蜀鑑西南夷の始末(下)(西南夷始末下)

唐一代の西南夷、とりわけ南詔と、あわせて蜀に侵入した吐蕃の始終を年次順に記す篇。高祖が爨氏を昆州刺史としたところから、太宗・高宗期の西洱河経略、吐蕃の安戎城占拠、玄宗期に皮邏閣が六詔を併せて南詔となり、鮮于仲通・李宓の大敗で唐に叛して吐蕃に付き、徳宗期に韋皋が異牟尋を招いて吐蕃を挟撃し、文宗期の李徳裕の辺備と維州の返還論争を経て、懿宗期に南詔が成都を囲み、高駢が大渡河で破って和を結ぶまでの約二百六十年間を扱う。

年表(30件)
  • 唐武徳元年618年高祖が爨翫の子の弘達を昆州刺史とし、西爨の部落が帰降する
  • 武徳七年624年韋仁寿が西洱河まで巡行し、七州十五県を置いて豪帥を刺史とする
  • 貞觀二十二年648年梁建方が松外の諸蛮を討ち、七十余部を降して首領が入朝する
  • 髙宗
  • 永徽二年651年趙孝祖が白水蛮を討ち、大雪もあって蛮はほぼ死に絶える
  • 麟徳元年664年昆明の弄棟川に姚州都督府を置く
  • 永隆元年680年吐蕃が安戎城を落として拠り、西洱の諸蛮がみな吐蕃に降る
  • 武后垂拱五年689年陳子昂が雅州から山を開く役を諫め、この出兵は取りやめとなる
  • 聖厯元年698年張柬之が姚州の戍の廃止を請うたが容れられない
  • 睿宗
  • 景雲元年710年李知古の苛政に諸蛮が吐蕃を引き入れて殺し、姚嶲への道が絶える
  • 開元二十六年738年王昱が安戎城を攻めたが吐蕃の救援に大敗する
  • 開元二十八年740年章仇兼瓊が内応を得て安戎城を奪回し、平戎と改める
  • 天寳十載751年閣羅鳳が叛いて雲南を落とし、鮮于仲通が西洱河で大敗する
  • 天寳十三載754年李宓の七万が太和城で糧尽きて壊滅し、南詔は吐蕃に臣従する
  • 天寳十四載755年安禄山の乱に乗じ南詔が会同軍を落とし清渓関に拠る
  • 代宗
  • 廣徳元年763年吐蕃が松・維・保の三州を落とし、剣南西山の諸州を奪う
  • 大厯十四年779年吐蕃と南詔の二十万が三道から侵入し、李晟が大渡河まで撃退する
  • 徳宗
  • 貞元三年787年鄭回の説得で異牟尋が内附を求め、韋皋が招撫を奏する
  • 貞元四年788年崔佐時が羊苴咩城で異牟尋と盟い、吐蕃の使者を攻め殺させる
  • 貞元五年789年韋皋が台登谷で吐蕃を破り、嶲州の境をすべて回復する
  • 貞元十年794年異牟尋が神川で吐蕃を大破し、鉄橋など十六城を取る
  • 貞元十七年801年韋皋が九道に兵を分けて雅州で吐蕃を大破し、論莽熱を捕らえる
  • 文宗
  • 大和三年829年王嵯顛の南詔軍が成都に侵入し、子女工人数万を掠めて去る
  • 太和五年831年維州副使悉怛謀の降伏を牛僧孺の議で退け、吐蕃に送り返して誅させる
  • 太和六年832年李徳裕が仗義・禦侮・柔遠の三城を築き、辺備と漕運を整える
  • 宣宗
  • 大中十三年859年酋龍が皇帝を称して国号を大礼とし、播州を落とす
  • 咸通四年863年南詔が交趾を落とし、経略使の蔡襲が戦死する
  • 咸通七年866年高駢が南詔の蛮を大破し、交趾を回復する
  • 咸通十一年870年南詔が成都を包囲したが、顔慶復らの援軍に敗れて退く
  • 僖宗
  • 乾符二年875年高駢が大渡河まで追撃して大破し、諸城柵と羅城を修築する
  • 乾符四年877年酋龍が死に、子の法が和を請うたので許す

序(本篇の趣旨)

  • 吐蕃と南詔は唐にとって深刻な患いであり、その害は蜀だけにとどまらなかった。
  • 天宝の初め、天下を十道に分けたとき、剣南節度は西で吐蕃を防ぎ、南で蛮獠を懐柔し、益州に治所を置いて六軍を統べ、十二州の境を守った。その責任は重い。
  • そこで南夷の始めから終わりまでを順に記し、あわせて蜀に侵入した吐蕃のことを付載する。

唐武徳元年(618年)

  • 西爨の蛮である爨弘達を昆州刺史とした。
  • 両爨の蛮は、曲州・靖州から西南の昆州・曲軛・晋寧・喩献・安寧を経て龍和城に至るまでを西爨(白蛮)と呼び、弥鹿・升麻の二川から南の歩頭までを東爨(烏蛮)と呼ぶ。territoryは二千余里に及び、駿馬・犀・象・明珠を多く産した。
  • 隋末に爨翫が入朝したところ文帝に誅され、その子らは奴とされた。唐の高祖は即位すると子の弘達を昆州刺史とし、父の遺骸を持ち帰って葬らせた。益州刺史の段綸が使者を送って説諭したので、その部落はみな帰降した。

武徳四年(621年)

  • 昆弥が使者を送って内附した。昆弥とは漢の昆明で、西洱河(葉楡河)を境とする。
  • 嶲州治中の吉弘緯が南寧を通ってその国に至り、説得して帰降させた。以後、毎年牂柯の使者とともに来朝するようになった。

武徳七年(624年)

  • 韋仁寿を検校南寧州都督とした。
  • それまで西南夷の内附に際して派遣された使者は貪欲で放縦な者が多く、遠方の民は苦しんでいた。
  • 仁寿は兵五百を率いて西洱河に至り、数千里を巡行した。蛮夷は風を望んで帰服した。
  • 仁寿は勅命を承けて七州十五県を置き、それぞれの豪帥を刺史に任じた。蛮夷は喜んで服し、子弟を入貢させた。帝は大いに喜び、仁寿に南寧へ鎮を移して兵を置かせた。

太宗貞觀三年(629年)

  • 蛮の酋長謝元深が来朝した。西爨の南、黔州の西三百里に東謝蛮がいる。
  • この年、東謝の酋長謝元深と南謝の酋長謝強が来朝したので、東謝を応州、南謝を荘州として黔州都督に属させた。牂柯の酋長謝能羽と充州の蛮も入貢したので、牂柯を牂州とした。
  • 中書侍郎の顔師古がこれを機に上言した。周の武王の時、遠国が入朝したのを太史が記して「王会篇」としたが、いま蛮夷が入朝し、元深のように冠服がそれぞれ異なっているので、これを描いて「王会図」とすべきだと。詔してこれを許した。

