蜀鑑岑彭・呉漢、長江の道より蜀を取る(岑彭吳漢由江道取蜀)
建武五年(29年)に岑彭が津郷に駐屯してから、建武十二年(36年)に呉漢が成都へ入って公孫述が自殺するまでの八年間。述は田戎らに江関を下らせて荊門・虎牙に浮橋を架け水陸を塞いだが、岑彭は火計で浮橋を焼き、江関から墊江へ遡って侯丹を破り、臧宮は涪水に延岑を大破して武陽を落とした。岑彭が刺客に倒れたのちは呉漢が引き継ぎ、広都・江州・綿竹を順に落として成都を陥れる。隴からの道は易く見えて難く、長江を遡る道は難しく見えてかえって功を成したと論じる。
建武五年(29年)
- 岑彭が夷陵から津郷へ移って駐屯した。
建武六年(30年)
- 公孫述が田戎に江関から出撃させ、旧来の部下を集めて荊州を取ろうとしたが果たせなかった。
建武九年春(33年)
- 述は田戎を江関から下らせ、荊門と虎牙を占拠させた。
建武十一年春(35年)
- 岑彭が夷陵を破って江関に入り、墊江まで遡上した。馮駿は江州を守った。
- 述は将の延岑・呂鮪・王元・公孫恢に広漢および資中を守らせ、さらに侯丹に黄石を守らせた。
- 岑彭は墊江から江州へ戻り、都江を遡って侯丹を襲撃し大いに破った。臧宮には涪水で延岑を防がせてこれも大破し、彭は進んで武陽を落とした。
史論(論曰)
- 延岑は広漢から涪水に入って墊江(今の合州)を防ぎ、岑彭は墊江から下って江州を経て都江を遡り武陽(今の彭山県。今の洌州から重慶府へ戻り、瀘・叙・嘉・眉へ上る経路)を落とした。この機動の速さこそ蜀の人々が「神業だ」と驚いた理由である。
- ただし史書が「都江から昼夜兼行で二千里を進んで武陽に至った」とするのは誇張による誤りである。
建武十一年冬(35年)
- 冬十月、岑彭が武陽で刺客に殺された。十二月、呉漢が三万の兵を率いて長江を遡上した。
建武十二年(36年)
- 春正月、呉漢が進んで広都を落とした。
- 秋七月、馮駿が江州を落として田戎を捕らえ、臧宮が綿竹を落として涪城を破り、公孫恢を斬った。
- 呉漢が成都に入り、公孫述は自殺した。延岑は誅された。
史論(論曰)
- 光武は隴を得て蜀を望んだが、その道は容易に見えて実際には功を挙げるのが難しかった。逆に岑彭が長江を遡って蜀を討つのは難しく見えて、かえって功は容易に成った。
- 下弁も河池も武都の要害であり、述がここを固く守ったので、隴からの侵攻は容易に隙を見出せなかった。
- 一方、瞿唐は蜀の天険でありながら述はここを守らず、遠く荊門・虎牙を頼みとした。浮橋が一度焼かれると述の手立ては尽きた。
- 光武が漢を中興して旧来の版図を回復しているのに、述はなお辺境の一隅に跳梁していた。その見識は井の中の蛙と変わらず、身を滅ぼしたのは不運ではなく当然の結果である。