編者按
- 古人の年譜は事のない年を空けるものだが、この譜はあえて変則をとり、年ごとに当時の情勢を引いた。侯(諸葛亮)は漢の命脈を挽くために世に出たが、桓帝・靈帝の代に傾きはすでに深く、曹操の簒奪の基盤も固まっていた。伊尹・呂尚の征伐は易く、孔明の復興が難しかったのは時勢のせいである。光和以前は乱がまだ熾んでなく、黄巾・董卓・曹操の時期がちょうど侯の生涯に重なるので、その要点だけを記して時代の困難を示し、魏・呉に関わる事はやや詳しくした。
光和四年 辛酉(181年)
- この年、侯が生まれる。
- (編者按)建興十二年甲寅に丞相亮が軍中で卒し、時に年五十四であったから、辛酉の生まれと分かる。この年、皇子協(のちの獻帝)も生まれた。
光和五年 壬戌(182年)
- 災異により政治の得失を広く諮問し、議郎の曹操が上書して切に諫めた。
光和六年 癸亥(183年)
- 鉅鹿の張角が妖術を教え、弟子を各地に遣わして人を誘い、三十六方を置いた。大方は一萬余人、小方は六、七千人で、方は将軍にあたる。それぞれ首領を立て、「蒼天已に死し黄天当に立つべし」と唱え、中常侍を内応とし、翌年の甲子に内外いっせいに蜂起する約束をした。
中平元年 甲子(184年)
- 春、張角の弟子が密告し、詔により三公・司隸が取り調べ、張角の道に与した者千余人を誅殺、冀州に張角らの捕縛を命じた。張角らは急ぎ各方に令して一斉に起ち、みな黄巾を目印としたので黄巾賊と呼ばれた。
- 帝は群臣を召して会議し、天下の党人を赦した。
中平二年 乙丑(185年)
- 崔烈が銭五百萬を納れ、乳母の口ききで司徒となった。時の人はこれを「銅臭」と評した。
中平三年 丙寅(186年)
- 諫議大夫の劉陶が「天下の大乱はみな宦官による」と言上したところ、宦官らが讒言して獄死させた。前司徒の陳耽も忠正であったため宦官に怨まれ、同じく獄中で死んだ。
中平四年 丁卯(187年)
- 長沙の賊区星が将軍を自称。詔により議郎の孫堅を長沙太守として討平させ、堅を烏程侯に封じた。
中平五年 戊辰(188年)
- 太常の劉焉が「刺史では威が軽い、牧伯を置くべきだ」と建議した。侍中の董扶がひそかに「益州には天子の気がある」と告げたので、焉は益州牧を求めた。州の職が重くなるのはここに始まる。
中平六年 己巳(189年)
- 靈帝が崩じ、皇子辯が立つ。
- 袁紹が大将軍の何進に宦官誅殺を勧めたが果たさず、進は殺された。紹は兵を率いて宦官を老幼の別なくことごとく誅した。
- 董卓が兵を率いて京師に入り、帝を廃して陳留王協を立てた。袁紹は冀州へ奔る。
初平元年 庚午(190年)
- 関東の諸郡が兵を起こして董卓を討ち、袁紹を盟主に推した。卓は帝を長安へ遷す。
- 劉表が荊州刺史となる。
- この年、昭烈(劉備)が平原の相となり、関羽・張飛を別部司馬とした。
初平二年 辛未(191年)
- 袁紹が人を遣って韓馥を説き、馥は冀州牧の位を紹に譲った。
- 袁術が孫堅を遣って劉表を撃たせたが、表の将黄祖の部曲に射殺された。堅の子策は十七歳で復讐を志し、まっすぐ壽春に赴いて術に会う。術は父の兵千余を策に返し、上表して懐義校尉に任じた。
初平三年 壬申(192年)
- 王允が呂布に董卓を殺させた。卓の将校が赦しを求めたが許されず、武威の賈詡が李傕に卓の復讐を勧めて長安中で大戦となり、允は殺された。
初平四年 癸酉(193年)