貞觀二十二年(648年)

  • 西洱河の大首領楊同外らが入朝した。
  • 松外蛮はなお数十部あり、大きいもので五六百戸、小さいもので二三百戸、姓は数十を数え、趙・楊・李・董が大族であった。それぞれ山川を占拠して統一した君長を持たない。城郭・文字があり、暦数も知る。夜郎・滇池以西はみな荘蹻の後裔である。稲・麦・粟・豆・絹・麻・薤・蒜を産し、十二月を歳首とする。
  • 嶲州大都督の劉伯英が上疏し、松外の諸蛮はいったん服してもすぐ叛くので討つべきであり、西洱河から天竺への道も通じられると述べた。
  • 太宗は梁建方に蜀の十二州の兵を発して討たせた。酋帥の双舎が拒み戦って敗走し、殺獲は十余万に及んだ。諸蛮は震え上がって山谷に逃げこもった。
  • 建方は七十余部・十万九千戸を降伏させ、首領の蒙和を県令とした。残る人々も感じ入って喜んだ。
  • 西洱河の蛮は河蛮ともいい、朗州からの道で三千里ある。建方は奇兵を嶲州の道千五百里から不意に突入させ、その帥の楊盛を大いに驚かせた。建方が軍を整えて帰ると、大首領の楊同外・楊剣松外・首領の蒙羽らがみな入朝し、官位を授けられた。

貞觀二十三年(649年)

  • 西爨の蛮を撃ち、蜻蛉・梇棟を県として開いた。
  • 爨蛮の西には徒莫祗蛮・倹望蛮がおり、このとき内属したので、その地を傍・望・覧・兵・求の五州として朗州都督に属させた。泉蛮の地は蜻蛉・弄棟と接しており、これも朗州に属させた。

髙宗永徽二年(651年)

  • 朗州道総管の趙孝祖が白水蛮を討った。
  • 蛮の酋長禿磨蒲らが険に拠って戦ったが、孝祖はみな撃ち斬った。折しも大雪となり、蛮は飢えと凍えでほぼ死に絶えた。
  • 孝祖は上言した。貞観年間に昆州の烏蛮を討って蜻蛉・弄棟を州県として開いたが、弄棟の西には小勃弄・大勃弄の二川があり、常に弄棟を扇動して反かせようとしている。勃弄以西は黄瓜・葉楡・西洱河と接し、人口は蜀川より多い。いま白水を破った兵をそのまま西へ向けて討ち、撫して安んじたいと。勅許された。

永徽六年(655年)

  • 嶲州道総管の曹継叔が、胡叢・顕飬・車魯らの蛮を斜山で破り、十余城を抜いた。

顯慶元年(656年)

  • 西洱の蛮の酋長陽棟附らが衆を率いて内附した。
  • 棟附は、顕和蛮の酋長王郎祁および郎・昆・黎・盤の四州の酋長王伽衝らとともに、衆を率いて帰順した。

麟徳元年(664年)

  • 姚州都督府を置いた。昆明の弄棟川に設けたものである。

咸亨三年(672年)

  • 梁積寿を姚州総管とし、兵を率いて叛いた蛮を討たせた。昆明の蛮が内附した。
  • 殷・敦・総の三州を置いた。

永隆元年(680年)

  • 茂州に安戎城を築いた。
  • 吐蕃が河原に侵入し、黒歯常之がこれを撃退した。これより先、剣南で兵を募って茂州の西南に安戎城を築き、吐蕃が蛮と通じる道を断とうとしていた。
  • しかし吐蕃は生羌を道案内とし、その城を攻め落として兵を置いた。このため西洱の諸蛮はみな吐蕃に降った。
  • 吐蕃は羊同・党項および諸羌の地をことごとく得て、東は涼・松・茂・嶲などの州に接し、南は天竺に隣した。諸夷の強盛さで並ぶものがなかった。

武后垂拱五年(689年)

  • 詔して雅州から山を開いて兵を出し、吐蕃を襲わせようとしたが、陳子昂が上書して諫めた。
  • 太后は梁・鳳・巴・蜑の兵を発し、雅州から山を開いて道を通し、生羌を撃ってそのまま吐蕃を襲おうとした。
  • 正字の陳子昂が上書して論じた。雅州辺の羌は建国以来一度も盗をなしていない。罪もないのに誅殺すればその怨みは深く、誅滅を恐れて必ず蜂起する。西山で盗が起これば蜀の辺邑は連年兵を備えねばならず、兵が解けぬまま西蜀の禍はここから始まる。
  • さらに述べた。吐蕃は蜀の富饒を狙って久しいが、山川に阻まれて動けずにいる。いま国家が辺羌を乱して隘路を開けば、逃亡した者たちを吐蕃が道案内に使って辺を攻める。これは敵に兵を貸し、賊のために道を開き、蜀全体を差し出すに等しい。
  • 蜀は国家の宝庫であり、中国を支える力を持つ。いま執事者は僥倖の道をたどって西羌に事を構えているが、その地を得ても耕せず、財を得ても国を富ませない。無駄な出費で聖徳を損なうだけで、しかも成否すら定かでない。
  • 蜀が頼みとするのは険阻であり、人が安んじるのは労役がないことである。いま険を開き人を使えば、険が開けば寇に便宜を与え、人を使えば財を傷つける。羌戎を見る前に、内側から姦盗が生じよう。
  • 蜀の人は弱く戦いに習わず、山川は隔たって中原から遠い。理由もなく西羌・吐蕃の患いを生じさせれば、百年たたぬうちに蜀は戎の地となるであろう、と。
  • 結局この役は起こされなかった。

武后延載元年(694年)

  • 永昌の蛮の酋長董期が内附した。
  • 天授年間に御史の寿春の人裴懐古を遣わして西南の蛮を安集させており、このとき永昌の蛮の帥が部落二十余万戸を率いて内附した。

聖厯元年(698年)

  • 蜀州刺史の張柬之が姚州の戍を廃するよう願ったが、容れられなかった。
  • 蜀は毎年兵五百を姚州に送っていたが、道は険しく遠く、死者が多かった。
  • 柬之は上言した。姚州はもと哀牢の国で、辺境の外の隔絶した地である。山は高く水は深い。国家が州として開いてから塩布の税も兵力の用も得られず、いたずらに府庫を空しくし、平民を駆り立てて蛮夷に使役させ、肝脳を地に塗らせている。
  • そこで姚州を廃して嶲州に属させ、朝覲は蕃国並みに扱い、瀘南の諸鎮も廃して瀘北に関を置き、使者でない者の往来を禁じるよう請うた。この上疏は容れられなかった。

御史唐九徴、姚州の叛蛮を撃って破る

  • 九徴は姚嶲道討撃使となった。吐蕃は鉄の綱で漾水・濞水の二水に橋を渡し、西洱の蛮と通じて城を築いて守っていた。
  • 九徴は綱を切り城を破壊し、滇池に鉄柱を建てて功を記した。

