諸葛忠武書中原への出師(北伐)

編者按

  • 陳壽の伝える諸葛集ではもと「北出」といったのを『武侯全書』は「北伐」と改めた。名義としてはそのほうが正しい。
  • ただし後主の詔一通は六師の先駆けであり、孔明の二表はいずれも千古の正気であるのに、配列が混乱していた。今これを整えて掲げる。
  • 営星が墜ちて遺恨は果たされず、英雄の襟を涙で濡らして千載の後も腕を扼させる。そこで文長(魏延)・公琰(蔣琬)の危うい計、伯約(姜維)・元遜(諸葛恪)の空しい策も抜き書きして、侯の志に附す。

建興元年(223年) 魏からの勧降と「正議」

  • 丞相亮を武郷侯に封じ、府を開いて事を治めさせた。
  • 当時、魏の司徒華歆、司空王朗、尚書令陳羣、太史令許芝、謁者僕射諸葛璋がそれぞれ亮に書を送り、天命と人事を陳べて国を挙げて藩を称するよう勧めた。亮は返書せず、「正議」を作って論じた。
  • (正議より)昔、項羽は徳によらずに起こり、華夏に処って帝者の勢を握りながら、ついに誅戮されて後世の永い戒めとなった。魏はそれを鑑みず、今また同じ道をたどっている。身を免れるのが幸いで、戒めは子孫に及ぶ。それなのに諸君はそれぞれ老齢の身で偽りの指示を承けて書を進め、王莽の功を崇め称えるようなことをしている。大禍に迫られて苟くも免れようというのか。
  • (同)昔、世祖(光武帝)は旧基に迹を創め、疲れた卒数千を奮い立たせて、王莽の強旅四十余萬を昆陽の郊で摧いた。道に拠って淫を討つのに、衆寡は問題ではない。孟德(曹操)に至っては、その譎りで勝つ力をもって数十萬の師を挙げ、平陽に張郃を救おうとして勢い窮まり悔い、辛うじて身を脱するのがやっとで、鋒鋭の衆を辱め、ついに漢中の地を失った。神器を妄りに得られぬと深く知り、還る途中で毒に感じて死んだ。子の桓(曹丕)は淫逸で、それを継いで簒奪した。
  • (同)たとい諸君が蘇秦・張儀の詭弁を弄し、驩兠の滔天の辞を奉り進めて、唐帝(堯)を誣い毀し禹・稷を諷して解こうとしても、いたずらに文藻を費やし翰墨を煩わすだけだ。大人君子のせぬことである。また『軍誡』に「萬人が死を決すれば天下を横行できる」とある。昔、軒轅氏は卒数萬を整えて四方を制し海内を定めた。まして数十萬の衆をもって道に拠り罪ある者に臨むのだ。どうして干し量れようか。