- 曹操が陶謙を攻める。もと太尉の曹嵩が瑯琊に難を避けていて謙の別将の士卒に殺されたためで、操は兵を率いて謙を撃ち、男女数十萬を坑殺し、三県を攻めてみな屠り、鶏や犬まで尽くした。
興平元年 甲戌(194年)
- この年、陶謙が卒し、衆は昭烈を推して徐州牧とした。
興平二年 乙亥(195年)
- 李傕と郭汜が相争い、傕は天子を劫かし、汜は公卿を人質にとって宮殿を焼いた。帝は弘農に幸し、長安城は四十余日にわたって空になった。
- (編者按)陳志に「亮は早くに孤となり、叔父玄に従って荊州牧劉表を頼った」とあるから、侯が襄陽・鄧県に寄寓したのはこの年より後と知れる。侯はこの年十五歳。
建安元年 丙子(196年)
- 袁術が昭烈を攻めて徐州を争い、呂布が下邳を襲う。
- 秋七月、帝が洛陽に至り、曹操が天子を迎えてついに許へ遷都した。
- 孫策が会稽を取り、太守の王朗が降る。策は自ら会稽太守を領した。
- 呂布が昭烈を攻め、昭烈は敗走して曹操に帰した。操は上表して豫州牧とし、東へ布を撃たせた。
建安二年 丁丑(197年)
- 韓暹・楊奉が徐州・揚州の間を侵略し、昭烈が迎え撃って斬った。
建安三年 戊寅(198年)
- 曹操が呂布を捕らえる。昭烈は操に従って許に還り、上表されて左将軍となった。
建安四年 己卯(199年)
- 孫策が豫章を攻め、太守の華歆が降る。
- 車騎将軍の董承が「帝の衣帯の中の密詔を受けた」と称し、昭烈と共に曹操を誅する謀を立てた。折しも操が昭烈を袁術討伐に遣ったので、昭烈は徐州刺史の車冑を殺し、東海の郡県の多くは操に叛いて昭烈についた。
建安五年 庚辰(200年)
- 董承の謀が漏れ、操は承らを殺して自ら昭烈を撃ち、下邳を抜いて関羽を捕らえた。昭烈は袁紹のもとへ奔る。
- 孫策が呉郡太守の許貢を殺したところ、貢の奴客が仇を報いて策を射殺した。策は傷が重く、弟の権を呼んで印綬を佩びさせて卒した。年二十六、権は時に十九歳。
- この年、関羽は曹操のために袁紹の将顔良を斬り、操から賜った物をすべて封じて袁紹の軍中にいた昭烈のもとへ奔った。
建安六年 辛巳(201年)
- 曹操が昭烈を撃ち、昭烈は劉表のもとへ奔る。表は新野に駐屯させた。
建安七年 壬午(202年)
- 袁紹が官渡の敗戦以来の慙憤から発病し、血を吐いて死んだ。
- 曹操が孫権に人質を出すよう責め、張昭らが決めかねたが、権は周瑜を招いて議を定め、ついに質を送らなかった。
建安八年 癸未(203年)
- 孫権が西に黄祖を伐ち、山の賊を討ってことごとく平らげた。
建安九年 甲申(204年)
建安十年 乙酉(205年)
建安十一年 丙戌(206年)
- 荊州の豪傑で昭烈に帰する者が日に日に増え、表はその心を疑ってひそかに抑え、博望で夏侯惇・于禁らを拒がせた。昭烈は伏兵を置き、自ら陣屋を焼いて偽って退いたので、惇らが追撃したところ伏兵が起こって敗れた。
建安十二年 丁亥(207年)
- この年、昭烈が隆中に孔明を訪ねた。侯は時に二十七歳。
- 後主禪が荊州で生まれる。
- (編者按)章武三年癸卯に太子禪が即位して年十七であったから、丁亥の生まれと分かる。まさに侯が隆中を出た年にあたる。
建安十三年 戊子(208年)
- 三公の官を廃し、曹操が自ら丞相となる。操は太中大夫の孔融を殺した。
- 劉表が卒し、子の琮が操に降る。昭烈は当陽へ走り、侯は命を奉じて呉に使いし、周瑜・魯肅らと赤壁で操を破った。侯は軍師中郎将となる。
