蜀鑑氐羌の楊氏、武都に拠る(氐羗楊氏據武都)
略陽の氐羌である楊茂捜が晉惠帝元康六年(296年)に仇池へ拠ってから、楊難敵・楊毅・楊初・楊盛・楊難當・楊文徳・楊集始・楊紹先と続いた楊氏が、趙・成・前秦・後秦・晉・宋・齊・梁・魏のあいだで降っては叛き、武都・漢中の険をめぐって争い続けた二百十一年の記録。梁の天監五年(506年)に魏の邢巒に武興を落とされて滅び、東益州が置かれるまで。
年表(29件)
- 晉惠帝
- 元康六年296年楊茂捜が齊萬年の乱を避け部落四千家を率いて仇池に拠る
- 元帝
- 建武二年318年茂捜が死に難敵が継ぎ、弟堅頭と下辦・河池を分けて屯する
- 永昌元年322年趙王劉曜に敗れた難敵が仇池に退き、趙に藩を称する
- 明帝
- 太寧元年323年難敵は漢中へ奔るが武都に還り、成の李稚・李琀を下辦で討ち取る
- 太寧三年325年難敵が仇池を襲って攻め落とし、趙の田崧を殺す
- 咸和六年331年成の李壽が陰平・武都を攻め、楊難敵が降る
- 咸和九年334年難敵が死に子の毅が立ち、晉に使を遣わして藩を称する
- 咸康四年338年族弟の楊初が楊毅を襲って殺し、自立して仇池公となる
- 永和十一年355年楊初が宋奴に刺殺され、子の楊國が宋奴を殺して自立する
- 海西公太和三年368年楊世が晉に藩を称して秦州刺史とされ、前秦にも臣を称する
- 簡文帝
- 咸安元年371年前秦の苻雅らに攻められ楊統・楊纂が降り、纂は長安へ送られる
- 孝武帝
- 寧康元年373年楊安が漢川へ進攻し、苻堅は蜀を陥れて王統を仇池に鎮させる
- 太元十年385年楊定が仇池公を自称し、歴城に移って晉に藩を称する
- 太元十九年394年楊定が西秦に敗死し、弟の盛が仇池公を称して藩を称する
- 晉安帝
- 義熙元年405年楊盛が漢中に拠るが、後秦に成固を抜かれて降を請う
- 義熙十年414年後秦が仇池を伐つも、趙琨が楊盛に敗れて落とせない
- 宋文帝
- 元嘉二年425年楊盛が死に子の玄が立ち、初めて元嘉の年号を用いる
- 元嘉六年429年楊玄が死に、弟の難當が玄の子の保宗を廃して自立する
- 元嘉十年433年楊難當が白馬・葭萌を襲って漢中の地を手に入れる
- 元嘉十一年434年蕭思話が難當を討ち破り、漢中の旧領をすべて回復する
- 元嘉十三年436年難當が大秦王を自称して建義と改元し、のち魏に諭されて降る
- 元嘉十八年441年難當が漢川を侵して葭萌を落とし、裴方明に討たせる詔が下る
- 元嘉十九年442年裴方明が難當を破り、難當は魏へ奔って仇池が平定される
- 元嘉二十年443年魏が仇池を取り保宗を殺し、宋は楊文徳を武都王に立てる
- 順帝
- 昇明元年477年魏が葭蘆を抜いて楊文度を斬り、弟の文弘を武都王とする
- 建武四年497年楊靈珍の叛乱を魏の李崇が討ち、武興を攻め落とす
- 齊東昏侯永元二年500年楊集始が齊から魏に降り、爵位を返されて武興を守る
- 天監四年505年夏侯道遷が楊靈珍を殺して漢中を挙げて魏に降り、梁州十四郡が魏に帰す
- 天監五年506年魏が楊紹先を捕えて国を滅ぼし、武興鎮のち東益州を置く
晉惠帝元康六年(296年)
- 略陽の氐羌である楊茂捜が、仇池に拠った。
- もとは略陽清水の氐の楊駒が初めて仇池に住みついた。仇池は方百頃、そのそばの平地は二十余里あり、四面は切り立って高く、羊の腸のように曲がりくねった道を三十六回折れ返って上る地形だった。
