諸葛忠武書本伝の節録(傳略)

  • 履歴: 諸葛亮、字は孔明。瑯琊郡陽都の人で、漢の司隸校尉諸葛豐の後裔。父は珪、字は君貢、漢末に太山郡丞。早くに父を失い、叔父の玄に従って荊州へ移り、隆中に耕して暮らした。建安十二年(207年)に劉備の三顧を受けて出仕し、赤壁の後は軍師中郎将、益州平定後は軍師将軍、章武元年(221年)に丞相、建興元年(223年)に武郷侯・益州牧。建興十二年(234年)八月、五丈原の軍中に卒す。年五十四。諡は忠武侯。

編者按

  • 忠武の事跡は陳壽『三國志』の本伝を綱とすべきで、各伝や裴松之注に散在する記事も少なくない。『武侯全書』は広く採って分類した点はよいが、かえって本伝を落としており、綱がない。そこで陳志を抜き書きして「傳略」と題した。
  • ただし本伝末尾の董厥・樊建らは、もともと侯が抜擢して近くに置き大臣にまで至った者なのに、そろって降伏し叛いた。樊建に至っては鄧艾のために冤を晴らそうとまでしており、本末転倒である。よって特にこれを削り、陳氏の誤りを洗った。

家系と姓の由来

  • (呉書より)その先祖の葛氏はもと瑯琊の諸県の人で、のち陽都に移った。陽都には先に葛姓の者がいたので、時の人は「諸県の葛氏」の意で諸葛と呼び、そのまま氏とした。
  • (風俗通より)葛嬰は陳涉の将軍として功があったのに誅された。孝文帝が後にその功を記録し、孫を諸県侯に封じたので、地名と姓を併せて諸葛氏となった。

隆中の暮らしと自負

  • 叔父の玄は袁術に豫章太守を任ぜられ、亮と弟の均を連れて赴任したが、漢朝が改めて朱皓を選んで玄に代えた。玄はもとより荊州牧劉表と旧交があったので身を寄せ、玄の死後、亮は畝を耕し、好んで梁父吟を口ずさんだ。
  • (漢晉春秋より)亮の家は南陽の鄧県にあり、襄陽城の西二十里、隆中という。
  • 身の丈八尺。つねに自らを管仲・楽毅になぞらえたが、時の人は認めなかった。ただ博陵の崔州平と潁川の徐庶(元直)だけが亮と親しく、その通りだと認めた。
  • 亮は後に群下に語った。「かつて州平と交わって得失をしばしば聞き、のち元直と交わって熱心な教誨を受けた」。また「人の心は言い尽くせぬのが苦しいが、徐元直だけはそこに惑いがない」とも言った。
  • (魏略より)亮は荊州にあった建安の初め、潁川の石廣元・徐元直、汝南の孟公威らと共に遊学した。三人が精読に努めたのに対し亮ひとりは大略を掴む読み方をし、朝夕ゆったりと膝を抱えて嘯き、三人に「君たちの仕官は刺史・郡守どまりだろう」と言った。三人が「では君は」と問うと、亮は笑って答えなかった。のち公威が郷里を思って北へ帰ろうとすると、亮は「中国には士が多い。丈夫が世に遊ぶのに、なぜ故郷でなければならぬのか」と言った。
  • (裴松之の評)魏略のこの言は、亮が公威のために言ったものとすればよいが、自分のことも兼ねて言ったと解するなら、その心を解していない。高らかに吟じて時を待つ志は初めから定まっていた。中華に歩を進めて才を振るえば、陳長文(陳羣)・司馬仲達の及ぶところではないのに、ついに北へ向かわなかったのは、宗室の傑を助けて絶えかけた漢を継がせようとしたからで、辺境で小さな利を得ようとしたのではない。司馬相如のいう「鵾鵬すでに遼廓に翔るに、羅する者はなお藪澤を視る」である。
  • (王士騏の評)松之のこの数語はまことに高い見識で、魏を正統とする後世の者は恥じるべきである。