建興三〜五年(225〜227年) 出師

  • 建興三年(225年)、丞相亮は南中から還り、北征に備えて戎を治め武を講じ、大挙を待った。
  • 建興五年(227年)三月、後主が詔した。「かつて漢の祚は中ごろ衰え、網の目から凶悪の者が漏れた。曹操は禍に乗じて天衡を盗み執り、子の丕という孤り立ちの小者があえて乱の階を尋ねて神器を盗んだ。昭烈皇帝は皇綱を承けられたが、萬国はまだ靖まらぬうちに早世された。朕は幼くして前緒を戴き、凶逆を討とうとしたが、朱旗を挙げぬうちに丕もまた殞れた。これこそ『我が薪を燃やして自ら焼く』というものである。
  • (同)残る醜類がなお天の禍を支え、河洛に恣にして兵を阻んで已まぬ。諸葛丞相は弘毅忠壮、身を忘れて国を憂え、先帝が天下を託されて朕の身を助けさせられた。今これに旄鉞の重きを授け、専命の権を付し、歩騎二十萬の衆を統領させ、元戎を董督して天討を行わせる。旧都を克復するのはこの行にある。
  • (同)呉王孫権は災患を共に憂えて謀を合わせ犄角をなし、涼州の諸国の王もそれぞれ月支・康居の胡侯支富・康植らを遣って節度を受けさせている。大軍が北に出て旌麾が道を進むにあたり、通る土地で兵を窮め武を極めることは望まぬ。邪を棄て正に返り、簞食壺漿で王師を迎える者があれば、国に常典があって封寵の大小はそれぞれ品限がある。魏の宗族・枝葉の中外の者でも、利害を計り逆順の数を審らかにして降ってくる者は、みな罪を原免する。恩威を広く宣べ、その元帥を貸し、残された民を弔え。ほかは詔書と律令の通り。丞相はこれを天下に露布して、朕の意を伝えよ」。
  • 丞相亮は諸軍を率いて北の漢中に駐し、出発に臨んで疏を上った(出師表)。
  • (出師表より)先帝は創業なかばで中道に崩御された。今、天下は三分し、益州は疲弊している。まことに危急存亡の秋である。しかし侍衞の臣が内に怠らず、忠志の士が外で身を忘れているのは、先帝の格別の待遇を追慕し、それを陛下に報いようとしているからだ。聖聴を開き広げて先帝の遺徳を光らせ、志士の気を大きくすべきで、みだりに自らを卑しめ、たとえを引き違えて忠諫の路を塞いではならない。
  • (同)宮中と府中は一体であり、昇進も処罰も善悪の評価も異にしてはならない。姦を作し科を犯す者、忠善を尽くす者があれば、有司に付して刑賞を論じ、陛下の公平明察な政を明らかにすべきで、偏り私して内外の法を異にしてはならない。
  • (同)侍中・侍郎の郭攸之・費禕・董允らはみな善良篤実で志慮は忠純であり、先帝が選び抜いて陛下に遺された者である。宮中の事は大小となくすべて彼らに諮ってから行えば、必ず欠けや漏れを補って益するところがあろう。将軍の向寵は性行が淑やかで公平、軍事に通じ、昔試みに用いて先帝は「能あり」と称された。だから衆議は寵を推して督とした。営中の事はすべて彼に諮れば、必ず行陣は和睦し優劣それぞれ所を得よう。
  • (同)賢臣に親しみ小人を遠ざけたのが前漢の興隆した理由であり、小人に親しみ賢臣を遠ざけたのが後漢の傾頹した理由である。先帝は在世中、臣とこの事を論ずるたびに桓帝・靈帝のことで嘆息し痛恨されぬことはなかった。侍中・尚書・長史・参軍はみな貞良で節に死ぬ臣である。陛下がこれに親しみ信じられれば、漢室の隆盛は日を数えて待てる。
  • (同)臣はもと布衣で、南陽に耕し、乱世に苟くも性命を全うして諸侯に聞達を求めなかった。先帝は臣の卑しさを厭わず、自ら身を屈して三たび臣を草廬に訪ね、当世の事を諮られた。それに感激して先帝に駆け回ることをお約束した。その後、傾覆に遭い、敗軍の際に任を受け危難の間に命を奉じて、以来二十一年になる。
  • (同)先帝は臣の謹慎を知り、崩ずるに臨んで大事を託された。命を受けて以来、夙夜に憂え嘆き、託付が成らず先帝の明を傷つけることを恐れた。だから五月に瀘を渡り不毛に深く入った。今、南方はすでに定まり兵甲も足りた。三軍を励まし率いて北のかた中原を定めるべきである。駑鈍を尽くして姦凶を攘い除き、漢室を興復して旧都に還る。これが臣の先帝に報い陛下に忠を尽くす職分である。損益を斟酌して忠言を尽くすのは攸之・禕・允の任である。
  • (同)願わくは陛下、臣に賊を討ち興復する成果を託されよ。成らなければ臣の罪を治めて先帝の霊に告げ、攸之・禕・允らの怠りを責めてその咎を明らかにされよ。陛下もまた自ら謀って善道を諮り、雅言を察して納れ、深く先帝の遺詔を追われよ。臣は恩を受けた感激に堪えぬ。今、遠く離れるにあたり、表に臨んで涕が零れ、何を言うべきかも分からぬ。
  • こうして進んで沔陽に屯した。
  • (楊慎の説)孔明の出師表として今世に伝わるものはみな『三國志』を本にしている。『文選』の載せるところでは「先帝の霊」の下に「興德の言」の六字がない。他本にはみなある。文義としては欠けているので、『文選』を正とすべきだ。