- 楊駒の孫の千萬は魏に附いて百頃王に封じられ、千萬の孫の飛龍が再び強盛となって略陽に移り住んだ。飛龍は甥の令狐茂捜を養子とした。
- 茂捜は齊萬年の乱を避け、十二月に略陽から部落四千家を率いて仇池に還って拠り、輔國將軍・右賢王を自称した。
愍帝建興二年(314年)
- 楊難敵と楊虎が漢中を攻め、刺史張光の子の孟萇が戦死した。梁州の人の張咸が兵を挙げて難敵を追い払った。
元帝建武二年(318年)
- 氐王の茂捜が死に、長子の難敵が跡を継いだ。
- 難敵は少子の堅頭と部曲を分け合い、難敵は左賢王と号して下辦に、堅頭は右賢王と号して河池に屯した。
永昌元年(322年)
- 趙王劉曜が楊難敵を撃った。難敵は迎え撃って勝てず、仇池に退いて守り、趙に藩を称した。
明帝太寧元年(323年)
- 楊難敵は弟の堅頭とともに漢中へ奔った。趙は追撃の兵を出し、田崧を仇池に鎮させた。難敵は蜀(成)に降を請い、のち武都に還った。
- 秦州刺史の陳安が隴右に拠ったが、趙主曜に撃たれて殺された。難敵は恐れて漢中に奔り、曜は田崧に仇池を守らせた。難敵は降伏の使を送ったあと武都に還り、険阻に拠って服さなかった。
- そこで成の李雄は李稚を白水に、李壽を陰平に出して難敵を撃たせたが、難敵が兵で拒んで李壽は進めなかった。李稚と李琀は下辦まで長駆したものの、難敵に帰路を断たれて四面から攻められ、深入りして後続もなく、いずれも討ち取られた。
太寧三年(325年)
- 楊難敵が仇池を襲って攻め落とし、田崧を殺した。
成帝咸和二年(327年)
- 趙の劉朗が仇池の楊難敵を襲ったが落とせず、三千戸を掠めて引き揚げた。
咸和六年(331年)
- 蜀(成)の李壽が陰平・武都を攻め、楊難敵はこれに降った。
咸和九年(334年)
- 仇池王の楊難敵が死に、子の毅が立った。
- 毅は左賢王・下辦公を自称し、叔父堅頭の子の盤を右賢王・河池公として、晉に使を遣わし藩を称した。
咸康四年(338年)
- 氐の楊初が楊毅を襲って殺し、自立して仇池公となった。初は毅の族弟で、趙に臣を称した。
穆帝永和九年(353年)
- 秦(前秦)が仇池の楊初を攻めたが、初に敗れた。
永和十一年(355年)
- 楊毅の弟の宋奴が楊初を刺殺し、初の子の楊國が宋奴を殺して自立し仇池公となった。桓温は楊國を鎮北将軍・秦州刺史に推挙した。
永和十二年(356年)
- 仇池公楊國の従父の楊俊が國を殺して自立し、國の子の安は秦に奔った。
升平四年(360年)
- 仇池公の楊俊が死に、子の世が立った。
海西公太和三年(368年)
- 楊世が晉に藩を称し、秦州刺史とされた。弟の統を武都太守とし、世はまた秦(前秦)にも臣を称した。
太和五年(370年)
- 楊世が死に、子の纂が立った。
- 世の代の末に秦と絶交しており、叔父の武都太守統が纂と国を争って兵を起こし、攻め合った。
簡文帝咸安元年(371年)
- 秦の西縣侯苻雅・楊安・姚萇らが仇池を伐ち、楊統が武都の衆を率いて降り、楊纂も降った。秦は統を南秦州刺史とした。
- 纂は五万の衆で拒み、晉の梁州刺史楊亮が援兵を送ったが、峡中の戦いで秦軍に大敗した。纂は散兵を収めて西縣に遁れ、苻雅が仇池へ進攻すると統が武都の衆を率いて降り、纂も恐れて面縛して降伏した。雅は纂を長安に送り、統を南秦州刺史、楊安を仇池の鎮将とした。
孝武帝寧康元年(373年)
- 晉の梁州刺史楊亮が子の廣に仇池を襲わせたが、落とせなかった。