建安十四年 己丑(209年)
建安十五年 庚寅(210年)
- 昭烈が自ら孫権のもとへ赴いて荊州の都督を求めた。孔明に「孤は行くなかれ」と諫めた語がある。
- 龎統を治中とし、侯と並んで軍師とした。
- この年、周瑜が卒す。
建安十六年 辛卯(211年)
- 曹操が子の丕を丞相の副とした。
- 益州別駕の張松が劉璋に昭烈を迎えるよう勧め、昭烈は西上した。侯は雲長(関羽)と荊州を守る。
建安十七年 壬辰(212年)
- 孫権が治所を秣陵に移して石頭城を築き、秣陵を建業と改めた。
- 劉璋が張松を殺し、関所の守りに昭烈を通すなと令した。昭烈は怒って璋の将楊懐・高沛を斬り、進んで涪城を攻めた。
建安十八年 癸巳(213年)
- 曹操が孫権を攻め、権は衆を率いて防ぎ、一月余り対峙して操は還った。操は自ら魏王となり九錫を加えられた。
- 昭烈が兵を挙げて雒に向かい、劉璋の諸将はみな敗退して昭烈に降る者が多かった。
- 建安十三年からこの年まで、侯は荊州にあった。
建安十九年 甲午(214年)
- この年、龎統が卒す。
- 侯は関羽を留めて荊州を守らせ、自ら張飛・趙雲らを率いて郡県を分け定めた。成都が平らぎ、昭烈は益州牧を領し、侯を益州太守とした。
- この年、操は華歆らに皇后の璽綬を収めさせ、二人の皇子と共に酖殺した。
建安二十年 乙未(215年)
- 操の娘を皇后に立てる。
- 昭烈は曹操が漢中を攻めようとしていると聞き、孫権に和を求めて荊州を分け、湘水を境とした。
建安二十一年 丙申(216年)
建安二十二年 丁酉(217年)
- 操が天子の旌旗を設け、出入りに警蹕を称した。京兆の金禕が少府の耿紀、司直の韋晃、太医令の吉本、本の子邈、邈の弟穆らと、天子を擁して操を攻める謀を立てた。
- この年、魯肅が卒す。
建安二十三年 戊戌(218年)
- 吉邈らの一党は潰えて殺された。
- 曹操が自ら軍を率いて昭烈を撃ち、昭烈は陽平に屯した。
建安二十四年 己亥(219年)
- 昭烈が陽平から南へ沔水を渡り、黄忠を遣って夏侯淵を撃ち斬らせ、ついに漢中を定めて漢中王に進んだ。
- この年、関羽が曹仁を攻め、于禁ら七軍はみな没した。
- 孫権が操に臣を称し、呂蒙・陸遜が詐って江陵を取り、羽は卒した。
- 陳羣らが操に漢の簒奪を勧めた。
建安二十五年 庚子(220年)(魏の曹丕 黄初元年)
- 曹操が死に、子の丕が漢を簒奪して、漢帝を山陽公に封じた。
昭烈皇帝 章武元年 辛丑(221年)(魏 黄初二年)
- 蜀中に漢帝が害されたとの伝聞が入り、漢中王は喪を発して喪服を制した。侯は群下と共に尊号を称するよう勧め、夏四月に王は皇帝の位に即き、侯を丞相とした。
章武二年 壬寅(222年)(魏 黄初三年/呉 黄武元年)
- 帝は関羽の死を恥じ、自ら孫権を撃ったが陸遜に敗れ、白帝城に入った。白帝を永安と改める。孫権が和を請うて鄭泉を遣わし、帝は太中大夫の宗瑋を報聘に遣って、漢と呉は再び通じた。
- この年、孫権は曹丕から呉王に封ぜられ、黄武と改元した。
- 張飛が卒し、侯が司隸校尉を領した。
章武三年 癸卯(223年)(夏五月以後は後帝の建興元年/魏 黄初四年、呉 黄武二年)
- 二月、侯が永安に至る。四月、帝が永安で崩じた。年六十三。侯は遺詔を受け、喪を奉じて成都へ還った。