睿宗景雲元年(710年)

  • 姚州・嶲州の蛮が反し、御史の李知古を攻めて殺した。
  • 姚州の諸蛮はさきに吐蕃についていた。摂監察御史の李知古が兵を発して撃つよう請い、降伏させた後もさらに城を築いて州県を置き、重税を課し、その豪傑を誅し、子女をさらって奴婢とした。
  • 諸蛮は怨み怒り、蛮の酋長が吐蕃を引き入れて知古を攻め殺した。これによって姚州・嶲州への道は絶たれた。

玄宗開元三年(715年)

  • 西南夷が辺を侵したので、将軍の李立道を遣わして討たせた。
  • 戎・瀘・夔・巴・梁・鳳などの州の兵三万人を発し、もとからの屯兵とあわせて討たせた。

開元十七年(729年)

  • 嶲州都督の張守素が西南の蛮を破り、昆明および塩城を抜いた。

開元二十六年(738年)

  • 吐蕃が安戎城を救った。
  • 儀鳳年間に吐蕃が安戎城を落として拠って以来、その地は険要で、唐がしばしば攻めても抜けなかった。
  • 剣南節度使の王昱がその側に二城を築き、蒲婆嶺の下に軍を止め、糧秣を運んで圧迫した。しかし吐蕃が大挙して安戎城を救援し、昱の軍は大敗して数千人が死んだ。昱は身一つで逃れ、糧秣・武器・軍資はすべて捨てられた。昱は高要尉に貶され、そこで死んだ。

南詔の蒙帰義を冊立して雲南王とする

  • 南詔はもと哀牢夷、烏蛮の別種である。夷の言葉で王を「詔」という。姚州の西、永昌との間に住み、東は爨に接し、東南は交趾に属し、西北は吐蕃と接し、北は益州に至り、東北は黔・巫に接する。王都は羊苴咩城である。
  • もともと六詔があり、互いに統一できずにいたのを歴代の朝廷は利用して勢力を分けさせていた。蒙舎が最も南にあったので南詔と呼ばれた。
  • 皮邏閣の代になって次第に強大となり、他の五詔は弱まった。そこで王昱に賄賂を贈って六詔を一つに合わせることを求め、朝廷はこれを許して「帰義」の名を賜った。
  • 皮邏閣は兵威で諸蛮を服属させ、従わぬ者は滅ぼし、さらに吐蕃を撃ち破って大和城に移り住んだ。その後ついに辺境の患いとなった。

開元二十八年(740年)

  • 安戎城を取り返した。吐蕃が侵入したので関中の兵を発して救援した。
  • 剣南節度使の張宥は文吏で軍旅に不慣れであり、軍政をすべて副使の章仇兼瓊に委ねていた。兼瓊は入朝して奏事し、安戎城は取れると力説した。帝は喜んで兼瓊を節度使とした。
  • 兼瓊はひそかに安戎城中の吐蕃と謀り、門を開いて唐兵を入れさせ、吐蕃の将卒をことごとく殺した。監察御史の許遠に兵を率いて守らせた。
  • このとき吐蕃が安戎に侵攻したので関中の兵を発して救援すると、吐蕃は退いた。安戎は平戎と改名された。

天寳十載(751年)

  • 南詔が反いて雲南郡を落とし、剣南節度使の鮮于仲通が討ったが敗れた。
  • 楊国忠が鮮于仲通を剣南節度使に推挙した。仲通は性急で狭量、蛮夷の心を失った。
  • 慣例では南詔王は妻子を伴って都督に謁見していたが、雲南太守の張虔陀はみなこれを私通の対象とし、さらに多くの徴求を行った。南詔王の閣羅鳳は怒って兵を挙げて反し、雲南を落とし、夷州三十二を取った。
  • 仲通は兵八万を率い、二道に分かれて戎州・嶲州から出て曲靖州に至った。閣羅鳳は使者を送って謝罪したが、仲通は許さず、その使者に従って進軍し、西洱河で戦って大敗した。士卒の死者六万、仲通はかろうじて身一つで逃れた。
  • 閣羅鳳は戦死者の屍を集めて京観を築いた。楊国忠はこの敗戦を隠し、逆に戦功として報告した。
  • 閣羅鳳は北面して吐蕃に臣従し、吐蕃から「東帝」と号された。閣羅鳳は国門に碑を刻み、やむを得ず唐に叛いた事情を記した。

天寳十三載(754年)

  • 剣南留後の李宓が南詔を撃って敗れ、全滅した。
  • 宓は兵七万を率いて南詔を撃った。閣羅鳳は誘い込んで深入りさせ、太和城で城壁を閉ざして戦わなかった。
  • 宓は糧が尽き、士卒は瘴癘や飢えで十のうち七八を失い、引き返した。蛮が追撃し、宓は捕らえられて全軍が壊滅した。
  • 楊国忠はこの敗戦を隠して勝報として伝え、さらに中国の兵を発して討たせた。前後の死者は二十万近くに達したが、あえて言う者はいなかった。

天寳十四載(755年)

  • 南詔が越嶲の会同軍を落とした。
  • 安禄山が反すると、南詔はその混乱に乗じて越嶲の会同軍を落とし、清渓関に拠った。尋伝・驃国もみな降した。

代宗廣徳元年(763年)

  • 吐蕃が松・維・保の三州を落とした。
  • 吐蕃は河西・隴右の地をことごとく取って長安に入り、帝は陝に避難した。鳳翔以西、邠州以北はみな左衽の地となった。
  • 松・維・保の三州および雲山・新築の二城が落ち、西川節度使の高適は救えなかった。こうして剣南西山の諸州も吐蕃の手に入った。
  • 翌年、節度使の厳武が吐蕃の南辺の兵七万を破り、当狗城を抜き、さらに塩川城を抜いた。

大厯十二年(777年)

  • 吐蕃が黎州・雅州に侵入し、西川節度使の崔寧がこれを撃ち破り、さらに望漢城で大破した。

大厯十四年(779年)

  • 吐蕃と南詔が侵入したので、神策都将の李晟らを遣わして撃ち破り、大渡河まで追撃した。
  • 南詔では異牟尋が新たに立ち、吐蕃と全軍二十万を挙げて三道から侵入した。一軍は茂州に向かって没川を越え灌口を騒がせ、一軍は扶州・文州から方維・白壩を掠め、一軍は黎州・雅州を侵して邛崍関を掠めた。「蜀を取って東府としたい」と豪語した。
  • 諸将は防ぎきれず、賊は次々と州県を落とし、刺史は城を捨てて逃げ、士民は山谷に隠れた。
  • 帝は憂え、禁兵四千を発して李晟に率いさせ、邠・隴・范陽の兵五千を発して将軍の曲環に率いさせ、蜀を救わせた。東川からも軍を出し、江油から白壩に向かい、山南の兵と合わせて吐蕃・南詔を撃ち破った。
  • 范陽の兵は七盤で追いついてまた破り、維州・茂州の二州を回復した。李晟は大渡河の外まで追撃してまた破った。
  • 吐蕃・南詔の兵は飢えと寒さで崖谷に落ち、死者は八九万に及んだ。吐蕃は悔い怒って、侵入をそそのかした者を殺した。
  • 異牟尋は恐れて羊苴咩城を築いた。周囲十五里で、そこへ移り住んだ。吐蕃は彼を日東王に封じた。