- 廣は楊安と戦って敗れ、沮水の諸戍はみな城を棄てて潰走した。亮は磬険に退いて守り、九月に安は漢川へ進攻した。
- 秦王苻堅が蜀を伐って陥れ、楊安を成都に、王統を仇池に鎮させた。
太元十年(385年)
- 楊定が仇池公を自称した。
- 秦は定を雍州牧としたが、定は治所を歴城に移し、百頃に物資を蓄え、龍驤将軍・仇池公を自称した。晉に使を遣わして藩を称し、その自称の号をそのまま認められた。のちに天水・略陽の地も取った。
太元十九年(394年)
- 楊定が西秦を攻めて敗死し、弟の盛が仇池公を称して使を遣わし藩を称した。
- 秦王苻崇が西秦王乞伏乾歸に逐われて隴西王楊定を頼ったが、乾歸が将を遣わして定と崇を殺した。定に子がなく、叔父の佛狗の子の盛が仇池を守り、征西将軍・秦州刺史・仇池公を自称した。
太元二十一年(396年)
- 楊盛を仇池公に封じた。
晉安帝義熙元年(405年)
- 仇池王の楊盛が漢中に拠った。譙縦が蜀で反乱を起こして大乱となり漢中が手薄になったので、盛は兄の子の平南将軍撫を遣わして押さえさせた。
- 秦(後秦)が仇池を伐ち、漢中を攻めて成固を抜いたので、楊盛は秦に降を請うた。秦は流民三千余家を関中に移した。
義熙三年(407年)
- 楊盛が苻宣を漢中に入れ、刺史の王敏がこれを攻めた。盛は濜口に軍し、敏は武興に退いて屯した。
- 盛は再び晉と通じ、晉は大将軍の号を授けた。
義熙十年(414年)
- 後秦が仇池を伐ったが、落とせなかった。
- 楊盛が祁山を侵したので、秦主姚興は趙琨らを遣わし、姚恢は鷲峡、姚嵩は羊頭峡、胡翼度は汧城から進み、興自らも雍に赴いた。
- 天水太守の王松忩は「先帝の神略をもってしても二度仇池に入って功なく還った。楊氏の智勇によるのではなく、ひとえに地勢が険固なのだ。事情をよく知る使君からそれを上奏してはどうか」と説いたが、姚嵩は聞かず、趙琨は衆寡敵せず楊盛に敗れた。
義熙十二年(416年)
- 楊盛が秦の祁山を攻めて抜いた。
宋武帝永初二年(421年)
- 楊盛を仇池王に封じた。
宋文帝元嘉二年(425年)
- 楊盛が死に、子の玄が立った。
- 盛は晉が滅んだと聞いても義熙の年号を改めず、世子の玄に「私は老いた、最後まで晉の臣で終わる。お前は宋帝によく仕えよ」と言い残した。玄は立って喪を告げる使を送り、初めて元嘉の年号を用いた。
元嘉三年(426年)
- 龎諮が武興に拠り、楊難當が兵を率いて拒んだが勝てなかった。難當は玄の弟である。
元嘉四年(427年)
- 楊玄が秦(夏)の梁州刺史赫連輔政を赤水に囲み、軍糧が尽きて民が輔政を捕えて降った。輔政は駱谷まで来て逃げ帰った。
- 魏が楊玄を南秦王に封じた。魏は公孫軌に策書を持たせて玄を拝任させたが、玄が国境まで出迎えなかったので軌が責め、玄は恐れて郊外まで出迎えた。
元嘉六年(429年)
- 楊玄が死に、弟の難當が玄の子の保宗を廃して自立した。
元嘉九年(432年)
- 難當は保宗を宕昌に鎮させ、子の順に上邽を守らせた。保宗が難當を襲おうと謀ったため、難當は保宗を囚えた。
- 楊難當が司馬飛龍を蜀に侵入させて陰平太守を追ったが、益州刺史の劉道濟が撃って斬った。
- 劉道濟は苛斂誅求で酷薄だったため、流民の許穆之が姓名を偽って司馬飛龍と称し、晉室の近親だと言って難當を頼った。難當は民の怨みに乗じて飛龍に兵を与え益州を侵させたが、道濟が撃ち斬った。蜀人の趙廣らはこれに乗じて司馬飛龍の名を掲げて乱を起こし道濟を攻め、のちに裴方明が討ち平らげ、一年余りを経てようやく鎮まった。
