樵史通俗演義第二十回 文武の才、甘粛の撫に推され、彪虎の党、爰書に罪を定む (文武才推撫甘肅 彪虎黨定罪爰書)
客氏への総括
- 魏忠賢・崔呈秀は死後もそれぞれ凌遅・斬首の辱めを受けたが、客氏だけは遺体が見つからず全身のまま死を終えた。ただし彼女も生前多くの善良な官を害してはいなかったため、これも一種の因果応報であると語られる。
梅之煥の登用
- 崇禎改元後の二月、崇禎帝は平臺で内閣・九卿と対話した際、毛士龍を高く評価しつつ出仕しないことを惜しみ、あわせて文武両全の士として名高い梅之煥のその後を尋ねた。
- 施鳳来が答えるに、梅之煥は南贛巡撫の任にあったが服喪で辞し、その後魏忠賢の恨みを買って(楊漣への連座、党人による誣告など)官籍を剥奪されていたという。
- 崇禎帝は梅之煥の才を惜しみ、辺境の要地である甘粛の巡撫に任じるよう即決し、勅書には「便宜行事」の四字が特に加えられた。
- 梅之煥は湖廣麻城県で門人に講義していたところ、突然の起用の報を受け、単身赴任の途に就いた。道中、陝西の官民が盛大に出迎え、その威勢は軍門にふさわしいものであった。
甘粛での軍功
- 赴任後、楊総兵が病に苦しむ辺兵に乗じて功を立てようと持ちかけたが、梅之煥は病人につけ込む戦は不義であるとして退けた。
- 赴任一月後、実際に辺兵が嘉峪関に侵入すると、梅之煥は楊総兵と共に挟撃してこれを大破し、将兵多数を討ち取り、以後辺境は侵犯されなくなった。この功により梅之煥は文武両全の士として天下に知られることとなった(詩:危険を冒して自ら出陣した働きを称える)。
- さらに梅之煥は将兵の整理・淘汰を上奏し、無用な将官十八名・兵二千五百を削減して人材を募り直すなど、辺防の立て直しに努めた。
五虎・五彪の断罪
- 戸科給事中の李覚斯が、魏忠賢の残党である「十孩児」「五虎」「五彪」の悪行を弾劾する上奏を行った。
- 刑部・都察院・大理寺の連名審理により、李夔龍・呉淳夫・倪文煥・田吉(五虎)は収賄などの罪により追贓のうえ辺境の衛所へ充軍、田爾耕・許顕純(五彪の首魁)は原籍での監候処決、崔応元・楊寰・孫雲鶴は辺境への充軍と裁定され、崇禎帝の裁可を経て執行された(詩:権勢に頼った者たちが結局は自らを陥れたことを詠む)。
張瑞図の失脚
- 五虎・五彪の処断を経て、なお在朝・在籍の楊維垣・阮大鋮ら魏忠賢一党への追及の声が上がっていたが、崇禎帝は慎重を期して即断しなかった。
- ある日、崇禎帝が贓罰庫で没収品を検分していた際、次相張瑞図が魏忠賢に贈った祝賀の屏風に自筆で揮毫していたことを知り激怒した。
- 翌日崇禎帝は、張瑞図が逆党に通じ阿諛の品を贈ったことを咎めつつも、大臣を軽々に処断すれば人心が服さないとして、寛大に官籍剥奪のうえ帰郷させるにとどめた。当代随一と謳われた文人であった張瑞図も、権奸への追従の代償として失脚することとなった。