樵史通俗演義第三十三回 忠臣を褒め権相は公に市い、爰書を定め法司は逐わる (褒忠臣權相市公 定爰書法司被逐)

史可法の海運船活用

史可法は淮揚に駐屯し、兵糧の不足に苦慮していた。海運に長けた沈廷揚が督理していた大量の米穀と海運船が、崇禎帝崩御の報で海口に足止めされていたが、高傑の背反の動きを受けて史可法の陣地に留め置かれることとなり、後に弘光の命で史可法・劉沢清・鄭鴻逵の軍糧に充てられた。江南巡撫鄭瑄は沈廷揚の従弟沈虎文らを起用し、鄭鴻逵らと共に鎮江で高傑の謀反に備えた。

高傑の招撫

弘光帝は史可法に高傑の招撫を命じ、高傑は史可法を廟に軟禁して脅し、加封と兵糧一万石を要求。史可法はやむなくこれを上奏し許可され、高傑はようやく礼を尽くして史可法を解放し、鄭瑄らも蘇州へ引き上げた。

殉難者への贈謚と褒賞

高傑ら藩鎮に朝廷を軽んじる動きが出たため、馬士英は「忠臣に贈蔭なく降臣に誅戮なくば忠を勧められぬ」と上奏し弘光の許しを得た。礼部尚書銭謙益らが北京で殉難した文臣二十二人・勲臣二人・戚臣一人を選び、范景文・倪元璐・李邦華ら多数に諡号と祭葬・南京旌忠祠への合祀が決定された。さらに劉一燝ら先朝で未諡だった十一人にも追贈が行われた。阮大鋮ら東林弾圧派がありながらこの褒賞が実現したのは、馬士英がなお公論に配慮していたためであった。他にも在京殉難の下級官員や在家で節を守った生員らが忠臣祠に合祀された。

偽太子事件(大悲和尚)

刑部尚書解学龍らが偽職を受けた官員の審理を進める中、水西門外で自ら「親王」と名乗る僧が現れる騒動が起きた。都督蔡忠が捕らえて尋問すると、僧は「定王で法名大悲、潞王を立てるべし」と主張して弘光に譲位を迫ったが、供述は要領を得ず、自ら書き取らせた上で処断は先送りとなった。

偽官審理と解学龍の失脚

刑部の偽官審理は解学龍が私心なく公平を期し、賊への服従にも軽重があるとして六等に分けて量刑を定めたが、弘光は繰り返し差し戻して再審を命じた。保国公朱国弼や御史張孫振らは審理の甘さを批判し、馬士英の意を受けて解学龍は罷免、大理寺卿姚思孝も減俸となった。京師では「賄賂を贈らねば従逆でなくとも罪を免れぬ」と噂されたが、逃げ帰った諸臣は家財を失い賄賂を贈る余裕もなかった。解学龍の罷免後、高倬が刑部尚書に昇進した。

評語

作者は、真の忠義は名分だけで測れず、権相の恣意による褒賞・処断の乱れが人心を惑わせたことを嘆いている。