元嘉十年(433年)
- 楊難當が漢中を襲って占拠した。
- 梁秦刺史の甄法護は刑政が治まらず氐羌との和を失ったので、宋帝は蕭思話を代わりに起用した。難當は思話がまだ着任せず法護が退こうとしている隙に兵を挙げ、白馬を襲い葭萌を攻めた。法護は城を棄てて洋川の西城へ奔り、難當は漢中の地を手に入れた。
元嘉十一年(434年)
- 蕭思話が楊難當を討ち破り、漢中を取り返した。
- 思話は襄陽に至って蕭承之を前駆とし、道すがら兵を集めて磝頭に拠った。難當は漢中を焼き掠めて衆を率い西へ還り、趙温に梁州を、薛健に黄金山を守らせた。
- 思話は陰平太守の蕭坦に鉄城戍を攻め落とさせ、臨川王義慶は裴方明を送って承之を助け黄金戍を抜いた。趙温は州城を棄て、思話がこれを撃破。薛健は下桃に退いて守った。
- 難當は子の和と蒲甲子らに蕭承之を撃たせ、四十余日にらみ合った。承之が矟で突きかかると氐は支えきれず大桃へ走って拠り、追撃して斬獲は多かった。漢中の旧領をすべて回復し、葭萌水に戍を置いた。甄法護は死を賜り、蕭思話は鎮を南鄭に移した。
元嘉十三年(436年)
- 楊難當が大秦王を自称し、建義と改元した。それでも宋・魏への貢奉は絶やさず、のちに再び武都王を称した。
- 魏が上邽の楊難當を伐って降した。魏はまず崔賾に詔書を持たせて難當を諭し、難當は恐れて詔を奉じ、上邽の守兵を収めて仇池に還り、子の順を雍州刺史として下辨を守らせた。
元嘉十六年(439年)
- 楊難當が魏の上邽を侵した。魏主が璽書で責めたため、難當は仇池に引き還した。
元嘉十八年(441年)
- 楊難當が漢川を侵し、裴方明に討たせる詔が下った。
- 難當は国を挙げて侵入し蜀の地を取ろうと謀り、苻沖を東洛に出して梁州の兵を防がせたが、劉真道が沖を撃ち斬った。難當は葭萌を攻め落として晉寿太守の申坦を捕え、そのまま涪城を囲んだが、劉道錫が籠城して固守し、十余日攻めても落とせず引き揚げた。
元嘉十九年(442年)
- 裴方明が楊難當を破り、難當は魏に奔って、楊保熾が仇池を守った。
- 方明らは漢中に至り、劉真道と兵を分けて武興・下辨・白水を攻め、いずれも取った。難當は苻弘祖に蘭臯を守らせ、子の和に重兵を与えて後詰とした。方明は濁水で弘祖と戦って大破し、赤亭まで和を追ってこれも破った。難當は上邽へ奔り、その兄の子の保熾を捕え、さらに子の虎を捕えて建康に送って斬った。
- 仇池は平定され、胡崇之を北秦州刺史としてこの地に鎮させ、保熾を楊玄の後嗣に立てて仇池を守らせた。魏は難當を迎えて平城に赴かせた。劉真道と裴方明は結局、金宝・馬を隠匿した罪に問われて下獄し死んだ。
元嘉二十年(443年)
- 魏が仇池を攻めて取り、楊保熾は逃走した。
- 魏が武都王の楊保宗を殺し、宋は楊文徳を武都王に立てて葭蘆城に屯させた。
- 保宗が魏に叛こうと謀ったため、魏の河間公が雒谷を鎮していて保宗を誘い出し、平城へ送って殺した。鎮東司馬の苻達はこれを機に兵を挙げて楊文徳を主に立て、白崖に拠り、兵を分けて諸戍を取り、進んで仇池を囲んで仇池公を自称した。
- 魏は古弼を遣わして文徳を撃ち、文徳は退いた。皮豹子は関中の諸軍を率いて下辨に至り、仇池の囲みが解けたと聞いて帰ろうとしたが、弼は「宋人は敗戦を恥じて必ず再来する。撤兵後にまた挙げられては厄介だ。兵を練り力を蓄えて待つがよい。秋冬のうちに必ず宋軍は来る」と伝え、豹子はこれに従った。魏は豹子を仇池鎮将とした。
