬士英は姻戚の楊文驄と謀り、偽の太后・家族・黔兵を連れて銭塘江を渡り温州・台州方面へ落ち延びていった。方国安もこれに続いて渡江した。

評語

  • 巻末の詩は、南京の山河が魏忠賢・崔呈秀・馬士英・阮大鋮ら奸臣の手によって荒廃したことを嘆き、栄華の跡が一夜にして涙に変わった無常を詠んでいる。