蜀鑑蜀の刺史、はじめて武人に限らなくなる(蜀刺史始不専用武人)

晉以来、益州刺史には必ず名将が起用されてきたが、齊の武帝が永明二年(484年)に十四歳の始興王鑑を益州刺史に据えた一件を扱う。鑑は盗賊の首領韓武方の降を赦して信を示し、巴一帯の蛮夷までが従い、蜀人に喜ばれた。これを機に、蜀の士人が世に顕れなかった原因を、招き寄せる側の刺史の質に求めて論じる。

年表(1件)
  • 齊武帝
  • 永明二年484年武人でない始興王鑑を益州刺史とし、韓武方を赦して蜀人を服させる

齊武帝永明二年(484年)

  • 初めて始興王鑑を益州刺史とした。
  • 晉以来、益州刺史には必ず名将が起用されてきたが、帝は始興王鑑を刺史とした。
  • それ以前、盗賊の首領の韓武方が千余人の徒党を集め、水路を断って暴威をふるい、郡県も禁じられなかった。鑑が任地の境に至ると韓武方は出て降り、僚佐はみな殺すよう請うたが、鑑は「殺せば信を失い、善に励ませることもできない」と言って赦した。
  • これによって巴一帯の蛮夷で寇害をなす者もみな風になびいて降り従った。鑑はこのとき十四歳、文学を好み、器物や衣服は普通の士人のようであったので、蜀の人々は喜んだ。

史論(論曰)

  • 巽巖の李氏はいう。晉の永和に桓温が李氏(成漢)を平定してから、梁の承聖に蜀がすべて周に入るまで、四代にわたって蜀は南朝に領有された。苻堅の侵入や譙縦の簒奪で一時中断しても、すぐに討ち平らげ、江東への貢納も長く続いた。
  • それにもかかわらず蜀の士人で世に顕れた者がいない。両漢のころ、蜀人の文章・節義は天下に冠たるもので帝都の柱石ですらあった。両漢に用いられた人材が晉宋齊梁に用いられぬはずはなく、非は彼らを招き寄せられなかった側にある。
  • 著者の按ずるところでは、蜀の士大夫は杜弢らの流亡に巻き込まれ、蛮獠の衝突で人が絶え、もはや両漢のころの姿ではなくなっていた。加えて益州刺史となる者に穏やかな善政を布く者がいなかった。
  • それでも、乳臭い少年で文学を少しかじった程度の始興王鑑にすら蜀人は心を寄せた。邢巒も蜀の民望のある者や文学の士は少なくないが、多くは山谷に住んで仕官の道を得られないと言っている。往時の遺風がすっかり消え失せたわけではあるまい。李文簡公の論は、当時の実情をよく突いている。