徳宗貞元三年(787年)

  • 雲南王の異牟尋が内附を請うた。
  • はじめ閣羅鳳が嶲州を落としたとき西瀘県令の鄭回を捕らえた。回は経術に通じており、閣羅鳳は重んじた。異牟尋が王となると回を宰相とし、清平官と号した。
  • 雲南には数十万の衆があり、吐蕃は侵入のたびに常にこれを前鋒とした。その上、賦斂は重く度重なり、要害の地を奪って城堡を立て、毎年兵を徴発して防備を助けさせたので、雲南は苦しんでいた。
  • 回は異牟尋に唐へ帰属するよう説いた。中国は礼義を尊び、恩恵があって賦役がない、と。
  • 異牟尋はひそかに人を遣わし、諸蛮を通じて内附を求めた。韋皋は、これを招き入れて吐蕃の党から離し、その勢力を分けるべきだと奏した。帝は皋にまず辺将としての書を送って意を示し、その反応をうかがわせた。

貞元四年(788年)

  • 雲南が使者を送って入見した。
  • 異牟尋はまだ自ら使者を出す勇気がなく、まず配下の東蛮の鬼王・驃旁らを入見させ、黄金と丹砂を献じた。金は順を示し、丹は赤心を示すものである。徳宗はこれを嘉して詔書を賜った。
  • 韋皋は属官の崔佐時を随行させて羊苴咩城に至らせた。折しも吐蕃の使者も来ていたので、異牟尋は夜に佐時を迎え入れた。
  • 佐時が天子の意を伝えると、異牟尋は内心吐蕃を畏れて左右を顧み顔色を失ったが、ついに佐時と盟約し、盟書を西洱水で洗い清め、兵を発して吐蕃の使者を攻め殺した。

吐蕃、西川に侵入し韋皋が人を遣わして防ぎ破る

  • 吐蕃は雲南の兵も動員した。雲南は内心唐についていたが、表向きはまだ吐蕃に叛く勇気がなく、兵数万を出して瀘北に駐屯させた。
  • 韋皋は雲南がなお迷っていると知り、雲南王あての書を作って東蛮に転送させ、吐蕃を攻めさせた。吐蕃は雲南を疑いはじめ、兵二万を会川に駐屯させて雲南から蜀へ向かう道を塞いだ。
  • 皋は黎州刺史の韋晋らを遣わして東蛮と連合して防がせ、清渓関の外で吐蕃を破った。

貞元五年(789年)

  • 韋皋が兵を率いて台登谷で吐蕃を撃ち、嶲州を回復した。
  • 嶲州の邛部・台登の間に勿鄧蛮がおり、勿鄧の南七十里に両林蛮がいる。ともに東蛮と呼ばれる。
  • 勿鄧の苴夢衝が大鬼主で、しばしば吐蕃に侵掠されていた。両林の都大鬼主の苴那時が韋皋に兵を乞い、吐蕃を攻めようとした。
  • 皋は将の劉朝彩を銅山道から、呉鳴鶴を清渓道から、鄧英俊を定蕃柵道から出して台登城に迫らせた。吐蕃は西貢川に壁を築き、高所に拠って営を構えた。
  • 苴那時が力戦し、兵を分けて吐蕃の青海・臘城二節度の軍を北谷で大破し、二千級を斬って嶲州の境をすべて回復した。苴夢衝も内附した。
  • 吐蕃が南詔の使者の道を断ったので、皋は兵で苴夢衝を琵琶川に呼び出して斬った。

貞元八年(792年)

  • 韋皋が吐蕃の維州を攻め、その大将の論莽熱を捕らえた。

貞元十年(794年)

  • 剣南西山の羌蛮が降り、雲南が神川で吐蕃を襲って大破した。
  • 詔して韋皋に「押近界羌蛮及西山入国使」を加えた。
  • 吐蕃は回鶻と北庭を争って大戦し、雲南から兵一万を徴発した。異牟尋は国が小さいことを理由に五千人にしてほしいと請うた。
  • 異牟尋は五千人を先行させ、自らは数万人を率いてその後に続き、昼夜兼行で神川に吐蕃を襲って大破し、鉄橋など十六城を取った。使者を送って戦勝を報じた。

使者を遣わして異牟尋を南詔王に立てる

  • これより先、貞元の初めに李泌が徳宗に回紇との和睦を勧め、あわせて雲南を招いて吐蕃の右腕を断つよう請うた。
  • 泌は言った。雲南は漢以来中国に臣事してきたのに、楊国忠が理由もなく騒がせたため叛いて吐蕃に臣従した。しかし吐蕃の重い賦役に苦しみ、一日として唐の臣となることを思わぬ日はない、と。
  • その後、韋皋が雲南王に書を送り、ともに吐蕃を襲って雲嶺の外へ追い払い、雲南とだけは境上に大城を築いて戍を置き、互いに守って永く一家となろうと持ちかけた。
  • ここに至って異牟尋は弟を遣わして地図を献じ、貢物と吐蕃から与えられた金印を差し出し、「南詔」の号を復することを請うた。詔して袁滋を冊使とし、銀の台座の金印を賜った。
  • 異牟尋は北面して跪き冊と印を受け、使者と宴を開いて玄宗から賜った器物・笛工・歌女を出して見せた。滋は「南詔は祖先の恩を深く思い、子々孫々まで唐に忠を尽くすべきである」と述べた。

史論(胡氏曰)

  • 李鄴侯(李泌)は吐蕃を防ぐことを考え、徳宗に回紇との和親を強く勧め、あわせて雲南・大食・天竺を招いて吐蕃の勢力を分散させた。その後、吐蕃が辺境の患いとなることは少なくなった。
  • しかし唐室の禍はついに雲南から起こった。ここから、中国は自らを治めることを強さの本とすべきだと分かる。
  • 我が族類でない者に対しては、郊圻を画して封守を固め、来れば拒まず、来なければ強いない。そうしてこそ、垣根の外に患いを招かずにすむ。

韋皋、南詔奉聖楽を献上する

  • 驃国は永昌の南二千里にあり、西は東天竺に接し、波斯・婆羅門にも接する。西舎利城まで二十日行程で、西舎利とは中天竺のことである。南は海に臨む。
  • 南詔は兵が強く地が接しているので、常に驃国を羈縻していた。
  • 南詔が唐に帰したと聞いて驃国も内附の意を持った。異牟尋は使者の楊加明を韋皋のもとに遣わして夷中の歌曲を献上したいと請い、あわせて驃国に楽人を出させた。そこで皋は「南詔奉聖楽」を作った。