建興六年(228年) 第一次北伐と街亭

  • 春、丞相亮が魏を伐ち、趙雲・鄧芝を疑軍として箕谷に拠らせ、自ら諸軍を率いて祁山を攻めた。南安・天水・安定の三郡が魏に叛いて亮に応じ、関中は響き震えた。
  • (魏略より)はじめ国家(魏)は、蜀中には劉備がいるだけで、備が死んで数年は音沙汰もなかったから、ほとんど備えをしていなかった。それが急に亮の出撃を聞いたので朝野は恐懼し、隴右と祁山は特に甚だしかった。だから三郡が同時に亮に応じたのである。
  • 魏の明帝が西して長安に鎮し、張郃に亮を防がせた。亮は馬謖に諸軍を督させて前に出したが、謖は街亭で郃と戦って亮の指図に違い、郃に破られた。亮は西県の千余家を移して漢中に還り、謖を戮して衆に謝した。
  • (王平傳より)謖は水を捨てて山に上り、指揮も煩雑で乱れた。平は続けて諫めたが、謖は用いなかった。
  • (趙雲傳より)雲と芝は兵が弱く敵は強くて不利になったが、衆を擁して固く守ったので大敗には至らなかった。亮が芝に「街亭の軍が退いたときは兵も将もばらばらになったのに、箕谷の軍が退いたときは兵将が乱れなかった。なぜか」と問うと、芝は「雲が自ら殿を務め、軍資も什物もほとんど棄てませんでした。兵将が散る理由がなかったのです」と答えた。
  • (同)雲の手元に軍資の絹が余り、亮が将士に分け与えさせようとすると、雲は「軍事に利がなかったのに、なぜ賜与があるのです。赤岸の府庫に納め、十月を待って冬の賜与にしてください」と言った。亮は大いに善しとした。

建興六年(228年)冬 後出師表と陳倉

  • 亮は疏を上って自らの降格を請い、右将軍として丞相の事を行い、咎を引き受けて身を責め、失を天下に布告し、兵を励まし武を講じて後図とした。
  • 孫権が曹休を破って魏兵が東下し、関中が手薄になったと聞いて、十一月に上言した(後出師表)。
  • (後出師表より)先帝は「漢と賊は両立せず、王業は偏安しない」と慮られ、臣に賊の討伐を託された。先帝の明をもって臣の才を量られたのだから、臣が賊を伐つに才は弱く敵は強いことは承知されていた。しかし賊を伐たねば王業もまた亡ぶ。坐して亡ぶのを待つのと伐つのと、どちらがましか。だから臣に託して疑われなかったのだ。
  • (同)臣は命を受けた日から寝ても席は安からず食べても味は甘くなかった。北征するにはまず南に入るべきだと考え、五月に瀘を渡り不毛に深く入り、日を合わせて食を分けた。臣が自らを惜しまぬのではない。ただ王業が蜀の都だけで全うされ得ぬからこそ、危難を冒して先帝の遺意を奉じたのだ。それを議者は計にあらずと言う。今、賊はちょうど西に疲れ、また東にも務めている。兵法に「労に乗ずる」とある。今こそ進み趨るべき時である。
  • (同)解せぬ点を六つ挙げる。高帝は明が日月に並び謀臣は淵深であったが、それでも険を渉り傷を被り、危うくなってから安んじた。今、陛下は高帝に及ばず、謀臣も張良・陳平に及ばぬのに、長い計で勝ちを取り坐して天下を定めようとする。これが解せぬ一つ目。
  • (同)劉繇・王朗はそれぞれ州郡を拠り、安を論じ計を言うのに動もすれば聖人を引き、疑いを腹いっぱいに抱え難詰を胸にふさいで、今年も戦わず明年も征かず、孫策を坐して大きくさせ、ついに江東を併呑させた。これが解せぬ二つ目。
  • (同)曹操の智計は人に隔絶し、その用兵は孫子・呉子に髣髴とする。それでも南陽に困しみ烏巣に険しく、祁連に危うく黎陽に迫られ、伯山でほとんど敗れ潼関では危うく死にかけた。そうしてようやく一時を偽り定めたに過ぎぬ。まして臣は才が弱い。危うくせずに定めようとする。これが解せぬ三つ目。
  • (同)曹操は昌霸を五たび攻めて下せず、巣湖を四たび越えて成らず、李服を任用して李服に図られ、夏侯に委任して夏侯は敗死した。先帝はいつも操を「能」と称されたが、それでもこれだけの失がある。まして臣は駑下、どうして必ず勝てよう。これが解せぬ四つ目。
  • (同)臣が漢中に来てから一年しか経たぬのに、趙雲・陽羣・馬玉・閻芝・丁立・白壽・劉郃・鄧銅らと曲長・屯将七十余人、突将・無前・賨叟・青羌・散騎・武騎一千余人を失った。みな数十年のうちに四方から糾合した精鋭で、一州で持てるものではない。さらに数年経てば三分の二を損なう。何をもって敵を図るのか。これが解せぬ五つ目。
  • (同)今、民は窮し兵は疲れているが、事はやめられない。やめられぬなら、留まるのも行くのも労費は同じだ。それなのに今のうちに図らず、一州の地で賊と持久しようとする。これが解せぬ六つ目。
  • (同)そもそも予測しがたいのが事というものだ。昔、先帝が楚で軍を敗ったとき、曹操は手を打って天下は定まったと言った。その後、先帝は東に呉越と連なり西に巴蜀を取り、兵を挙げて北征して夏侯は首を授けた。これは操の失計で、漢の事が成ろうとしていた。ところがその後、呉は盟に背き、関羽は敗れ、秭歸で蹉跌し、曹丕は帝を称した。すべての事はこの通りで、逆に見通しがたい。臣は鞠躬尽瘁、死して後已むのみ。成敗利鈍に至っては、臣の明で予め覩られるところではない。
  • こうして散関の役があった。
  • (王士騏の説)「臣の未だ解せざる二つ目」は影を借りたようで照応が乏しく、前後の文勢とも合わない。この下にきっと一転あって、劉繇・王朗を自らに譬え孫策を曹丕に譬えたのだろう。しかし千余年来これを指摘した者がない。小子騏もどうして自ら信じられよう。ある日、庭を過ぎるとき亡父の司寇に敬んで質すと、司寇は長く沈吟して「汝の言にも理があるようだ。これはもと張儼の『默記』から出ており、脱誤があるのだろう」と言われた。
  • 冬、ふたたび散関に出て陳倉を囲み、追撃の将王雙を斬った。

