蜀鑑秦人、蜀を取る(秦人取蜀)

秦惠文王更元九年(前316年)に司馬錯が蜀を滅ぼしてから、秦昭襄王二十二年(前285年)に蜀侯を廃して蜀守だけを置くまでの三十二年間。秦は通国・惲・綰と王子を続けて蜀侯に立てたが、陳壮の乱をはじめ反乱が絶えず、いずれも殺されて終わった。張若を守として黔中を定め、李冰を用いて水害を治めたことで蜀はようやく安定し、のちに漢の高帝が三秦を奪う足場となる。

年表(6件)

秦惠文王更元九年(前316年)

  • 司馬錯が蜀を攻め、これを滅ぼした。

秦惠文王更元十一年(前314年)

  • 王子の通国を蜀侯に封じ、陳壮を相とした。あわせて巴郡を置き、張若を蜀国の守とし、秦の民一万戸を移して土地を実らせた。

秦惠文王更元十四年(前311年)

  • 陳壮が反乱を起こし、蜀侯通国を殺した。秦は甘茂・張儀・司馬錯を差し向けて再び蜀を討ち、陳壮を誅した。

秦武王元年(前310年)

  • 王子の惲を蜀侯に封じた。

秦昭襄王六年(前301年)

  • 蜀侯惲が反乱。司馬錯が蜀を平定し、王子の綰を蜀王に封じた。

秦昭襄王二十二年(前285年)

  • 王は蜀侯綰を誅し、以後は蜀侯を置かず蜀守の張若を置くだけとした。張若は筰および江南の地を取った。

史論(論曰)

  • 秦は蜀を取ったあと、身内の子弟三人を続けて王侯に立てながら、いずれも最後は殺している。平定までに三十二年を要しており、蜀を我がものにするのは容易ではなかった。
  • はじめに張若を守に据えて黔中を定め、次に李冰を用いて水害を鎮めた。ここから蜀は安定し、やがて漢の高帝がこの地を足がかりに三秦を奪った。蜀の帰属が持つ意味は重い。