三顧と隆中対

  • 当時、先主(劉備)は新野に屯していた。徐庶が先主に会って重んじられ、「諸葛孔明は臥龍です。将軍はお会いになりたいか」と言った。先主が「君が連れて来い」と言うと、庶は「この人は訪ねて会うべきで、呼びつけられる人ではない。将軍が足を運ばれるべきだ」と答えた。そこで先主は三度訪ねてようやく会えた。
  • 先主は人払いして「漢室は傾き姦臣が権を盗み、主上は塵をかぶっておられる。孤は徳量を顧みず大義を天下に伸ばそうとしたが、智術が浅く今日に至った。しかし志はまだ已まぬ。計はいかに」と問うた。
  • 亮は答えた。董卓以来、州郡にまたがる豪傑は数え切れない。曹操は袁紹に比べて名も微く兵も少なかったが紹に勝てたのは、天の時だけでなく人の謀による。今、操は百萬の衆を擁し天子を挟んで諸侯に令しており、これと鋒を争ってはならない。孫権は江東を拠って三代を経、国は険しく民は附き賢能が用いられているから、援とすべきで図ってはならない。
  • (同)荊州は北に漢水・沔水を拠り、南は海に及ぶ利があり、東は呉会に連なり西は巴蜀に通じる用武の国だが、その主は守れない。これは天が将軍に与えるものだ。益州は険阻な要害で沃野千里、天府の地であり、高祖はこれによって帝業を成した。劉璋は暗弱で張魯は北にあり、民は富み国は豊かなのに労わることを知らず、智能の士は明君を得たいと願っている。
  • (同)将軍は帝室の血筋で信義が四海に著れ、英雄を総覧して賢を渇くように求めている。荊・益をまたいで険阻を保ち、西は諸戎と和し南は夷越を撫で、外は孫権と好を結び内は政理を修める。天下に変あらば一上将に荊州の軍を率いさせて宛・洛へ向かわせ、将軍自ら益州の衆を率いて秦川へ出れば、民は簞食壺漿で迎えるだろう。そうすれば王業は成り漢室は興る。
  • 先主は「善し」と言い、以後、亮との仲は日ごとに密になった。関羽・張飛が面白がらないので、先主は「孤に孔明があるのは魚に水があるようなものだ。諸君はもう言うな」と解いた。羽と飛はやめた。
  • (魏略より)劉備が樊城に屯し、曹公が河北を定めたころ、亮は次に荊州が敵を受けると見たが、劉表は性格が緩く軍事に暗かった。備は飾り紐を結ぶのが好きで、たまたま髦牛の尾を贈られて自ら結んでいた。亮が「明将軍はまた遠大な志をお持ちのはず。ただ紐を結ぶだけですか」と言うと、備は紐を投げ捨てて「何ということを言う。憂いを忘れているだけだ」と立った。亮が「将軍は劉鎮南(劉表)と比べてどうか」と問うと「及ばぬ」、「では御自身は曹公と比べて」と問うと「これも及ばぬ」と答えた。亮は「どちらにも及ばず、将軍の衆は数千に過ぎない。これで敵を待つのは計ではありますまい」と言い、備が「私もそれを憂えている。どうすればよい」と問うと、亮は「今の荊州は人が少ないのではなく、戸籍に載る者が少ないのです。平時の徴発では人心が悦びません。鎮南に申し上げて国中の游戸をすべて自ら申告させ、登録して兵を増やせばよい」と答えた。備がこの計に従ったので、衆はついに強くなった。

