蜀鑑漢の諸葛忠武侯、北伐する(漢諸葛忠武侯北伐)
蜀漢建興五年(227年)に丞相諸葛亮が漢中へ進駐してから、建興十一年(233年)八月に五丈原で薨去するまでの北伐の全経過。祁山出撃で隴右三郡を得ながら馬謖の街亭敗戦で失い、陳倉・武都陰平・祁山再攻と出兵を重ね、司馬懿とは持久戦になった。魏延の子午谷奇襲策を退けて安全な道を採り、木牛・流馬による輸送や屯田で兵糧難を克服しようとしたが、志半ばで病没する。張宣公の史論は、成否を度外視して身を尽くした武侯の姿勢を、功利の説に流れぬ正義の実践として讃える。
年表(11件)
- 蜀漢建興五年227年諸葛亮が漢中に進駐し、沔水北岸の陽平・石馬に陣営を構える
- 建興六年228年祁山を攻めて天水・南安・安定の三郡が降り、関中が震撼する
- 街亭の敗戦228年馬謖が張郃に大敗し、亮は馬謖を処刑して三郡も魏に戻る
- 建興六年冬・陳倉の役228年陳倉を囲むも郝昭に守られ、糧尽きて退き王双を斬る
- 建興八年230年陳式に攻めさせ、郭淮を退けて武都・陰平の二郡を奪取する
- 漢城・楽城の築造陣営を南山の原上に移し、沔陽に漢城、城固に楽城を築く
- 魏の三道来攻・城固赤坂230年三道から来攻した魏軍が大雨と桟道断絶で引き揚げる
- 建興九年231年木牛で輸送し祁山を囲み、退軍の追撃で張郃を射殺する
- 建興十年232年黄沙で兵を休めて農事を勧め、流馬を作って輸送に用いる
- 建興十一年233年五丈原に屯し、兵を分けて屯田し長期駐留の基礎を築く
- 建興十一年八月・諸葛亮の死233年百余日の対陣のうちに病を得て渭南で薨去、享年五十四
蜀漢建興五年(227年)
- 丞相諸葛亮が漢中に進出して駐屯し、沔水北岸の陽平・石馬に陣営を構えた。
建興六年(228年)
- 諸葛亮が出師して祁山を攻め、天水・南安・安定の三郡がいずれも降った。
- 出撃前の軍議で、丞相司馬の魏延が精兵五千と運搬の五千を借り受け、褒中から秦嶺沿いに東へ進んで子午谷を北上すれば十日で長安に達すると献策し、亮は斜谷から出て合流すればよいと説いた。亮はこれを危険な策とし、平坦な道を安全に進んで隴右を平定する方が優ると判断して用いなかった。
- 亮は斜谷から郿を取ると触れ回り、趙雲・鄧芝を疑兵として箕谷に据え、自らは大軍を率いて祁山を攻めた。軍陣は整然とし号令も厳粛で、天水・南安・安定は魏に叛いて亮に呼応し、関中は震撼した。
街亭の敗戦(228年)
- 魏は張郃を派遣して亮を防がせた。馬謖が前軍を督して街亭で張郃と戦ったが、亮の指示に背いて処置が乱れ、水辺を捨てて山に登り城に拠らなかった。張郃に汲水路を断たれて大敗した。
- 亮は西県の千余家を移して漢中に引き揚げ、馬謖を獄に下して処刑した。趙雲・鄧芝も箕口で敗れ、天水以下の三郡は再び魏の手に戻った。
建興六年冬・陳倉の役(228年)
- 冬、亮は散関を出て陳倉を囲んだが陥とせず、撤退した。追撃してきた魏将の王双を破って斬った。
- このとき亮は上表し、漢と賊とは並び立たず王業は一隅に安んじられないこと、先帝も自分の才が弱く敵が強いのを承知の上で討伐を託したこと、討たなければ王業もまた滅ぶこと、民は窮し兵は疲れていても事業は止められず、止まっていても動いていても労費は同じであることを述べ、身を尽くして死ぬまで務めるのみで、成否や巧拙は自分の見通せるところではないと結んだ。
- 魏は郝昭に陳倉を守らせ、亮は陥とせず兵糧が尽きて引き揚げた。
建興八年(230年)
- 亮が武都・陰平の二郡を攻めて奪取した。
- 部将の陳式に二郡を攻めさせ、救援に来た魏の郭淮に対しては亮自ら建威まで出たため郭淮は退き、二郡を得て帰還した。
漢城・楽城の築造
- 亮は府の陣営を南山の原上に移し、沔陽に漢城を、城固に楽城を築いた。
魏の三道来攻・城固赤坂(230年)
