樵史通俗演義第三十五回 先太子、真贋分かち難く、権尚書、鋒芒太だ露る (先太子真贗難分 權尚書鋒芒太露)

大悲和尚事件の決着

妖僧大悲が定王を詐称した一件は刑部の拷訊で偽りと判明し、都城隍廟での合同審理でも詐冒の破綻が露わになり、西市で斬首された。折しも太子が浙江に潜んでいるとの噂が伝わり、弘光帝は驚いた。阮大鋮は馬士英に、天子自ら密使を送って太子を南京に召し、先に先帝の太子と永王・定王に諡号を賜って人心の望みを絶つべしと献策し、弘光はこれを了承した。

「太子」金華で発見される

高起潜の甥高夢箕が太子が浙にいると密奏し、弘光は旧東宮内官李継周を遣わした。李継周は杭州から金華の観音寺で「太子」を見つけ、六七分の面影を認めて跪き挨拶するが、当人は李継周の姓名すら覚えていなかった。金華・杭州の官員が続々と参謁する中、南京へ護送され、迎えた張・王の内官が抱きついて慟哭するも太子は誰とも見分けがつかない様子だった。弘光は真偽を疑い、譲位の可否は自分が決めると激怒し、張・王両内官と李継周を死罪とした。

与善寺での対面と獄への移送

督営の盧太監が対面しても真偽は判然とせず、「太子」は太監が太っていることを咎めるなど要領を得ぬ受け答えをした。盧太監は真偽不明のまま警護を厳にするよう命じ、やがて文武官の私謁は禁じられ、「太子」は宮中へ移された。三月三日、阮大鋮の密書を受けた馬士英の奏上により「太子」と従者高成らは中城兵馬司の獄に投じられた。獄中でも太子は要領を得ぬ言動を繰り返しつつ、太祖・先帝を祀って慟哭する場面もあり、人々は涙した。

「王之明」説と会審

左都御史楊維垣は「駙馬王昺の甥王之明が先太子に酷似する」と言い出し、給事中戴英もこれを裏付ける上奏をした。大明門外での会審で、「太子」は北京宮殿の見取り図を正しく指し示す一方、講官劉中允の問いには答えず「偽物と言うなら偽物でよい、もとより皇位を奪う気はない」と述べた。戴蕃俊は東宮としての受け答えの不備を指摘し、法司の厳究を求めた。密奏では「東宮の脛には特徴があるはず」との情報も寄せられ、弘光は馬士英に真偽の見極めを命じた。馬士英は多くの疑わしい点(虎口を脱しながら即座に名乗り出なかったこと、人物像の違い、公主の生死の食い違いなど)を挙げつつ、真であれば深宮に留め置き外に封じてはならぬと具申した。

「王之明」の確定と釈然としない世評

方拱乾らも加わった再会審で、「太子」は方拱乾を見分けたが、張孫振の「お前は王之明か」との問いには「自ら東宮と名乗ったことはない、召し出されて来ただけだ」と答えた。刑部尚書高倬・給事中戴英は「王之明と認めたなら審理無用」として刑部の牢に戻した。供述では高陽の王之明・王鼎孫と称し、高夢箕の家人穆虎に唆されて東宮を詐称したとされたが、皇城の壁には真偽を疑う匿名の詩が書かれるなど、世論は割れたままだった。弘光は「朕に子なし、真の東宮なら跡継ぎとする」と涙したが、高夢箕自身も真偽を測りかね「奸謀露見」と上奏、都察院は「王之明詐称」を布告したが、信じる者と信じぬ者が入り混じった。

阮大鋮の暴虐と郭維経の遭難

阮大鋮は江上の混乱に乗じ、善人悪人の別なく捕らえて酷刑を加え、江北一帯を騒然とさせた。かねて文震孟や温体仁の諡号問題でも東林への意趣返しを図り、朝臣の不満を招いた。都察院の郭維経は阮大鋮と不和で病を理由に辞職・帰郷する途中、長江で賊船に襲われ財を奪われた末に江へ落とされ生死不明となり、世人は阮大鋮の差し金かと噂した。

廬州の危機と阮大鋮の得意

廬州巡撫張亮は闖賊の軍勢三方から迫るとの急報を発し、援軍を求めたが弘光は許さなかった。阮大鋮は軍情を口実に朝廷に居座り、李自成配下の劉体仁が湖広へ去ったのを幸いに得意げに振る舞った。