- 楊文徳が使を遣わして援軍を求め、秋七月に文徳を葭蘆城に屯させる詔が下り、武都・陰平の氐の多くが文徳に帰属した。
- 宋の姜道盛と楊文徳が兵を合わせて魏の濁水城を攻めたが落とせず、魏の皮豹子らが救援し、道盛は戦死した。
元嘉二十四年(447年)
- 魏が楊文徳を撃ち、文徳は漢中へ敗走した。
- 文徳は葭蘆城に拠って氐羌を招き寄せ、武都の五郡の氐がみな応じたが、魏の仇池鎮将皮豹子が諸軍を率いて撃ち、文徳は漢中へ奔った。宋はその爵位と領土を削った。
元嘉二十七年(450年)
- 陰平・平武郡を取り、楊頭に葭蘆を守らせた。
- 楊文徳を輔国将軍に起用し、兵を率いて漢中から西へ入らせて汧・隴を揺さぶらせ、陰平・平武はすべて平定された。梁南秦刺史が文徳に啖提の氐を伐たせたが落とせず、文徳を捕えて荊州に送り、文徳の従祖兄の楊頭に葭蘆を守らせた。
元嘉三十年(453年)
- 蕭道成らが氐羌を率いて魏の武都を攻めたが、魏の鎮将苟莫干が突騎で救援したため、道成らは南鄭に引き還した。
孝武帝孝建二年(455年)
- 楊保宗の子の元和を征虜将軍、楊頭を輔国将軍とした。
- 元和は保宗の子だが幼弱だったため宋は位号を正さず、部落に定まった主がいなかった。族父の楊頭は先に葭蘆を守り、母・妻・子弟をみな魏に捕えられながら、宋のために堅く守って二心がなかった。
- 王玄謨は、頭を西秦州刺史としてその衆を安んじ、元和が成長したら旧業を継がせ、器でなければそのまま頭に授ければ漢川の守りとなって敵の患いがなくなる、葭蘆が守れなければ漢川も保てない、と請うたが、容れられなかった。
明帝泰始二年(466年)
- 楊僧嗣を武都王とした。
- もと武都王の楊元和が国を棄てて魏へ奔ったため、従弟の僧嗣が自立して葭蘆に屯した。蕭恵開が兵を梁州へ送ると、僧嗣は氐の群を率いてその道を断ち、間者を通じて朝廷に事情を伝えたので、武都王に任じられた。恵開は益州から挙兵したが刑罰・誅殺が多く、蜀人に猜疑され怨まれて兵が集まり成都を囲んだ。帝がその罪を赦すと囲みも解けた。
蒼梧王元徽元年(473年)
- 楊僧嗣が葭蘆で死に、弟の文度が立って魏に降った。魏は文度を武興鎮将とした。
順帝昇明元年(477年)
- 楊文弘が仇池を襲って陥れ、魏の皮歓喜らが討つと、文弘は城を棄てて走った。魏は葭蘆を抜いて楊文度を斬り、その弟の文弘を武都王とした。
- 魏は楊難當の族弟の廣香を陰平公・葭蘆戍主とし、あわせて歓喜に駱谷城を築かせた。文弘は魏に上表して謝罪し、子の苟奴を人質として入侍させた。
齊高帝建元元年(479年)
- 魏の葭蘆鎮主の楊廣香が齊に降った。
建元二年(480年)
- 齊は楊難當の孫の後起を武都王とし、武興に鎮させた。
武帝永明四年(486年)
- 氐王の楊後起が死に、同族の集始が立った。集始は文弘の子である。後起の弟の後明は白水太守となり、魏もまた集始を武都王とした。
永明十年(492年)
- 楊集始が漢中を侵して白馬に至ったが、梁州刺史の陰智伯が撃ち破った。集始は武興へ走り還り、魏に降を請うた。
明帝建武二年(495年)
- 魏が蜀の南鄭を囲んだが落とせなかった。
- 魏の仇池鎮将拓跋英が南鄭を囲むと、梁州刺史の蕭懿が仇池の諸氐を誘って輸送路を断ったので、英は全軍を率いて還った。
建武四年(497年)
- 氐の首領の楊靈珍が齊に降り、弟を遣わして武興王の集始を襲わせ、集始の二人の弟の集同・集衆を殺した。集始もまた齊に降った。魏は李崇を遣わして討たせ、武興を攻め落とし、靈珍は齊に奔った。
