樵史通俗演義第三十四回 史可法、屢々疏して国を籌り、阮大鋮、明らかに翻案を謀る (史可法屢疏籌國 阮大鋮明謀翻案)

弘光元年の除目と馬士英の専横

弘光元年正月元旦、馬士英は次々と官の任命・免除を上奏し、弘光帝はことごとく許可した。その中には馬士英が縁故で登用した者と賄賂で用いた者が入り混じり、皇帝は名ばかりで実権は馬士英が握っていた。

許定国による高傑謀殺

史可法は清の豫王が渡河南下しているとの報を受け、高傑らに防備を命じた。かつて高傑に一族を殺された許定国は、表向き和解していたが、高傑が睢州に来ると宴に招いて酒席で謀殺した。許定国はその後朝廷の咎めを恐れ清に投降した。高傑夫人邢氏は事態を史可法に報告、史可法配下への提督設置を求めたが弘光は許さず、黄得功が高傑の遺領を奪おうとする動きも史可法の仲裁でようやく治まった。

江北の兵糧不足と史可法の上奏

江北の軍糧は逼迫し、鄭采が両淮運司の銀を横取りするなど混乱が続いた。史可法は淮揚両関の税を諸鎮で分配する案を上奏するも馬士英に握りつぶされ、戸部の再三の上奏でようやく許可された。さらに史可法は北使との和議が破れたことや、藩鎮同士の私怨による内紛を戒め、皇帝が先帝の恩を思い将士を励ますべきことを説く上奏を行ったが、馬士英は阮大鋮に惑わされて正論を退け、票も批もせぬまま放置した。

弘光帝の淫楽と馬・阮の専権

馬士英・阮大鋮は童男女を弘光帝に献じて歓心を買い、宮中での酒宴で弘光が童女を死なせる事件も起きたが誰も咎めなかった。阮大鋮は兵部侍郎として江防を任じられながら実際は馬士英と結んで朝政を左右し、同年の蔡奕琛も入閣した。二月、弘光は阮大鋮に蟒龍玉帯を賜り、大鋮は得意満面で東林・復社を罵り自らの栄達を誇示した。

阮大鋮の縁故登用と逆案の復活工作

阮大鋮は馬士英に取り入り同郷・縁者の越其傑・田仰・楊文驄らを要職に就け、自らも息子や楊文驄の子を統兵の任に就けさせた。さらに楊維垣に「三朝要典」の復活と、王之寀・孫慎行・楊漣らを断罪する内容の上奏をさせ、逆案(魏忠賢一派の断罪)の見直しを図った。弘光はこれらをことごとく許可した。

童生納銀の強制と反発

馬士英は軍費調達のため童生に銀納を課したが、州県では半納半考など抜け道が広まり、次第に誰も納めなくなった。阮大鋮は復社の若者が煽動していると断じ、馬士英は溧陽知県李思謨を処罰しようとしたが、李思謨は潔く辞職し、人々はこれを称えた。

阮大鋮の兵部尚書昇進と東林弾圧の激化

阮大鋮はほどなく兵部尚書に昇進し、逆案被害者への恤典を求める上奏をさせた。礼部尚書顧錫疇は讒言により罷免され、文震孟の諡号を巡る論争も起きた。阮大鋮は復社文人の書物を扱う書坊の主人蔡益所を投獄して死なせ、吳応箕は難を逃れて広東へ、文震孟も官を辞して郷里に帰った。馬士英はもともと魏党ではなかったが、阮大鋮・張捷・楊維垣らに主導権を奪われ、正人君子は排斥されて名ばかりの官に甘んじ、馬士英自身も孤立していった。

評語

作者は、天が明に亡国の兆しを与えたのは闖賊の弑逆のみによるものではなく、阮大鋮のような姦臣を残し国を滅ぼす奇禍を招いたことにあると論じている。