建興七〜九年(229〜231年) 二郡の平定と鹵城の戦い

  • 建興七年(229年)、右将軍亮が魏を伐って武都・陰平を攻め抜き、あらためて丞相に拝された。
  • (亮への詔策より)前年は師を耀かして王雙を馘り、今年は郭淮を征って遁走させ、氐羌を降し集めて二郡を復興し、威を凶暴に震わせた。功勲は明らかである。今あらためて君を丞相とする。全文は傳略に載せる。
  • 建興八年(230年)秋、魏が司馬懿らを遣って漢中を侵したので、丞相亮は城固で待ち受け、魏師は還った。魏延を西羌に入らせ、陽谿で雍州刺史郭淮を破った。
  • (漢晉春秋より)亮が祁山を囲み、鮮卑の軻比能を招くと、比能らは旧北地の石城に来て亮に応じた。折しも魏の大司馬曹真が病んだので、司馬宣王(懿)が荊州から入朝した。魏の明帝は「西方の事は重い。君でなければ付せる者がない」と言い、西の長安に屯させて張郃・費曜・戴陵・郭淮らを督させた。宣王は曜と陵に精兵四千を留めて上邽を守らせ、残る衆をことごとく西へ出して祁山を救おうとした。郃が兵を分けて雍・郿に駐めたいと言うと、宣王は「前軍だけで当たれると見るなら将軍の言は正しい。当たれぬのに前後に分ければ、楚の三軍が黥布に擒えられたのと同じだ」と言い、そのまま進んだ。
  • (同)亮は兵を分けて攻囲を続けさせ、自ら上邽で宣王を迎え撃った。郭淮・費曜らが亮を邀撃したが、亮はこれを破り、その麦を大いに刈り取った。上邽の東で宣王と遇うと、宣王は兵を収めて険に依り、軍は交えられなかった。亮が引き返すと宣王は追って鹵城に至った。張郃は「彼は遠来して我を迎えたのに、我が戦いを請うても応じない。我が利は戦わぬところにあると彼は見て、長い計で制そうとしているのだ。しかも祁山では大軍がすでに近いと知って人情は自ずと固い。ここに屯して奇兵を分け、背後に出るふりを見せるべきです。前へ進んでおきながら迫れぬのでは、坐して民の望みを失います。今、亮は懸軍で食が少ない。どのみち去ります」と言ったが、宣王は従わずに亮を追った。
  • (同)着いてからは山に登って営を掘り、戦おうとしない。賈詡・魏平がたびたび戦いを請い、「公は蜀を虎のように畏れる。天下の笑いものになるのをどうなさる」と言った。宣王はこれを病み、諸軍もみな戦いを請うた。五月辛巳、張郃に南囲の無当監何千を攻めさせ、自らは中道から亮に向かった。亮は魏延・高翔・呉班を差し向けて拒がせ大破し、甲首三千級・玄鎧五千領・角弩三千一百張を獲た。宣王は還って営を保った。
  • 建興九年(231年)、魏を伐って鹵城で司馬懿を大敗させ、その大将張郃を殺した。
  • (郭沖五事より)亮が陽平に屯し、魏延ら諸軍に兵を併せて東下させ、亮は一萬だけを留めて城を守っていた。晉の宣王が二十萬を率いて亮を拒ごうとし、延の軍とは道を違えて、まっすぐ亮の六十里手前まで来た。亮は城中で兵少なく力弱く、将士は色を失ったが、亮は意気自若として軍中に旗を伏せ鼓を止めさせ、四方の城門を大きく開いて地を掃き水を打たせた。宣王はかねて亮を持重の人と見ていたので、その弱い有様にかえって伏兵を疑い、軍を引いて北の山へ走った。翌日の食事どき、亮は参佐に手を打って大笑し、「懿は必ず強い伏兵があると思って山伝いに走ったのだ」と言った。斥候が還って報じたのは亮の言葉通りだった。宣王は後で知って深く恨んだ。
  • (魏略より)亮の軍が退いたとき、司馬宣王は郃に追わせた。郃は「帰る軍は追うな」と言ったが、宣王は聴かず、郃はやむなく進んだ。蜀軍は高所に伏兵を配し、矢が郃の腿に当たった。
  • (郭沖五事より)魏の明帝が自ら蜀を征して長安に幸し、宣王に張郃ら諸軍と雍・涼の精卒三十余萬を督させ、ひそかに軍を進めて剣閣へ向かおうとした。亮は当時、祁山にあって旌旗と鋭い武器で険要を守っていた。兵は十二番交代で下がらせており、手元にいるのは八萬。魏軍が陣を布き、ちょうど交代の兵が入れ替わろうとしていた。参佐はみな「賊は衆く強盛で力では制せぬ。ひと月だけ交代の下番を止めて声勢を併せるべきです」と言った。亮は「私は武を統べ師を行るのに大信を本とする。原を得て信を失うのは古人の惜しんだところだ。去る者は荷を束ねて期日を待ち、その妻子は鶴のように待ちわびて日を数えている。征に臨んで難しくとも、義として廃せぬ」と言い、みな急ぎ帰らせた。すると去る者は感じ悦んで一戦を願って留まり、残る者は憤り踊って死力を尽くそうとし、「諸葛公の恩は死んでも報いきれぬ」と言い合った。戦いの日、誰もが一をもって十に当たり、張郃を殺し宣王を退けて一戦で大勝した。これは信によるものである。
  • (編者按)郭沖の五事は漢の代からまだ近く、見聞は頼りになるのに、裴松之は一律に抨撃した。厳しすぎて疑いを残す余地が乏しい。そこで拠るべきものを詳しく録して参照に備える。