貞元十一年(795年)

  • 南詔が吐蕃の昆明城を攻めて取った。昆明は嶲州に近い。

貞元十三年(797年)

  • 吐蕃が侵入し、嶲州刺史の曹高仕が台登城の下でこれを破った。

貞元十五年(799年)

  • 吐蕃が南詔および嶲州を撃ったので、韋皋と異牟尋が兵を発して防いだ。

貞元十七年(801年)

  • 韋皋が雅州で吐蕃を大破した。
  • 吐蕃が麟州に侵入したので、帝は韋皋に吐蕃へ深く攻め入ってその勢力を分け、北辺の患いを緩めるよう命じた。
  • 皋は兵二万を九道に分けて出し、維州・保州・松州および棲鶏城・老翁城を攻め、雅州で吐蕃を大破した。千里を転戦して七城を抜き、ついに維州と昆明を包囲した。
  • 吐蕃が維州を救いに来ると、西川の兵は険に拠って伏兵を置いて待ち受け、敵は大敗し、その将の論莽熱を捕らえた。ただし維州と昆明はついに落とせず、兵を引いて帰った。

南詔、瀘水で吐蕃を大破する

  • 韋皋は嶲州に重兵を置いて西瀘の吐蕃の道を扼した。吐蕃は南詔を襲おうと謀り、八万人で嶲州を包囲した。
  • 皋は部将の武免らを嶲州に駐屯させ、急があれば南詔と連携して進軍する約束をした。吐蕃は五万の衆を曩貢川から引き出し、二軍に分けて一軍で雲南を攻め、一軍を諾済城から出して嶲州を攻めた。
  • 異牟尋はまず東蛮を攻めようとしたが、皋は「嶲州こそ往来の要道で数州の楯であり、敵はあらゆる手で狙っている。だから厳重に兵を置いて守るのだ。東蛮がどうして二心を抱こうか」と答えた。武免は嶲州で兵を接し、南詔の境であっても各地に屯戍を置いた。
  • 吐蕃は野戦で度々敗れたのに懲りて三瀘水に駐屯し、間諜を送って瀘のほとりの諸蛮を誘い、悉摂の城を修復した。悉摂は吐蕃にとっての要害である。
  • しかし蛮の酋長がひそかに南詔を導き、皋の部将の杜毗らとともに夜に瀘水を渡って敵の陣を破り、五百級を斬り、さらに瀘西でも破った。
  • 吐蕃の君長たちは相談したが嶲州を得られず、その患いはやまなかった。

文宗大和三年(829年)

  • 南詔が成都に侵入した。
  • 異牟尋が死ぬと子の尋閤勧が立ち、尋閤勧が死ぬと子の勧龍晟が立ったが、元和十一年に弄棟節度の王嵯顛に殺され、嵯顛が国政を専断した。
  • このころ西川節度使の杜元頴は治績が悪く、辺境の警備も緩みきっていた。戍卒がかえって道案内となり、嶲州・戎州の二州を襲い、さらに邛州を落とし、邛州から兵を進めてまっすぐ成都に迫り、東川も侵した。
  • 東川節度使の郭釗は兵が弱く戦えず、書を送って嵯顛を責めた。嵯顛は「杜元頴が我らを侵し騒がせたので兵を挙げて報いただけだ」と返書し、釗とは和を結んで退いた。
  • 蛮は成都の西郭に十日とどまった。はじめは蜀人を慰撫し、市も平穏だったが、去るにあたって子女・工人数万人と珍貨を大掠して引き上げた。
  • 嵯顛は自ら殿軍を務め、大渡水に至って「ここから南はわが領土だ。故郷に別れを告げて泣くがよい」と言った。人々はみな慟哭し、水に身を投げて死んだ者が千人を数えた。
  • 嵯顛は使者を送って上表し、「杜元頴が軍士をいたわらなかったので軍士が争って道案内をした。虐げる帥を誅してほしい。誅さなければ蜀の土地の人心を慰めることはできない」と述べた。元頴は循州司馬に貶された。

太和五年(831年)

  • 吐蕃の維州副使の悉怛謀が降伏を請い、西川節度使の李徳裕がその状況を上表したが、受け入れられなかった。
  • 南詔の侵入で蜀中は疲弊していた。西川節度使の李徳裕が着任すると、吐蕃の維州副使悉怛謀が降を請うた。
  • 徳裕は維州刺史の虞蔵倹をその城に入って拠らせ、詳細を奏上した。あわせて、生羌三千を送って十三橋を焼き、西戎の心臓部を突きたい、これは韋皋が生涯果たせずに恨んだことだと述べた。
  • 事は尚書省に下され、百官が議して、みな徳裕の策のとおりにするよう請うた。
  • しかし牛僧孺は言った。吐蕃の領域は四方それぞれ万里で、維州一つを失っても勢いは損なわれない。近ごろ和睦して戍兵を罷める約束をした。中国が戎を防ぐには信を守るのが上策である。もし彼らが失信を責め、怒りにまかせて言い立てれば、三日とかからず咸陽橋に達する。そのとき西南数千里の外に維州を百得ても何の役に立つか。いたずらに誠信を捨てるのは害あって利なく、匹夫でもしないことだ、まして天子においてをや、と。
  • 帝はこれを是とし、徳裕に詔してその城を吐蕃に返させ、悉怛謀と同行者を捕らえてすべて送り返させた。吐蕃は境上でことごとく誅殺し、きわめて惨酷であった。徳裕はこれによって僧孺を深く怨むようになった。
  • 会昌の初め、徳裕は宰相となって上疏した。維州は高山の絶頂にあって三面が川に臨み、戎虜の平川の要衝、漢の地へ兵が入る道である。河・隴がすべて失われたなかで、ここだけが残っていた。
  • 吐蕃はひそかに婦人をこの州の門番に嫁がせ、二十年後に二人の男子が成長して壁門をひそかに開き、夜に兵を引き入れて城を落とし、「無憂城」と号した。これ以来吐蕃は西辺に力を集められるようになり、南路の憂いもなくなって近畿を脅かし、朝廷は幾代も食事を後らせるほど心を労した。
  • 韋皋は河湟を経略しようとしてこの城を手始めにしようとし、全軍の精鋭を挙げて数年攻めたが、論莽熱を捕らえて帰っただけで、城は堅く落とせなかった。
  • 臣が西蜀に着任し、外には国威を示し内には辺備を整えたところ、維州の熟臣は信服して城を空にして帰順した。臣がその降を受けると、南蛮は震え上がり、山西八国もみな内属を願った。吐蕃の合水・棲鶏などの城は険阻を失って引き揚げざるを得ず、八か所の鎮兵を減らして千余里の旧地を座して保てるはずだった。
  • しかも維州が降る前年、吐蕃はなお魯州を囲んでいた。どこに盟約を顧みる心があったか。
  • 臣は降を受けるにあたって天を指して誓い、奏聞して恩賞を加えると面前で約束した。当時臣に与しない者たちは風を望んで臣を憎み、詔して悉怛謀らを捕らえ送り、先方に処刑させた。臣がどうして三百余人の命を犠牲にして信を捨て、安逸を貪ることに耐えられよう。何度も上表して論じ、憐れみを乞うたが、返る詔は厳しく、ついに引き渡させられた。将吏は臣に向かって涙を落とさぬ者がなかった。
  • 蕃の帥はこの人々を境上で殺し、忠款の道を断ち、凶虐の情を快くした。どうか忠魂を追奨し、それぞれ褒贈を加えていただきたい、と。詔して悉怛謀に右衛将軍を贈った。
  • その後、大中の初めに杜悰が維州を回復した。