劉表の子琦と徐庶

  • 劉表の長子琦もまた亮を深く重んじた。表は後妻の言を容れて少子の琮を愛し、琦を疎んじた。琦はしばしば亮に身の安全の策を相談したが、亮はそのつど拒んだ。そこで琦は亮を高楼に上らせて梯子を外し、「今日は上は天に至らず下は地に至らぬ。言は君の口を出て吾が耳に入るだけだ。話してもらえまいか」と言った。亮は「君は申生が内にいて危うく、重耳が外にいて安かったのを見ないのか」と答えた。琦は悟り、ひそかに外に出る計を立て、黄祖の死を機に出て江夏太守となった。
  • まもなく表が卒し、琮は曹操の来征を聞いて使者を遣り降伏を請うた。樊にいた先主はこれを聞いて衆を率いて南へ行き、亮と徐庶も従ったが、曹公に追撃されて破られ、庶の母が捕らえられた。庶は先主に別れを告げ、自分の胸を指して「将軍と王霸の業を図ろうとしたのは、この方寸の地があってのこと。今、老母を失って方寸は乱れました。事のお役に立てません。ここでお別れします」と言い、曹公のもとへ赴いた。
  • (王士騏の評)孔明と徐庶こそ相知る仲である。庶は自ら先主に会いながら、孔明については「訪ねて会うべきだ」と勧めた。孔明が決して屈しないと知っていたからだ。庶がすでに先主に従っていながら母を失った後、亮はその曹公行きを認めた。庶が留まらないと知っていたからだ。庶は曹に降っても心は蜀にあり、黄権も同様だった。これこそ孔明が人情に通じていた証ではないか。
  • (編者按)徐庶が先主に従ったのは行きがかりの追随で、君臣の分はまだ定まっていなかった。その上で母を失って辞去したのだから、王陵・趙苞よりはるかに賢い。黄権はもともと将軍として魏への備えを命ぜられながら、戦わずして降った。それを裴世期(裴松之)が宥すべきだとし、王冏伯が元直(徐庶)と並べるのは、私には解せない。雲長(関羽)は義を立てて曹を去り、元儉(黄権とは別)は死を装って国に帰った。黄権とは天地の差である。
  • (魏略より)庶は初め名を福といい、もと単家の子。若くして任俠を好み剣を撃った。中平の末、人のために仇を報い、白土を顔に塗り髪を振り乱して逃げたが吏に捕らえられた。姓名を問われても口を閉ざしたので、吏は車上に柱を立てて磔にし、太鼓を打って市中に知らせたが、誰も名乗り出なかった。仲間が救い出して脱れると、庶は感じ入って刀戟を捨て、粗末な巾と単衣で学問に転じた。学舎に入ると、以前賊であったと聞いた生徒たちは同席を嫌がったが、庶は身を低くして早起きし、いつも独りで掃除し、人の意を先回りして動いた。経業を学んで義理に精通し、同郡の石韜と親しくなった。初平年間に中原で兵が起こると、韜と共に南の荊州に客居し、そこで諸葛亮と特に親しくなった。

呉への使いと赤壁

  • 先主が夏口に至ると、亮は「事は急です。命を奉じて孫将軍に救いを求めましょう」と言った。当時、権は柴桑に軍を擁して成り行きを見ていた。
  • 亮は権を説いた。海内は大乱し、将軍は兵を起こして江東を拠り、劉豫州も漢南に衆を収めて曹操と天下を争っている。今、操は大きな難をあらかた平らげ、荊州を破って威を四海に震わせ、英雄は武を用いる場を失った。だから豫州は逃れてここに至った。将軍は力を量って処されよ。呉越の衆で中国と抗し得るなら早く絶つべきだし、できぬなら兵を案じ甲を束ねて北面して仕えるがよい。今、将軍は外に服従の名を託しながら内は猶予の計を懐いている。事は急なのに決断しなければ、禍の至る日は遠くない。
  • (同)権が「君の言う通りなら、劉豫州はなぜ操に仕えぬのか」と問うと、亮は「田横は斉の一壮士に過ぎぬのに義を守って辱めを受けなかった。まして劉豫州は王室の血筋で英才は世を蓋い、士は水が海に帰すように慕っている。事が成らなければそれは天命。どうして人の下に立てましょう」と答えた。
  • (同)権は色をなして「私は全呉の地と十萬の衆を挙げて人に制せられることはできぬ。計は決した。劉豫州でなければ曹操に当たれる者はない。しかし豫州は敗れたばかりで、この難に抗し得るか」と言った。亮は答えた。豫州の軍は長阪で敗れたが、戻った戦士と関羽の水軍の精兵で一萬、劉琦の江夏の戦士も一萬を下らない。曹操の衆は遠来で疲弊し、豫州を追って軽騎で一日一夜に三百余里を行った。これが「強弩の末、勢い魯縞をも穿つ能わず」で、兵法も「必ず上将軍を蹶す」と忌む。しかも北方の人は水戦に慣れず、荊州の民が操に附いたのも兵勢に迫られただけで心服ではない。今、将軍が猛将に数萬を統べさせ豫州と力を合わせれば、操軍を破るのは必定。操が破れて北に還れば荊・呉の勢いは強まり鼎足の形が成る。成敗の機は今日にある。
  • 権は大いに悦び、ただちに周瑜・程普・魯肅らと水軍三萬を亮に随わせて先主のもとへ遣り、力を併せて操を拒んだ。操は赤壁に敗れて軍を鄴に引いた。先主は江南を収め、亮を軍師中郎将として零陵・桂陽・長沙の三郡を督させ、その賦税を調えて軍資に充てた。
  • (零陵先賢傳より)亮は当時、臨烝に住んでいた。