建興十二年(234年) 五丈原

  • 丞相亮が渭南に進軍し、魏の大将軍司馬懿は拒み守って出なかった。亮は初めて兵を分けて屯田し、懿に巾幗(婦人の頭飾り)と婦人の服を贈った。
  • (胡三省『通鑑』注より)字書に「幗は古獲の反、婦人の喪冠」とあり、また「古対の反」ともある。劉昭注補の輿服志に「公卿・列侯の夫人は紺繒の幗」とあるから、婦人の飾りの称であって喪冠に限らない。
  • (楊慎の説)幗は「憒」のように読む。「國」の音とするのは誤り。
  • (漢晉春秋より)亮が自ら出てたびたび挑戦したので、宣王も上表して固く戦いを請うた。そこで衞尉の辛毗が節を持って制止に来た。姜維が「辛佐治が節を持って来た以上、賊はもう出ますまい」と言うと、亮は「彼にはもともと戦う気がない。固く戦いを請うたのは衆に武を示すためだ。将たる者は軍にあっては君命も受けぬことがある。本当に私を制せるなら、千里も隔てて戦いを請うものか」と言った。
  • (魏氏春秋より)亮の使者が至ると、宣王は亮の寝食と職務の煩簡を問い、軍事は問わなかった。使者は「諸葛公は朝早く起き夜遅く寝み、罰は二十以上のものはすべて自ら目を通されます。食べる量は数升に及びません」と答えた。宣王は「亮は死ぬだろう」と言った。
  • 秋八月、亮が軍中に卒した。
  • (漢晉春秋より)楊儀らが軍を整えて出ると、百姓が走って宣王に告げ、宣王は追った。姜維が儀に旗を返させ鼓を鳴らさせて宣王に向かうかのように見せると、宣王は退いて迫ろうとしなかった。そこで儀は陣を結んで去り、谷に入ってから喪を発した。宣王の退却について、百姓は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と諺した。これを宣王に告げる者があると、宣王は「私は生を料ることはできるが、死を料ることはできぬ」と言った。
  • (編者按)仲達が孔明に当たったのは、一度は城固で遇って遁げ還り、二度目は上邽で遇って迹を斂めた。まともな戦いは鹵城の一戦だけで、そこで軍を喪い将を挫かれた。以後、渭南の塁は口実にすぎず、節を持たせて原に拠り勢いを得たかに見えるが、もともと深く忌んでいたのである。それを「何事もない」と言って衆心を安んじたので、ついに「蜀を虎のように畏れる」の譏りと、巾幗婦人の辱めを甘受するに至った。孔明の将略の長所はいよいよ明らかで、懿が生を料ることさえできなかったのも実証された。碁を打つ二人の国手という譬えは、果たして当たっているだろうか。