史論(司馬公曰)

  • 唐は吐蕃と和を結んだばかりなのに維州の帰降を受け入れた。利で言えば維州は小さく信義は大きい。害で言えば維州は緩やかな問題で関中は急を要する。ならば唐のために計るなら何を先にすべきか。
  • 悉怛謀は唐から見れば教化に向かった者だが、吐蕃から見れば叛臣を免れない。誅されたことをなぜ憐れむ必要があろうか。
  • 徳裕の言うところは利であり、僧孺の言うところは義である。

史論(胡氏曰)

  • 司馬公の言は行き過ぎである。維州がもともと唐の地でないなら、和を結んだ以上、捨てて取らず約信を守るだけでよい。しかし本来唐の地で吐蕃に侵奪されたものを、些細な信義を守るために要害を挙げて捨ててよいものか。
  • 僧孺の「敵は三日で咸陽に至る」という言は大言で文宗を怖がらせただけで、事実ではない。
  • わが地を奪っておいて盟約を結ばせるのは、まさに蒲の人が孔子に誓わせたのと同じで、守るべき信ではない。故地を取り返すことこそ義として当然のことである。
  • 司馬公は義で断ぜず利害で論じ、さらに徳裕を利のため、僧孺を義のためと決めつけたが、いずれも根拠がない。
  • ゆえに、維州を吐蕃に返して祖宗の土地を捨て、悉怛謀を縛って送り返して帰附の心をくじいたのは、僧孺が小信のために大計を妨げたのである。維州を取って兵を置き数十年の恥をすすぎ、悉怛謀を追奨して官位を贈ったのは、徳裕が大義によって国を謀ったのである。これがこの二人の是非の分かれ目である。

太和六年(832年)

  • 李徳裕が仗義城・禦侮城・柔遠城を築いた。
  • 徳裕は籌辺楼を建て、南道の山川の険要で蛮と接する所を左に、西道の吐蕃と接する所を右に描き、部落の大小、輸送の遠近や曲折をすべて備えた。辺事に詳しい者を招いて検討し、敵情の真偽をことごとく把握した。州兵の選抜にも誰も不満を言わなかった。
  • 甲を作る職人を安定に、弓を作る職人を河中に、弩を作る職人を浙西に求め、器械は鋭利になった。また二百戸につき一人を取って戦いを習わせ、平時は農、急時は戦とし、これを「雄辺子弟」と呼び、総じて十一軍とした。
  • 仗義城を築いて大渡・清渓関の要害を制し、禦侮城を作って栄経を扼して犄角の勢を成し、柔遠城を作って西山を扼した。邛崍関を回復し、嶲州の治所を台登に移して蛮の険を奪った。
  • 旧制では毎年内地の粟を運んで黎州・嶲州を養い、嘉州・眉州から陽山江を通って大渡に達し、諸戍に分配していたが、常に盛夏に着くため瘴毒に苦しみ、輸送人夫の死者が多かった。徳裕は邛州・雅州の粟を十月から漕運させ、夏より先に着かせて陽山からの輸送を補わせた。運ぶ者が炎暑の月にかからなくなり、遠民はようやく安んじた。
  • また奏して南詔に使者を送り、掠奪された人口を返還させ、数千人を取り戻した。
  • 帝は徳裕に清渓関を修めて塞ぎ、南詔の侵入路を断つよう命じた。徳裕は上言した。蛮に通じる細道はきわめて多く塞ぎきれない。重兵で鎮守してこそ憂いがない。黎州・雅州あたりに一万人、成都に二万人を得て精練すれば、蛮は動けなくなる。
  • ただし辺兵は多すぎてもいけない。統制できる範囲でなければならない。当時、北の兵はみな本道へ帰り、河中・陳許の三千人だけが成都にいたが、翌年帰すという詔が出て蜀人は恐れおののいた。
  • 徳裕は鄭滑の五百人と陳許の千人を蜀の鎮守に残すよう請い、こう述べた。蜀兵は脆弱で、蛮寇に苦しめられたばかりで肝をつぶしており、征戍に堪えない。壮兵をみな帰せば杜元頴の時と変わらず、蜀は保てない。
  • 蜀は蛮寇以来すでに兵を増やしたと言う者があろうが、蛮寇が迫ってから元頴が市人を捕らえて兵とした約三千余人は数だけで実用にならない。郭釗が募った壮兵は百余人、臣がさらに募って得たのは二百余人で、あとはみな元頴の旧兵である。
  • また「一夫関に当たる」の説で清渓は塞げると言う者もあろうが、蜀中の老将に尋ねたところ、清渓のかたわらには大路が三つ、小径は無数にあり、みな東蛮が必要に応じて開通させている。塞げると言うのは朝廷を欺くものだ。どうしても大渡水の北にもう一城を築き、黎州まで連ねて大兵で守ってはじめて可能である。
  • そのうえ南詔が掠めた蜀人二千と金帛を吐蕃に贈ったと聞く。もし二つの敵が蜀の虚実を知って連合して侵入すれば、まことに深く憂うべきである。
  • 建言する朝臣たちは禍が自分の身に及ばないからそう言うのだ。各人に一通の意見書を出させて堂案に留め、他日事が敗れたとき臣ひとりが国法を負うことのないようにしていただきたい、と。
  • 朝廷はその請いをすべて容れた。徳裕は士卒を訓練し、堡障を修め、糧を蓄えて辺に備え、蜀人はようやく落ち着いた。
  • 徳裕はさらに奏した。蜀兵は病弱・老弱の者でも従来終身選別されなかったので、身長五尺五寸の基準を立てて四千四百余人を除き、あらためて少壮の者千人を選び募って人心を慰めた。募った北兵はすでに千五百人を得て、土着の兵と混じって住まわせ、互いに訓練させ、日ごとに精練になっている。
  • また蜀の職人が作る兵器は装飾に走って使い物にならないので、いま他道から職人を招いて作らせたところ、堅固で鋭利でないものはない、と。

宣宗大中十三年(859年)