入蜀・丞相・托孤

  • 建安十六年(211年)、益州牧の劉璋が法正を遣って先主を迎え、張魯を撃たせた。亮は関羽と荊州を鎮守した。先主が葭萌から還って璋を攻めると、亮は張飛・趙雲らと衆を率いて江を遡り、郡県を分け定め、先主と共に成都を囲んだ。成都が平らぐと亮は軍師将軍となり、左将軍府の事を署した。先主が外に出るときは亮がつねに成都を鎮守し、食を足し兵を足した。
  • 建安二十六年(221年)、群下が先主に尊号を称するよう勧めたが先主は許さなかった。亮は説いた。「昔、呉漢・耿弇らが世祖に即位を勧めたとき、世祖は前後四度も辞退した。耿純が『天下の英雄は望みをかけております。議に従われねば、士大夫はそれぞれ主を求めて去るでしょう』と進言し、世祖はその至誠に感じて諾した。今、曹氏が漢を簒って天下に主がない。大王は劉氏の苗裔として世を継いで起たれた。今、帝位に即かれるのが当然です。大王に長く従って苦労した士大夫も、耿純の言うように尺寸の功を望んでいるのです」。
  • 先主はそこで帝位に即き、亮を丞相に策命して言った。「朕は家の不造に遭って大統を承け、兢々業々として安んじられず、百姓を靖んずることを思うが果たせぬのを懼れる。ああ丞相亮よ、朕の意を尽くし、怠らず朕の欠けを輔け、重光を宣べ助けて天下に明らかにせよ。君よ勉めよ」。亮は丞相として尚書の事を録し、節を仮された。張飛の死後は司隸校尉を領した。
  • 章武三年(223年)春、先主は永安で病篤く、成都から亮を召して後事を託し、「君の才は曹丕の十倍だ。必ず国を安んじ大事を定められよう。嗣子が輔けるに足るなら輔けよ。才なくば君が自ら取れ」と言った。亮は涕泣して「臣は股肱の力を竭くし忠貞の節を効し、死をもって継ぎます」と答えた。先主はまた後主に詔勅して「汝は丞相と事を共にし、これに仕えること父の如くせよ」と言った。
  • (孫盛の評)道に仗り義を挟み、信順を体してこそ主を匡し功を済して大業を定められる。碁打ちが石を決めかねては相手にも勝てない。まして君主の才を量りながら節を二三にして、どうして強隣を屈服させ四海を囊括できよう。備の亮への命は、乱れの最たるものだ。これを「委ね方を固めるため、また蜀人の志を一つにするため」と説く者もあるが、そうではない。託す相手が忠賢ならこんな教えは要らぬし、その人でなければ簒逆の道を開くべきではない。だから古の顧命は必ず言葉を遺すのであって、偽りの辞は託孤とはいわない。たまたま劉禪が暗弱で猜疑や険しさのない性であり、諸葛の威略が異端を抑えるに足りたから、食い違う心が起こらずに済んだだけだ。そうでなければ疑いと隙、不逞の釁が生じたはずで、これを「権謀」と呼ぶのは惑いではないか。
  • (編者按)玄德と孔明は堯舜の心である。托孤と受遺は唐虞の盛事である。陳壽が「心神に二つなく、君臣の至公、古今の盛軌」と称したのは、まことに言を知る者だ。孫盛が偽りとするのは甚だしい誤りである。この後も臨終の言葉は少なくないのに隙はすぐ生じている。寝台の前の数語で人の手足を縛れるはずがない。