亮の死後──北伐の継承

  • (魏延傳・魏略より)夏侯楙が安西将軍として長安を鎮めていたとき、亮は南鄭で群下と計議した。延は「聞けば夏侯楙は幼い主の婿で、臆病で謀がない。今、私に精兵五千と糧五千を負わせて褒中からまっすぐ出し、秦嶺に沿って東へ、子午道から北へ向かえば、十日とかからず長安に着けます。楙は私が突然至ったと聞けば必ず船で逃げるでしょう。長安には御史と京兆太守がいるだけ。横門の邸閣と民間の穀で食は足ります。東方から兵が集まるにはまだ二十日ほどかかり、その間に公が斜谷から来られれば十分間に合う。こうすれば一挙に咸陽以西を定められます」と言った。亮は、これは危うい、坦道から安んじて進んで隴右を平らかに取るほうが十全で必ず克ち憂いがない、と考え、延の計を用いなかった。
  • (蔣琬傳より)琬は、昔、丞相亮がたびたび秦川を窺ったが道は険しく輸送は難しく、ついに克てなかったことを思い、水に乗って東下するに如かずと考えて舟船を多く造り、漢水・沔水から魏興・上庸を襲おうとした。ところが持病が続けて起こって時を得ず、衆論も「勝てなかったときの帰路が難しい」と言った。そこで尚書令の費禕、中監軍の姜維らを遣って旨を諭させた。
  • (同)琬は命を承けて上疏した。「穢れを刈り難を弭めるのは臣の職掌です。臣が辞を奉じて漢中に赴いてから六年、臣は暗弱な上に病を得て、図ることが成らず、夙夜に憂え慘みました。今、魏は九州にまたがって根は蔓延り、平らげるのは容易でありません。東西が力を併せ首尾で犄角すれば、速やかに志を得られずとも、分け裂いて蚕食し、まずその支党を摧けます。しかし呉との期は二、三度連続して果たされず、俯仰ともに難しく、実に寝食を忘れております。
  • (同)そこで費禕らと議しました。涼州は胡塞の要で進退の資があり、賊の惜しむところです。しかも羌胡の心は渇くように漢を慕っている。昔、偏軍が羌に入っただけで郭淮は破れて走った。長短を計るに、事の始めとしては姜維を涼州刺史とすべきです。維が征行して河右を扼えるなら、臣は軍を率いて維の後鎮となります。今、涪は水陸四方に通じ、急に応じられます。東北に事があっても赴くのは難しくありません」。こうして琬は還って涪に住した。
  • (姜維傳より)維は自ら西方の風俗に通じ、その才武を恃んで、諸々の羌胡を誘って羽翼とし、隴以西は断ち切って有せると考えた。つねに軍を興して大挙しようとしたが、費禕がそのつど抑えて従わず、与える兵は一萬を超えなかった。
  • (同)禕は維に「我らが丞相に及ばぬことは、すでに遠く隔たっている。丞相ですら中夏を定められなかった。まして我らではないか。国を保ち民を治め、謹んで社稷を守り、功業は能ある者を俟つに如くはない。僥倖を頼んで成敗を一挙に決してはならぬ。志を得なければ悔いても及ばぬ」と言った。
  • (同)延熙十六年(253年)春に禕が卒すると、維は数萬を率いて南安を囲んだが、魏の雍州刺史陳泰が囲みを解きに来て洛門に至った。翌年、督中外軍事を加えられ、ふたたび隴西に出て狄道を攻めた。狄道長の李簡が城を挙げて降り、進んで襄武を囲み、魏の将徐質と鋒を交えて斬首して敵を破った。魏軍は敗退し、維は勝ちに乗じて多くを降し、河間・狄道・臨洮の三県の民を抜いて還った。