- 李崇は山を切り開いて道を分け、氐の不意を突いて表裏から襲ったので、氐の群はみな靈珍を棄てて散り帰った。崇は進んで赤土に拠った。
- 靈珍は従弟の建を龍門に屯させ、自ら精鋭一万を率いて鷲峡に屯し、龍門の北数十里にわたって樹を伐って道を塞ぎ、鷲峡の口には大木を積み礌石を集めて崖上から落とし魏兵を拒んだ。
- 崇は慕容拒に別路から夜襲させて龍門を破り、自ら鷲峡を攻めた。靈珍は連戦して敗走し、その妻子を捕えられ、武興は落ちた。靈珍は漢中へ奔り還った。
- 魏主はこれを聞いて喜び「朕に西を顧みる憂いをなくさせたのは李崇である」と言った。靈珍は仇池公・武都王とされた。
齊東昏侯永元二年(500年)
- 楊集始が齊から魏に降り、武興を守った。
- 集始は一万余の衆を率いて漢中から北へ出て旧領の回復を図ったが、魏の梁州刺史楊椿が書を送って利害を説いたので、集始は魏に降った。魏はその爵位を返して武興を守らせた。
梁武帝天監二年(503年)
- 楊集始が死に、子の紹先が立った。紹先は幼く、国事は二人の叔父の集起・集義が決した。
天監四年(505年)
- 漢中太守の夏侯道遷が楊靈珍を殺し、漢中を挙げて魏に叛降した。
- 道遷はもと南譙太守で魏に奔り、魏は道遷を王肅に従わせて寿陽を鎮させ、合肥を守らせた。肅が死ぬと道遷は戍を棄てて(梁に)来降し、梁州刺史莊丘黒に従って南鄭を鎮し、漢中太守を兼ねた。黒が死に、王珍國を刺史とする詔が下ったがまだ着任しないうちに、道遷は魏に降ろうと謀った。
- 先に楊靈珍が来降して仮の武都王とされ、漢中の守備を助け六百余人の部曲を持っていた。道遷はこれを憚り、兵を出して靈珍父子を撃ち斬り、その首を魏に送った。
- 魏は邢巒を梁・益諸軍事の都督とし、諸城戍を攻めて向かうところ破った。晉寿太守の王景胤が石亭に拠ると巒は将を遣わして走らせ、巴西太守の龎景民が郡に拠って降らなかったが、郡民の嚴玄思が魏に附いて景民を攻め斬った。
- 楊集起・集義は魏が漢中を取ったと聞いて恐れ、氐を率いて魏に叛き漢中の糧道を断ったが、巒はたびたび軍を出して撃ち破った。
- 梁は孔陵を深坑に、魯方達を南安に、仕僧襃らを石同に置いて魏を拒んだが、邢巒が王足に兵を与えて撃ち破らせ、そのまま剣閣に入った。孔陵らは梓潼へ退いて守り、梁州十四郡、東西七百里・南北千里の地がことごとく魏の手に入った。
天監五年(506年)
- 魏が楊紹先を捕えてその国を滅ぼし、東益州を置いた。
- 紹先が帝を称し、集起・集義が王を称して魏の関城を囲んだが、邢巒が傅豎眼にこれを破らせ、武興を落として楊紹先を捕え洛陽に送った。楊集起・集義は逃走し、その国は滅んで武興鎮とされ、のちに東益州と改められた。
史論(論曰)
- 蜀は長江の上流にあたり、褒斜と漢中は蜀の門戸、武都はさらにその漢中の垣根である。
- 江左の君臣は蜀を土くれのように軽んじ、長江の全勢さえあれば蜀は要らぬと考えて、蜀と漢中を度外視した。そのため取るに足りない氐羌が四州の険に拠り、二百年を経てようやく滅びるという事態になった。
- 武都がなければ漢中はなく、漢中がなければ蜀もない。蜀が梁の所有でなくなり、一代で陳に移ると、江左の勢は孤立した。この覆轍を鑑としないでよいはずがない。
- しかも武都・四川の地で氐羌が二百年も国を保てたのなら、呉蜀の全力をもってすれば守れなかったはずがない。