南征と北伐

  • 建興元年(223年)、亮は武郷侯に封ぜられ、府を開いて事を治めた。ほどなく益州牧を領し、政事は大小となく亮が決した。南中の諸郡がそろって叛乱したが、亮は大喪の直後なので兵を加えず、使者を呉に遣って和親を結び、与国とした。
  • 建興三年(225年)春、亮は衆を率いて南征し、その秋にことごとく平定した。そこから出る軍資によって国は富んだ。
  • (王士騏の評)諸葛公の七縦七擒は古来なかったことで、夷人は心服し千載を経てなお新しい。それを本伝はわずか三語で片づけている。苦心も妙用もたどれない。陳壽はこの点で恨めしい。
  • 亮は戎を治め武を講じて大挙に備え、建興五年(227年)に諸軍を率いて北の漢中に駐した。出発に臨んで疏を上る(表は後の北伐篇に載せる)。そのまま沔陽に屯した。
  • 建興六年(228年)春、斜谷道から郿を取ると声を揚げ、趙雲・鄧芝を疑軍として箕谷に拠らせた。魏の大将軍曹真が衆を挙げて防いだ。亮は自ら諸軍を率いて祁山を攻めた。陣は整い賞罰は厳しく号令は明らかで、南安・天水・安定の三郡が魏に叛いて亮に応じ、関中は響き震えた。魏の明帝が西して長安に鎮し、張郃に亮を防がせた。亮は馬謖に諸軍を督させて前に出したが、謖は街亭で郃と戦って亮の指図に違い、挙動を誤って大いに破られた。亮は西県の千余家を移して漢中に還り、謖を戮して衆に謝し、疏を上って自ら三等の降格を請い、咎を負った。そこで亮を右将軍として丞相の事を行わせ、統べる範囲は前のままとした。
  • 同年冬、亮はふたたび散関に出て陳倉を囲んだが、曹真が防ぎ、糧が尽きて還った。魏の将王雙が騎を率いて追ったので、亮は戦ってこれを破り、雙を斬った。
  • 建興七年(229年)、亮は陳式を遣って武都・陰平を攻めさせた。魏の雍州刺史郭淮が衆を率いて式を撃とうとしたが、亮が自ら出て建威に至ると淮は退き、ついに二郡を平定した。
  • 詔策に言う。「街亭の役の咎は馬謖にあるのに、君は過ちを引き受けて深く自らを貶めた。君の意に背きがたく、その守るところに従った。前年は師を耀かして王雙を馘り、今年は郭淮を征って遁走させ、氐羌を降し集めて二郡を復興し、威を凶暴に震わせた。功勲は明らかである。今、天下は騒擾して元凶はまだ梟されぬ。君は大任を受けて国の重きを幹しながら、久しく自らを抑えている。それは大いなる功業を輝かすゆえんではない。今あらためて君を丞相とする。辞するなかれ」。
  • 建興九年(231年)、ふたたび祁山に出て木牛で糧を運んだが、糧が尽きて退軍し、魏の将張郃と交戦して郃を射殺した。
  • 建興十二年(234年)春、亮は大衆をことごとく率いて斜谷から出、流馬で運んで武功の五丈原に拠り、司馬懿と渭南で対峙した。亮はつねに糧が続かず志を伸ばせぬことを患えていたので、兵を分けて屯田し長く留まる基とした。耕す者は渭水のほとりの住民に混じったが、百姓は安堵し、軍に私はなかった。百余日相持し、その年の八月、亮は病んで軍中に卒した。時に年五十四。
  • (晉陽秋より)赤くて芒角のある星が東北から西南へ流れて亮の営に落ちた。三度落ちて二度戻り、行くときは大きく還るときは小さかった。まもなく亮は卒した。

死後の評価と遺族

  • 軍が退いた後、司馬懿はその営塁の跡を見て回り、「天下の奇才だ」と言った。
  • 亮は遺命して漢中の定軍山に葬らせ、山に因って墳とし、墓は棺が入るだけ、歛は平服で、器物は要らぬとした。
  • 詔策に言う。「君は文武を資質に体し、明叡篤誠、遺を受け孤を託され、朕の身を匡け輔け、絶えたるを継ぎ微かなるを興し、志は乱を靖んずるにあった。六師を整えて征かぬ年はなく、神武は赫然として威は八荒に震い、まさに季漢に殊功を建て伊尹・周公の巨勲に並ぼうとしていた。それが何と弔われぬことか、事の半ばで病に遘い喪われた。朕は傷み悼み、肝心の裂ける思いである。徳を崇め功を序し行いを紀して諡を命ずるのは、将来を光り輝かせ不朽に刻むためである。今、使持節・左中郎将の杜瓊を遣り、君に丞相武郷侯の印綬を贈り、諡して忠武侯とする。魂にして霊あらば、この寵栄を嘉せよ。嗚呼哀しいかな、嗚呼哀しいかな」。
  • 景耀六年(263年)春、詔して亮の廟を沔陽に立てた。その秋、魏の鎮西将軍鍾会が蜀を征って漢川に至り、亮の廟を祭り、軍士に亮の墓の周辺で樵採してはならぬと令した。
  • 亮の弟均は官が長水校尉に至り、亮の子瞻が爵を嗣いだ。