  • (同)延熙十八年(255年)、ふたたび車騎将軍夏侯霸らと狄道に出て、洮西で魏の雍州刺史王經を大破した。經の衆で死んだ者は数萬。經は退いて狄道城を保ち、維はこれを囲んだが、魏の征西将軍陳泰が進兵して囲みを解き、維は退いて鍾題に住した。
  • (同)延熙十九年(256年)春、維は大将軍に遷り、あらためて戎馬を整えて鎮西大将軍胡濟と上邽で会する約束をした。濟が誓に違って来なかったので、維は段谷で鄧艾に破られ、自ら降格を求めて後将軍・行大将軍事となった。
  • (同)延熙二十年(257年)、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反し、関中の兵を分けて東下させた。維は虚に乗じて秦川へ向かおうとし、ふたたび数萬を率いて駱谷を出て沈嶺に至った。当時、長城には穀が多く積まれていたが守兵は少なく、維が来ると聞いて衆はみな慌てた。魏の大将軍司馬望が拒ぎ、鄧艾も隴右から来て、ともに長城に軍した。維は前へ出て芒水に住し、いずれも山に倚って営を作った。望と艾は渭に沿って堅く囲み、維がたびたび下って挑戦しても応じなかった。
  • (同)景耀元年(258年)、維は諸葛誕の敗北を聞いて成都に還り、あらためて大将軍に拝された。
  • (同)はじめ先主は魏延を留めて漢中を鎮めさせ、諸々の囲みに実兵を置いて外敵を防ぎ、敵が攻めても入れぬようにした。興勢の役で王平が曹爽を防いだのも、この制に拠る。維は「諸々の囲みに分かれて守るのは『周易』の重門の義には合うが、敵を防げるだけで大きな利は得られない。敵が来たと聞けば諸囲はみな兵を収め穀を集め、退いて漢城・楽城の二城に就き、敵を平地に入れず、さらに重ねて関塞を守って防ぐ。事ある日は遊軍を並び進めてその虚を窺う。敵は関を攻めても克てず、野に散らばる穀もなく、千里の懸糧では自然に疲れる。退く日に諸城が一斉に出て遊軍と力を併せて搏てば、敵を殄す術となる」と建議した。
  • (同)景耀六年(263年)、維は後主に上表した。「鍾会が関中で兵を治め進取を図ろうとしていると聞きます。張翼・廖化を遣って諸軍を督させ、陽安関口と陰平橋頭を分け守らせ、未然に防ぐべきです」。
  • (同)鍾会が漢城・楽城を攻め囲み、別将を遣って関口を攻めさせると、蔣舒が城を開いて降り、傅僉は格闘して死んだ。
  • (漢晉春秋より)蔣舒は降ろうとして傅僉を欺き、「今、賊が至ったのに撃たずに城を閉じて守るのは良い策ではない」と言った。僉は「命を受けて城を保っている。全うしてこそ功だ。今、命に違って出戦し、師を喪って国に背けば、死んでも益がない」と答えた。舒は「君は城を保って全うするのを功とし、私は敵に克って出戦するのを功とする。それぞれ志を行おう」と言い、衆を率いて出た。僉は戦うものと思ったが、舒は陰平に至って胡烈に降り、烈は虚に乗じて城を襲った。僉は格闘して死に、魏の人はこれを義とした。
  • (蜀記より)蔣舒は武興督だったが在職中に評判がなく、蜀は人を代えさせ、そのまま舒を留めて漢中の守りを助けさせた。舒はこれを恨んで城を開いて降った。