  • 南詔が僭号し、播州を侵して落とした。
  • はじめ韋皋が清渓道を開いて諸蛮を通じさせ入貢させ、また諸蛮の子弟を選んで成都に集め、読み書きと算術を教えて羈縻していた。
  • やがて軍府は扶持の負担を嫌がるようになり、蛮の使者は入貢のたびの下賜を目当てに従者を増やしていったので、杜悰はその数を減らすよう奏した。
  • 南詔の豊祐は怒り、入貢を時どおりに行わず、しきりに辺境を騒がせた。その子の酋龍が立つと、自ら皇帝と称し、国号を大礼とし、兵を送って播州を落とした。

懿宗咸通三年(862年)

  • 南詔が邕州を攻め落とし、嶲州を侵した。
  • 杜宗が上言した。南詔は強盛で西川は兵も糧も乏しく、軽々しく関係を絶つべきではない。ひとまず使者を送って弔祭すべきだと。帝は従ったが、折しも南詔が嶲州を侵したので、実行されなかった。

咸通四年(863年)

  • 南詔が交趾を落とし、経略使の蔡襲が戦死した。

咸通五年(864年)

  • 南詔が邕州を侵し、官軍が敗れて壊滅した。

咸通七年(866年)

  • 高駢が南詔の蛮を大破し、交趾を回復した。

咸通九年(868年)

  • 邛州に定辺軍を建て、李師望を節度使とした。
  • 鳳翔少尹の李師望が上言した。嶲州は南詔を扼する要衝だが、成都から道が遠く統制しがたい。定辺軍を建てて嶲州に重兵を置き、邛州を治所としたいと。
  • 朝廷は従い、師望を嶲州刺史・定辺軍節度、眉・蜀・邛・雅・嘉・黎などの州の観察、諸蛮の統押、諸道行営制置等使とした。
  • 師望は一方面を専断できるのを利として、この策を建てたのである。実際には邛州は成都からわずか六百十里、嶲州は邛州から千里であり、その欺瞞はこの通りであった。

咸通十一年(870年)

  • 南詔が侵入し、ついに成都に入った。
  • はじめ南詔が使者を送ってきたとき、李師望は南詔を怒らせて功を求めようと、その使者を殺した。朝廷は師望を召還して竇滂を代わりに置いたが、滂の貪欲残虐は師望よりひどく、蛮寇が来る前に定辺はすでに疲弊していた。
  • この月、南詔の酋龍が国を挙げて侵入し、嶲州に入った。安再栄が清渓関を守り、蛮が攻めると再栄は大渡河の北に退いて、水を隔てて九日八夜射合った。
  • 蛮はひそかに軍を分けて木を伐り道を開き、雪坡を越えて不意に沐源川に至った。竇滂は将に五百人を率いさせて防がせたが、全軍が壊滅した。
  • 十二月、蛮は味方の敗残兵を装って江岸に来て船を呼んで渡り、人々が気づいたときには犍為を落とし、兵を放って凌州・栄州の境を焼き掠めた。
  • 数日後、蛮軍は凌雲寺に大集して嘉州と対岸で向き合い、ついに嘉州を落とした。酋龍は偽って和議を申し入れ、話が終わらぬうちに船や筏に乗って先を争って渡った。竇滂は単騎で夜逃げした。再栄らが夜に乗じて攻めると蛮は大いに驚いて引き上げたが、進んで黎州・雅州・邛州を落とし、軍資や備蓄は乱兵の手に散った。蛮が城に至ったときには空で、通行を妨げるものがなかった。
  • 西川の民は争って成都に逃げ込み、一人あたり一席ほどの場所しかなく、雨が降れば甕をかぶって身を覆い、水も乏しく摩訶池の泥水を澄ませて飲んだ。
  • 節度使の盧躭は彭州刺史の呉行魯を呼んでともに守備を固め、兵三千を選んで「突将」と号した。
  • 蛮が眉州に至ると躭は使者を送って和を約したが、蛮は「我らの進退はただ我らの心次第だ」と答え、新津に進軍した。盧躭は朝廷に急を告げて一時の患いを緩めようとし、朝廷は支詳を宣諭通和使とした。
  • 蛮は長駆して北上し双流を落とし、人に彩幕を負わせて城南に至らせ、蜀王の庁に張って驃信を住まわせると言い、ついに成都城下に迫った。
  • その前日、盧躭は王昼を漢州に遣わして援軍を探らせた。当時、興元の六千人、鳳翔の四千人がすでに漢州に着いていた。折しも竇滂は四千人を率いて導江から漢州へ逃げ、援軍に身を寄せて自存した。王昼は興元・資州・簡州の兵三千余人を率いて毗橋に陣し、蛮と戦って不利となり漢州に退いて守った。竇滂は西川が陥落して責任が分散することを望み、いつも官軍を引き留めて急進させなかった。
  • 二月一日、蛮は梯や衝車を集めて四面から成都を攻めたが、城上から鉤環でこれを引き寄せ、火を投じ油を注いで焼き、攻める者はみな死んだ。
  • 蛮は兵を収めて和を約し、使者を送って支詳を迎えた。ときに顔慶復の援軍が到着しつつあった。詳は蛮の使者に言った。詔を受けて和を約したが、いま雲南が成都を包囲したのでは以前とは事情が違う。朝廷が和を望んだのは成都を犯さないことを期待したからだ、と。蛮はまた進んで城を攻めた。
  • はじめ韋皋が南詔を招いて吐蕃を破らせたとき、蛮が甲や弩がないと訴えたので皋は職人を送って教えさせた。数年で蛮中の甲弩はみな精良になっていた。
  • 朝廷は顔慶復を東川節度使とし、蜀を援ける諸軍はみな慶復の指揮を受けさせた。慶復が新都に至ると蛮は兵を分けて防いだが、慶復は蛮軍を大破して二千余人を殺した。蜀の民数千人が争って草刈り鎌や白い棍棒を手に官軍を助け、その喊声は野を震わせた。
  • 蛮の歩騎数万がまた押し寄せたが、宋威が二千人で会戦して蛮軍を大敗させ、死者五千余人を出し、蛮は星宿山に退いて守った。威は沱江駅まで進み、成都から三十里の地に至った。
  • 蛮は臣の楊定を支詳のもとに遣わして和を請い、詳もあいまいに答えた。官軍が城下に至って蛮と戦い、升仙橋を奪うと、その夕方、蛮は自ら攻城具を焼いて逃げ去った。
  • 顔慶復ははじめて蜀人に壅門城を築かせ、濠を掘って水を満たし、鹿角を植え、営鋪を分けて配した。蛮は備えがあると知り、これ以後は二度と成都を犯さなかった。

僖宗乾符二年(875年)