諸葛喬

  • 喬は字を伯松といい、亮の兄瑾の第二子。もとの字は仲慎。兄の元遜(諸葛恪)と共に当時名があり、論者は「喬は才では兄に及ばぬが、性行と実務では勝る」とした。
  • 初め亮に子がなく喬を嗣子に求めたので、瑾は孫権に申し出て喬を西へ遣り、亮は喬を自分の嫡子としたため字を改めた。駙馬都尉に拝され、亮に従って漢中に至った。
  • (亮の兄瑾への書より)喬はもともと成都に還らせるはずだったが、今は諸将の子弟がみな輸送に当たっている。栄辱を同じくするのがよいと考え、喬に五、六百の兵を督させて子弟らと共に谷中を輸送させている。書は亮集に載る。
  • 年二十五、建興元年(223年)に卒した。子の攀は官が行護軍・翊武将軍に至り、これも早く卒した。諸葛恪が呉で誅されて子孫が絶えたが、亮には自らの後裔があったので、攀は瑾の後嗣に戻された。

諸葛瞻

  • 瞻は字を思遠という。建興十二年(234年)、亮は武功にあって兄瑾への書に「瞻は今すでに八歳、聡明で愛らしい。ただ早熟が過ぎて大器にならぬのではと気がかりだ」と書いた。
  • 年十七で公主を娶り騎都尉に拝され、翌年に羽林中郎将、しばしば遷って射声校尉・侍中・尚書僕射となり、軍師将軍を加えられた。
  • 瞻は書画を能くし記憶に強かった。蜀の人は亮を追慕して瞻の才敏を愛し、朝廷に善政や佳事があると、瞻の発案でなくとも「葛侯のなさったことだ」と言い伝えた。そのため美名は実際以上にあふれた。
  • 景耀四年(261年)、行都護・衞将軍となり、輔国大将軍・南郷侯の董厥と共に尚書の事を平らげた。
  • 景耀六年(263年)冬、魏の征西将軍鄧艾が蜀を伐ち、陰平から景谷道を通って側面に入った。瞻は諸軍を督して涪に至って留まったが、前鋒が破られて綿竹まで退いた。艾は書を送って「降れば必ず上表して琅琊王としよう」と誘った。瞻は怒って艾の使者を斬り、戦って大敗し、陣中に死んだ。時に年三十七。瞻の長子尚も瞻と共に没した。
  • (干寳の評)瞻は智は危うきを扶けるに足りず、勇は敵を拒ぐに足りなかったが、外は国に背かず内は父の志を改めなかった。忠孝はそこにある。
  • (華陽國志より)尚は「父子ともに国の重恩を受けながら、早く黄皓を斬らずに敗亡を招いた。生きて何になろう」と嘆き、魏軍へ馳せ入って死んだ。
  • (編者按)忠孝の大節は千古に難しく、子孫の代まで美を続けるのはさらに難しい。ただ忠武にだけは遺憾がない。兄弟三人が三国に分かれて仕えたのは、それぞれ仕える所に忠であったからで、瑾が峻・夷・誕のことで一族の禍を蒙ったのは不幸ではあっても罪ではない。しかし孔明の栄と哀、その慕われようとは比べものにならぬ。恪は才によって禍を作り、死んでも国に殉じなかった。瞻と尚の従容として慷慨たる最期と、どちらが優るか。

諸葛京

  • 次子の京と攀の子顕らは、咸熙元年(264年)に河東へ移された。
  • (諸葛氏譜より)京は字を行宗という。
  • (晉泰始起居注より)詔に「諸葛亮は蜀にあって心力を尽くし、その子瞻は難に臨んで死んだ。義は天下に一つである」とあり、その孫の京は才に随って吏に署され、のち郿令となった。
  • (尚書僕射山濤の啓事より)「郿令諸葛京は、祖父亮が漢の乱に遇って父子が引き裂かれ、蜀にあって天命には達しなかったものの、仕える所に心を尽くした。京は郿を治めて評判がある。東宮舎人に補し、人に仕える理を明らかにして梁・益の議に副えるのがよい」。京は位が広州刺史に至った。