蜀鑑劉裕、譙縦を討つ(裕討譙縱)

桓玄の簒奪に端を発する蜀の動乱と、劉裕による譙蜀平定までを扱う。元興二年(403年)に毛璩が桓玄討伐の檄を伝えたが、義熙元年(405年)に参軍の譙縦が担がれて毛璩を殺し、蜀に割拠した。司馬栄期・毛修之・劉敬宣の討伐はいずれも果たせず、義熙八年(412年)に劉裕が朱齢石を派遣し、外水から成都を突く奇策で翌年に譙縦を自殺させ、譙道福も斬られて蜀は平定された。

年表(9件)

晉安帝元興二年(403年)

  • 桓玄が帝位を僭称すると、益州刺史の毛璩が檄を遠近に伝えてこれを討ち、進んで白帝に駐屯した。

桓玄の誅殺(404年)

  • 毛修之と馮遷が江陵で桓玄を斬った。
  • 桓振がふたたび江陵を陥れた。

義熙元年(405年)

  • 毛璩が三万の兵を率いて長江を下り、桓振を討とうとした。毛璩は弟の毛瑾を外水へ出したが、参軍の譙縦が背いて涪城で毛瑾を殺した。毛璩は成都へ帰ったところを譙縦らに殺された。

義熙二年(406年)

  • 益州刺史の司馬栄期が白帝に譙明子を撃って破った。
  • 劉裕が龍驤将軍の毛修之に兵を率いさせ、司馬栄期らとともに討たせた。毛修之が宕渠に至ったところで司馬栄期が参軍の楊承祖に殺され、毛修之は白帝へ退いた。

義熙三年(407年)

  • 毛修之が漢嘉太守の馮遷とともに楊承祖を撃って斬った。
  • 劉裕が上表して襄城太守の劉敬宣に蜀を討たせ、劉道規を征蜀都督とした。

義熙四年(408年)

  • 劉敬宣が諸将とともに黄虎に至ったが、譙縦と譙道福が防いだため、劉敬宣は軍を引き返した。

義熙六年(410年)

  • 譙縦が桓謙と譙道福を送って荊州を侵させたが、荊州刺史の劉道規が枝江で大いに破った。

義熙八年(412年)

  • 太尉の劉裕が朱齢石を益州刺史とし、臧熹・劉鍾らを率いて蜀を討たせた。

義熙九年(413年)

  • 六月、朱齢石は外水から成都へ入り、臧熹は中水から広漢へ入った。

史論(論曰)

  • 劉裕が封じた書を白帝で開かせたやり方は、かつて岑彭が墊江から江州へ戻り、都江をさかのぼって武陽へ出た策と同じ知恵である。

  • 譙道福は涪城に鎮した。

  • 譙縦は侯暉と譙詵に一万余の兵を率いさせて平模に駐屯させたが、朱齢石が諸軍を率いて攻め落とした。
  • 譙撫之は牛鞞に駐屯し、譙小苟は打鼻を塞いでいたが、臧熹が譙撫之を撃って斬り、これを聞いた譙小苟の軍も潰えた。
  • 譙縦は成都を捨て、朱齢石が成都に入った。譙縦は自殺し、譙道福も獠族の中で捕らえられて斬られた。