  • (姜維傳より)会は維に書を送った。「君侯は文武の徳をもって世に超えた略を懐き、功は巴漢を済い、声は華夏に暢び、遠近みな名に帰さぬ者はない。昔を思えばかつて同じ教化のうちにあった。呉の季札と鄭の子産なら、この好みを解しよう」。維は返書せず、営を列ねて険を守り、会は克てなかった。
  • (同)糧運は遠く懸かり、会が還ろうと議していたところ、鄧艾が陰平から景谷道を通って側面に入り、ついに綿竹で諸葛瞻を破った。後主は艾に降を請い、艾は進んで成都を拠った。維はまもなく後主の勅を受け、戈を投げ甲を放って涪の会のもとへ赴いた。軍前の将士はみな怒り、刀を抜いて石を斬った。
  • (干寳『晉記』より)会が維に「来るのが何と遅かったことか」と言うと、維は正色し涙を流して「今日これを見るのは、むしろ早すぎたくらいです」と答えた。会は甚だ奇とした。
  • (姜維傳より)会は維らを厚遇し、みな印綬・節・蓋を仮に返した。会は維と出れば輿を同じくし坐れば席を同じくし、長史の杜預に「伯約を中土の名士に比べれば、公休(諸葛誕)・太初(夏侯玄)も及ばぬ」と言った。
  • (世語より)当時、蜀の官属はみな天下の英俊であったが、維の右に出る者はなかった。
  • (姜維傳より)会は鄧艾を陥れ、艾が檻車で徴されると、維らを連れて成都に至り、自ら益州牧と称して叛いた。
  • (漢晉春秋より)会はひそかに異図を懐いていた。維はそれを見抜き、擾乱を作り出して克復を図れると考え、会を欺いて説いた。「聞けば君は淮南以来、計に遺策なく、晉の道が昌えたのはみな君の力です。今また蜀を定めて威徳は世を振わせ、民はその功を高しとし主はその謀を畏れている。これでどこへ安んじて帰るおつもりか。韓信は擾乱のうちに漢に背かなかったのに平定の後に疑われ、大夫種は五湖に范蠡に従わなかったためについに剣に伏して空しく死んだ。彼らは暗主・愚臣だったのか。利害がそうさせたのです。今、君は大功をすでに立てた。なぜ陶朱公に倣って舟を浮かべ迹を絶ち、功を全うし身を保って峨嵋の嶺に登り赤松子に従って遊ばぬのです」。会は「君の言は遠すぎる。私にはできぬ。それに今の道は、まだこれで尽きてはおるまい」と答えた。維は「その他のことは君の智力で足ります。老夫を煩わすまでもない」と言った。こうして情好は甚だ睦まじくなった。会は維に兵を授けて前駆とさせようとしたが、魏の将士が憤って会と維を殺した。
  • (世語より)維は死後、胆を割かれると斗ほどの大きさだった。
  • (華陽國志より)維は会に北から来た諸将を誅させ、次いで会を殺し魏兵をことごとく坑にして蜀の祚を復そうとしていた。ひそかに後主に書を送り、「願わくは陛下、数日の辱めを忍ばれよ。臣は社稷を危うきより安きに復し、日月を幽きより明るきに復さんとしております」と言った。
  • (編者按)忠武が歿したとき、漢の亡ぶことは知れていた。それでもなお三十年を延ばし、あるいは国中に屯備し、あるいは境外に師を揚げた。糧を裹み甲を頓めながらも忠武の遺志を忘れなかったのである。琬・禕が相次いで卒し、維は孤立した。たとい陰平に備えがあったとしても、久しく存し得たろうか。伯約の心事はまさに孔明に背かぬもので、譙周の「仇国論」など語るに足りない。