  • 南詔が西川を侵し、黎州を落として邛崍関に入った。節度使の高駢が大渡河まで追撃して大破した。
  • 南詔は浮橋を作って大渡河を渡ろうとし、防河兵馬使の黄景復は半ば渡ったところを撃った。蛮は敗走し、景復はその浮橋を断った。
  • 蛮は中軍に多くの旗を立てて正面に当て、兵を分けてひそかに上流・下流あわせて二十里から渡り、諸城柵を襲い破って景復を挟み撃ちにした。景復は偽って逃げて伏兵を置いて待ち、蛮兵は大敗した。
  • 蛮は之羅谷まで戻ったところで国中から発した後続の兵に出会い、新旧あい継いで大渡河に迫り、景復と連日戦った。援兵が来ず、景復はついに敗れた。
  • 蛮は勝ちに乗じて黎州を落とし、邛崍関に入り、雅州を攻めた。成都は驚き騒ぎ、大いに守備を固めた。
  • 高駢を西川節度使とした。駢は先に使者を走らせて成都の門を開かせ、こう言わせた。私は交趾で蛮三十万の衆を破った。蛮は私が来ると聞けば逃げ隠れる暇もあるまい。いま春の気候が暖かくなり、十万人が城中にひしめき、生者と死者が共に居て汚穢が蒸れ、疫病になろうとしている。猶予はできぬ、と。
  • 蛮はちょうど雅州を攻めていたが、これを聞いて兵を引いて去った。
  • 駢はまた、南蛮など小者で容易にあしらえるとして、動員した鄜坊などの兵を帰すよう奏した。成都に着くと翌日、歩騎五千を発して南詔を大渡河まで追い、その酋長数十人を捕らえて成都で斬った。
  • 邛崍関と大渡河の諸城柵を修復し、さらに戎州の馬湖鎮に城を築いて平夷軍と号し、また沐浴川にも城を築いた。いずれも蛮が蜀に入る要道であり、それぞれ数千の兵を置いて守らせた。これ以後、蛮は二度と侵入しなかった。
  • 駢はさらに成都の羅城を築いた。周囲二十五里、九十六日で完成した。
  • 駢はまた僧の景先を遣わして南詔を説かせた。これより先、西川の使者が南詔に至っても驃信は座ったまま拝礼を受けていた。駢はその俗が仏教を尊ぶことから景先を送ったところ、驃信は果たして迎えて拝礼し、その言を信じ受け入れた。

乾符四年(877年)

  • 南詔の酋龍が死に、子の法が立って和を請うたので、これを許した。
  • 酋龍は嗣位以来ほぼ二十年にわたって辺境の患いとなり、中国はそのために疲弊したが、その国内も疲弊していた。酋龍は景荘皇帝と諡された。子の法は狩猟と酒宴を好み、国事を大臣に委ねた。
  • 嶺南西道節度使の辛儻が南詔の和議の申し出を奏し、あわせて諸道の兵が邕州に長年駐屯して兵糧の輸送が疲弊しているとして、和を許して疲れた者たちに肩を休ませるよう請うた。詔して許し、荊南・宣歙の数軍だけを残して残りは十分の七を減らした。
  • 朝廷が南詔との和を許すと、南詔は表を出さず、督爽(蛮の官名)に中書へ牒を送らせただけで、弟となることを請うて臣とは称さなかった。
  • 詔して百官に議させると、礼部侍郎の崔澹らは、南詔は驕り僭して無礼であり、高駢は大局を解さず、一人の僧のささやきによって卑辞でその使者を招いたので、その請いに従えば後代の笑いものになろうと述べた。駢は上表して澹らと弁論し、詔してとりなした。
  • 鄭畋と盧携がともに議し、携は和親を望み、畋は不可とした。携は怒って衣を払って立ち上がり、袖が硯に引っかかって落ち割れた。帝はこれを聞いて「大臣が罵り合うようでは何をもって四海の手本となるのか」と言い、二人とも罷免した。
  • はじめ南詔が安南を落としたとき、徐州・泗州から兵八百を分けて桂州に戍らせ、三年で交代する約束であった。観察使の崔彦曽は性が厳酷で、都押牙の尹戡らが実権を握っていた。
  • 桂州の戍兵はすでに六年になり、しばしば交代を求めたが、戡は彦曽に軍の財庫が空で兵を出す費用が多いと言い、旧戍卒をもう一年留めるよう請い、彦曽はこれに従った。
  • 戍卒は聞いて怒り、都虞侯の趙可立らが乱を起こして都将の王仲甫を殺し、糧料判官の龐勛を主に推した。朝廷が討伐し、何度も戦ってようやく平定した。しかし黄巣がこれに続いて起こり、唐は滅んだ。

史論(范正獻公曰)

  • 辺塞は古来かわるがわる中国の患いとなったが、秦以来、南蛮に対して志を得た者はいない。瘴毒と険阻のため天の時も地の利も得られず、頼みは人の和だけである。ところが民は役に従えば必ず死ぬと知り、市に棄てられに行くようなものだと思うので、三つながら失われている。
  • 玄宗の末に南詔が強盛となり、懿宗の代には安南を落とし成都を囲み、中国は首尾に奔命して疲れた。
  • その後、龐勛の乱は桂北の戍から起こり、黄巣の寇は徐方の残余から出た。唐室の衰えは、宦官が内から蝕み、南詔が外から騒がせ、財が尽き民が困窮して海内が大乱し、そのために滅んだのである。
  • 蛮夷が中国を滅ぼせるのではない。中国が滅ぶとき、蛮夷が常にその資となるのである。だから聖王は外を重んじて内を軽んじず、遠きに勤めて近きを忘れない。征伐がやまなければ内から変事が生じて根本を揺るがすことを恐れるからである。

史論(論曰)

  • 漢の武帝は荒遠の地を極めて四夷を郡県としたが、一時の奢った心が後世の多事の基となった。三代の聖王の盛徳と遠慮を知らなかったのである。
  • 南夷は蜀の徼外にあって叛服が定まらなかったが、漢の威令はこれを震え上がらせるに足り、漢の官吏はこれを服させるに足りた。
  • 武侯(諸葛亮)が四郡を南征し不毛の地に深く入ったのは、後顧の憂いを絶つためであって、その資源を軍用に充てるためだけではない。王業が偏安にとどまる以上、やむを得ぬことであった。しかも天威の及んだところは今に至るまで彼らの魂を奪い胆を喪わせ、北に向かって額づかせている。
  • 不幸にも永嘉の乱の後、李氏が蜀を窃取して獠を蜀に放ったため、蜀人が南夷の禍を受けること三百年近くに及んだ。武侯のような人がおらず、武帝の辺境開拓の患いはここに至って惨憺たるものとなった。
  • 唐に至って鮮于仲通が国を辱め軍を失い、取るに足らぬ小者までが中国を軽んじる心を持ち、三度蜀の境に侵入した。南詔の患いは吐蕃・回紇と並ぶものとなった。
  • ただ我が藝祖(宋の太祖)は遠く三代に法り、玉斧で河を画してその土地を貪らなかった。それゆえ蜀にはほとんど腹心の病がなくなった。
  • およそ我が辺境の官吏が封圻を謹んで固め、ひとえに廉隅を磨くことを辺境安定の本とするならば、それが蛮貊に通じないと誰が言えようか。百世を経ても南夷の憂いがない、と言ってよい。