諸葛忠武書目録・四庫提要・自序(目錄)
本書の巻立て
- 全十巻。巻一 年譜、巻二 傳略、巻三 紹漢、巻四 連呉、巻五 南征、巻六 北伐、巻七 調御、巻八 法檢、巻九 遺事、巻十 雜述。以下に附記を置く。
- 四庫全書では史部七・傳記類二(名人之屬)に収める。
王冏伯『武侯全書』十六巻の目録
- 王冏伯(王士騏)の『武侯全書』十六巻の篇名を、参考として掲げる。一 鼎立、二 繼統、三 連呉、四 南征、五 北伐、六 遺命、七 調御、八 法檢、九 用人、十 世系、十一 異同、十二 遺事、十三 八陣、十四 綱目、十五 評論、十六 碑銘。ほかに紀言三巻がある。
- (編者按)冏伯のこの書は実に創見に富む作で、広く材料を集めて疑わしい記述を正した点は先人の功績を継ぎ後学に恩恵を与えたといえる。繁雑で校勘の甘いところはあるが、識見の高さと度量の大きさゆえに不朽である。そこで特にその篇名を記して、学を好む人と共に読みたいと願う。
陳壽『進諸葛氏集』の目録
- 陳壽が朝廷に上呈した『諸葛氏集』の目録を掲げる。一 開府作牧、二 權制、三 南征、四 北出、五 計筭、六 訓厲、七 綜覈上、八 綜覈下、九 雜言上、十 雜言下、十一 貴和、十二 兵要、十三 傳運、十四 與孫權書、十五 與諸葛瑾書、十六 與孟達書、十七 廢李平、十八 法檢上、十九 法檢下、二十 科令上、二十一 科令下、二十二 軍令上、二十三 軍令中、二十四 軍令下。
- 右の二十四篇で、あわせて十萬四千一百一十二字。
- (編者按)本集そのものは失われたが、幸い篇名だけは残った。そのおかげで後世の偽作・仮託の類も、別に篇名を立てていて本物と混ざらずに済んでいる。真偽を見分けられるのは古い目録があってこそで、裴松之や王冏伯だけでなく陳壽の志も、これによっていよいよ朽ちない。
四庫全書提要
- (四庫全書提要より)『諸葛忠武書』十巻は明の楊時偉の編。時偉は字を去奢といい、呉縣の人。もと王士騏が『武侯全書』十六巻を撰したが、時偉はその繁雑さを難として改めてこの書を作り、連呉・南征・北伐・調御・法檢・遺事の六巻を残し、年譜・傳畧・紹漢・雜述の四巻を加えて計十巻とした。
- (同)陳壽が上呈した諸葛亮集二十四篇はその文が久しく失われ、目録だけが亮伝の末に見える。今世に伝わる亮集四巻は後人の寄せ集めで、仮託の文が多い。たとえば「梁父吟」はもと禇亮の作で歐陽詢『藝文類聚』に見えるが、亮伝に「好んで梁父吟を為す」とあるのと符合し、かつ禇亮の名が諸葛亮と紛らわしいため、誤って亮の作とされた。「黄陵廟記」も昭烈帝を「劉氏」と呼んでおり、忠誠篤い亮が主君をそこまで軽んじるはずがなく、しかも「亂石排空・驚濤排岸」の語は蘇軾「大江東去」の剽窃で、偽作は言うまでもない。
- (同)時偉のこの編はこうした偽作を多く正しており、諸家に比べてかなり精審で、事跡の配列にも筋が通っていて、亮の始めから終わりまでを見通せる。もとは陶潜集と合わせて編まれ、「進んでは亮たるべく、退いては潜たるべし」の意を寓したものだが、潜の詩文は別集の類、亮の事跡は伝記の類で一書にまとめがたい。よってこの書は史部に、潜集は集部に別々に著録する。乾隆四十二年六月に校上。総纂官は紀昀・陸錫熊・孫士毅、総校官は陸費墀。
諸葛忠武書引(楊時偉の自序)
- (楊時偉「諸葛忠武書引」より)陳壽の志には諸葛氏集二十四篇の目録が「開府作牧」以下すべて載り、裴松之の注も亮集を引くが、蘇東坡や葉水心の代には全書を見られぬと嘆いており、侯の集が失われて久しいことが分かる。
- (同)近年、婁東の王冏伯が『武侯全書』を編み直した。侯にとって欠かせぬ書であるばかりか、世を助け忠孝を勧める大観であるのに、世人の多くはこれを見ず、見ても価値を認めない。
- (同)自分のこの編は実は冏伯の書に基づくが、配置を改めて分量は三分の一ほどに絞り、記事や語句は十のうち九まで手を入れた。合刻のために別本として自ら成ったもので、前の書を覆い隠して殊更に異を立てるつもりはない。
- (同)伝には「好んで梁父吟を為す」とあって自作とは言っていない。今伝わる「歩出齊城門」は意味が浅く、好んで吟ずるほどのものではない。「黄陵廟記」もまるで当時の語気ではないので、別に付して後の識者を待つ。
- (同)伝に「武郷侯に封ぜられ忠武と諡す」とあるのに後人は「武侯」としか呼ばない。その理由が解せないので、書名を『諸葛忠武侯書』と題した。「集」といわず「書」というのは、原集を忘れないためである。原集がすでに亡んだ以上「全」とは言えず、偽物を取って真を乱し後学を惑わせる『新書』『將苑』の類は、陳壽・裴松之が載せず冏伯も採らないという以前に見分けがつく。そこで同志と相談し、厳密であって濫りでないことを旨とした。萬暦己未(1619年)夏至、楊時偉しるす。