- 魏は司馬懿を西城から、張郃を子午から、曹真を斜谷から進ませて攻めてきた。亮は城固の赤坂に軍を進めて待ち構えた。
- 大雨が続いて桟道が断絶したため、曹真らはみな引き揚げた。
建興九年(231年)
- 春、亮が出軍して祁山を囲み、初めて木牛を用いて輸送した。魏の司馬懿・張郃が祁山を救援に向かった。
- 亮は兵を分けて祁山攻囲を続けさせ、自らは上邽で司馬懿を迎え撃った。邀撃してきた郭淮らを破り、麦を大きく刈り取った。上邽の東で司馬懿と対峙したが、懿は険に拠って軍を収め、交戦に応じない。
- 亮が鹵城まで引くと懿も追ってきたが、山に登り塁を掘って戦おうとしない。賈詡・魏平がしきりに交戦を求め、蜀を虎のように畏れては天下の物笑いだと言い立てたため、懿はこれを苦にして張郃を亮に向かわせた。亮は魏延らに迎え撃たせ、魏軍は大敗して漢軍は首級三千を得、懿は営に退いて守った。
- 六月、亮は兵糧が尽きて退軍した。懿が張郃に追撃させ、郃は木門まで進んで亮と戦ったが、蜀軍は高所に伏兵を置いて弓弩を乱射し、飛矢が郃の右膝に当たって郃は死んだ。
建興十年(232年)
- 亮は黄沙で兵を休ませて農事を勧め、流馬を作って輸送に用いた。
建興十一年(233年)
- 亮は諸軍に米を斜谷へ集めさせて魏を討ち、夏四月に郿に至って渭水の南に布陣し、五丈原に駐屯した。
- 司馬懿は軍を渭水の南に渡して水を背に塁を築き、亮が武功に出て山づたいに東へ進めば憂慮すべきだが、五丈原に上るなら心配ないと諸将に語った。果たして亮は五丈原に屯した。
- 郭淮は懿に、亮は必ず北原を争うはずで、渭を跨いで原に登り北へ兵を連ねれば隴道が絶たれ民や異民族が動揺すると説き、自ら北原に屯した。漢軍が大挙して来たが郭淮が迎撃して退けた。
- 亮はこれまでの出兵がいずれも兵糧の続かぬために志を遂げられなかったことから、兵を分けて屯田し長期駐留の基礎とした。耕作する兵は渭水沿いの住民に混じったが民は落ち着いて暮らし、軍が私利をむさぼることはなかった。
建興十一年八月・諸葛亮の死(233年)
- 亮がしきりに挑戦しても司馬懿は出てこない。亮が女性の頭巾を送りつけると、懿はこれを恥じて上表し交戦の許可を求めた。魏主曹叡は辛毗に節を持たせ軍師として懿を抑えさせた。
- 亮は配下に、懿にもともと戦う気はなく、あえて交戦を請うのは配下に武勇を示すためだ、将は軍にあれば君命でも受けないことがある、本当に自分を抑えられるなら千里も離れた朝廷に交戦を請うはずがない、と語った。
- 百余日にらみ合ううち亮は病に倒れ、楊儀・費禕らに密かに退軍の手順を授けた。八月、渭南で薨去、享年五十四。遺言により定軍山に葬らせ、封土も植樹もせず、墓所を知る者はなかった。
史論(張宣公曰)
- 三代が衰えて五覇が起こると功利の説が天下に満ち、国政を謀る者は正義を正し道を明らかにすることの尊さを忘れた。三老董公ひとりが大綱をつかんで漢の高帝に告げたが、高帝はそれを十分に生かせなかった。
- 武侯は漢の命運の末期にあってその要をつかんで用い、漢と賊とは並び立たぬ、身を尽くし力を尽くして死ぬまで務めるだけで成否は自分の見通すところではない、と言った。これは夏の少康が四十年かけて祭祀を再建し天に配された、その本心と同じである。
- 昭烈は大義名分が正しく賢を好む志も篤かったのだから、武侯が身を捧げないはずがない。
- 武侯の復興の構想は根本の計を先とし、農事を興し兵を鍛え、まず内政を治め、国内が定まってから北伐に向かい、出師に臨んでは表を奉って忠誠を尽くした。その慮りは深く遠い。
- 耕す兵が渭水沿いの民に混じっても軍に私がなかったほどで、天下回復はもはや眼前にあったのに不幸にして薨じたのは、やはり天命というものか。
- 魏延の策を用いなかったのを惜しむ者もいるが、天が漢を興そうとするなら武侯の采配で乱賊を掃討するのは付随的なことにすぎず、危険を冒して僥倖を狙うのは武侯の志ではなかった。