- 五月、太子禪が即位。時に十七歳。丞相亮を武郷侯に封じ、益州牧を兼領させ、政事はすべて亮が決した。
- 鄧芝を呉に使いさせる。
- 朱褒・高定らが叛く。
- この年、魏の華歆・王朗・陳羣らがそれぞれ侯に書を送って藩を称させようとしたが、侯は答えず「正議」を作った。文は北伐の巻に載せる。
建興二年 甲辰(224年)(魏 黄初五年/呉 黄武三年)
- 呉の張溫が来聘し、こちらも再び鄧芝を呉に遣わした。
- この年、農を務めて穀を殖やし、関を閉ざして民を休ませた。
建興三年 乙巳(225年)(魏 黄初六年/呉 黄武四年)
- 侯が衆を率いて南征し、雍闓を斬り、孟獲を七たび擒えた。
建興四年 丙午(226年)(魏 黄初七年/呉 黄武五年)
建興五年 丁未(227年)(魏 太和元年/呉 黄武六年)
- 三月、侯が衆を率いて魏を伐ち、出師の表を上る。
- この年、侯の子瞻が生まれる。
- (編者按)建興十二年甲寅、侯は武功にあって兄瑾への書に「瞻は今すでに八歳」と言い、また景耀元年(癸未)に瞻が戦死して年三十七であったから、丁未の生まれと分かる。
建興六年 戊申(228年)(魏 太和二年/呉 黄武七年)
- 春、侯が諸軍を率いて魏を伐つ。出師の表があり、関中は響き震えた。前軍の馬謖が侯の指図に違って街亭で敗れ、侯は自らの降格を請う疏を上った。詔により亮を右将軍として丞相の事を行わせた。西県の千余家を移して漢中に還る。
- 十一月、再び表を上って出師し、陳倉を囲んだが糧が尽きて引き返し、追撃の将王雙を斬った。
- 二つの表はいずれも北伐の巻に載せる。
建興七年 己酉(229年)(魏 太和三年/呉 黄龍元年)
- 魏を伐って武都・陰平を攻め、郭淮が敗走してついに二郡を抜いた。あらためて策を以て丞相に拝された。
- 夏四月、孫権が帝を称し、二帝を並び尊ぶ旨を告げてきた。衞尉の陳震を遣って賀し、あわせて呉と盟を結んだ。
建興八年 庚戌(230年)(魏 太和四年/呉 黄龍二年)
- 魏の曹真・司馬懿が侵入し、侯は城固に次して待ち受けた。魏延が陽谿で郭淮を破った。
建興九年 辛亥(231年)(魏 太和五年/呉 黄龍三年)
- 魏を伐って祁山を囲む。初めて木牛で輸送した。司馬懿を大いに破り、甲首三千級・玄鎧五千領・角弩三千一百張を獲た。糧が尽きて退き、追撃の将張郃を斬った。
建興十年 壬子(232年)(魏 太和六年/呉 嘉禾元年)
- この年は士を休ませ農を勧め、兵を教えて武を講じた。
建興十一年 癸丑(233年)(魏 青龍元年/呉 嘉禾二年)
- この年は斜谷口に米を運んで邸閣を整え、民を休ませ士を養い、三年おいてから用いることとした。
建興十二年 甲寅(234年)(魏 青龍二年/呉 嘉禾三年)
- 使者を遣って呉と同時大挙を約し、斜谷から出師した。初めて流馬で輸送し、兵を分けて屯田し、長く留まる計とした。司馬懿と百余日対峙し、侯はしばしば挑戦したが懿は出ず、そこで婦人の巾幗の服を懿に贈った。
- 八月、丞相亮が軍中で卒す。年五十四。遺命によって軍を退く手順を定め、司馬懿が追ったが敗走した。
- この年、漢の獻帝もまた魏で殂した。
- (編者按)侯と獻帝は同じ辛酉に生まれ同じ甲寅に歿しており、まことに符合が巧みである。しかも帝は八月に葬られ侯も八月に卒した。何と不思議なことか。ああ、漢が亡びなければ侯も死ななかったろうし、侯が死んで漢は真に亡んだのである。