樵史通俗演義第二十五回 范銓部、中州の撫に抜擢され、申巡撫、枢部に進秩す (范銓部超撫中州 申巡撫進秩樞部)

賢臣の相次ぐ登用

  • 『三朝要典』焼却を機に朝廷は一新され、楊維垣・霍維華ら残存の魏党は次第に失脚。崇禎帝は各官の推薦に基づき、李思誠・袁崇煥・文震孟・林釺・姜日広・王永光ら多数の人材を復官・起用し、天啓年間に罷免された官員の名簿を洗い直させた。

范景文、河南巡撫に

  • 名将として名高い孫承宗・熊廷弼はすでに魏忠賢の陥穽で失脚・処刑されており、朝廷では范景文・申用懋の登用が議論される。范景文は都察院右僉都御史・河南巡撫に抜擢され、着任するや河南名物の精鋭「毛兵」の訓練を怠っていた兵巡道・楊嗣昌を戒め、軍備強化に努めた。

申用懋、兵部を動かす

  • 山海関外の異変が続く中、兵部尚書・王洽は鈍重で辺境の情報を軽視していた。崇禎帝は先朝の実務家・申用懋を兵部左侍郎に抜擢するが、王洽との折り合いは悪く、申用懋の警告(後金との和議の裏を疑うべしとの進言)も聞き入れられなかった。
  • 十一月、後金軍が馬蘭峪から侵入し遵化を陥落させると、王洽は答弁できず投獄され、申用懋が兵部尚書に昇進して防戦の指揮を執ることとなった。申用懋は各地の巡撫に勤王を檄し、特に范景文(河南)と梅之煥(甘粛)には親書を送った。

范景文の出兵決意

  • 檄文を受けた范景文は、京師の危急を知り、巡道・楊嗣昌の慎重論を退けて自ら教場で兵を選び、勤王の兵を挙げようとする。腹心の中軍官・蔡忠を乞食に変装させ、書状と銀を綿入れに縫い込んで京師の情勢を探らせた。
  • 兵と決意を固めた范景文に対し、楊嗣昌は老親を理由に同行を渋るが、范景文は自ら出陣する構えを見せ、楊嗣昌には兵站の手配のみを命じた。事の成り行きは次回へ続く。