史通古今正史第二
- 要旨: 三墳五典から本朝の唐書まで、歴代の正史がどのように編まれ、誰が撰し、どこで挫折したかを十八条にわたって記す。
三墳五典
- 易に「上古は結縄で理め、後世の聖人がこれを書契に易えた」とある。儒者は「伏犧氏がはじめて八卦を画き、書契を造って結縄の政に代えた。ここから文籍が生まれた」という。
- また「伏犧・神農・黄帝の書を三墳といい大道を言う。少昊・顓頊・高陽・唐虞の書を五典といい常道を言う」ともいう。春秋傳には楚の左史が三墳五典を読めたとあり、礼記には外史が三皇五帝の書を掌るとある。
- とすれば墳典の文義と三皇五帝の典策は、春秋の時代にはなお世に大いに行われていたことになる。後世にはその書が伝わらず、唐虞以降だけが語れる。
- 堯より前については聖賢もなお伝え述べており、一つ二つは面影が残る。しかし後世の諸子が奇説を広く造り、その語は経に外れ、その書は聖のものではない。だから司馬遷は「神農以前は吾知らず」と言い、班固も「顓頊の事は明らかにしがたい」と言う。墳典の記すところで称せるものは無い。
尚書
- 堯と舜が相承けたことはすでに墳典に見える。周は二代に鑑みてそれぞれ書籍を持った。孔子がその議を討論し、刪って尚書とした。上は唐堯に始まり下は秦の繆公に終わる百篇で、それぞれに序を付けた。
- 秦が無道で儒を坑にし学を禁じたとき、孔子の末孫の孔惠がその書を壁に蔵した。漢室が興って儒雅を広く求め、旧秦の博士・伏勝がその業を伝えられると聞いて、太常に詔して掌故の鼂錯に受けさせた。当時、伏生は百歳近く、言葉が聞き取れないので口授したが、伝わったのは二十九篇だけである。以後、その学を伝える者に歐陽氏と大小夏侯氏がある。
- 宣帝のとき、河内の女子が泰誓一篇を得て献じ、伏生の誦した分と合わせて三十篇となり世に行われた。しかしその篇の載せる年月は序と符合せず、左傳・國語・孟子に引く泰誓とも異なる。だから漢魏の諸儒はみなその誤りを疑った。
- 古文尚書は孔惠が蔵した科斗文字の本である。魯の恭王が孔子の旧宅を壊してはじめて壁の中から得た。博士の孔安国が伏生の誦した分と校べると二十五篇多く、古文字で写して四十六巻に編んだ。司馬遷はしばしばその事を採ったので、遷の書には古説が多い。
- 孔安国はまた詔を受けて訓傳を作ったが、武帝の末に巫蠱の事が起こり経籍の道が止んだので奏上できず、私家に蔵した。劉向が歐陽・大小夏侯の三家と校べたところ、経文の脱誤が甚だ多かった。後漢に至って孔氏の本はついに絶え、経典に見えるものを諸儒はみな「逸書」と呼んだ。
- 王肅も今文尚書に注したが、古文の孔傳と大いに類する。王肅が私にその本を見て独り秘したのであろうか。
- 晉の元帝のとき、豫章王の内史・梅賾がはじめて孔傳を奏上したが、舜典一篇が欠けていた。そこで王肅の堯典の「慎徽」以下を分けて舜典として続けた。これより歐陽・大小夏侯の学、馬融・鄭玄・王肅の諸注は廃れ、古文孔傳だけが行われて学官に列し、永く世の範となった。
- 齊の建武年間、吳興の人・姚方興が馬融・王肅の義を採って孔傳の舜典を造り、「大航で購い得た」と称して闕に詣り献じた。朝議はみなこれを非とした。江陵が乱れるとその文は北に入り、中原の学者が得て異とした。隋の学士・劉炫がこの一篇を取って本文の次第に列した。今の人が習う尚書の舜典は、もと姚氏から出たものである。
春秋
- 周室が微弱で諸侯が力を争ったころ、孔子は聘に応じても用いられず、衛から帰って魯の君子・左丘明とともに太史氏で書を観、魯の史記に因って春秋を作った。上は周公の遺制に遵い、下は将来の法を明らかにする。隱公から哀公まで十二公の行事である。
- 経が成って弟子に授けたが、弟子は退いて説を異にした。左丘明はその真が失われるのを恐れ、本事を論じて傳を作り、孔子が空言で経を説いたのでないことを明らかにした。
- 春秋が貶した当世の君臣について、その事実はみな傳に現れている。だから左丘明はその書を隠して世に出さなかった。時難を免れるためである。
- 末世に口説が流れ形をなして、公羊・穀梁・鄒氏・夾氏の傳ができた。鄒氏には師が無く、夾氏には録があって書が無いので、世に顕れなかった。
- 漢が興ると董仲舒・公孫弘がともに公羊を治め、その伝習に厳氏・顔氏の二家の学があった。宣帝は即位して衛太子が私に穀梁を好んだと聞き、名儒の蔡千秋・蕭望之らを召して殿中で大議し、博士を置いた。
- 平帝の初めに左氏が立てられたが、後漢では儒者がしばしば朝廷でこれを毀り、博士の李封が卒すると再び用いられなくなった。和帝の元興年間に鄭興父子が奏請して学官に重ねて立てた。魏晉に至ってその書は次第に行われ、二傳(公羊・穀梁)はかえって廃れた。今用いられる左氏の本は杜預の注したものである。
國語・世本・戰國策・史記
- 春秋の世は諸侯の国にそれぞれ史があった。だから孔子は諸家の史記を求めて百二十国の書を得た。楚の書、鄭の志、魯の春秋、魏の紀年などが語れるものである。
- 左丘明は経に配して傳を立てたうえ、諸々の異同を撰して外傳・國語二十一篇と号した。書・志などの文を採ったもので、魯の史記だけによったのではない。
- 楚漢の際、好事の者が古来の帝王・公侯・卿大夫の系譜を録し、秦の襄公で終える世本十五篇を作った。春秋の後、七雄が並び争い、秦が諸侯を併せた経緯を記した戰國策三十三篇がある。
- 漢が興ると太中大夫・陸賈が時政を紀録して楚漢春秋九篇を作った。
- 孝武の世、太史公司馬談は古今を錯綜させて一史を勒そうとしたが、意を遂げずに没した。子の司馬遷が父の遺志を述べ、左傳・國語を採り、世本・戰國策を刪り、楚漢の時事に拠って、上は黄帝から下は獲麟までを記した。十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列傳、計百三十篇で、総じて史記という。六経の異傳を協え、百家の雑語を整え、名山に蔵して副本を京師に置き、後の聖なる君子を俟った。
- 宣帝のとき、司馬遷の外孫の楊惲がその書を祖述して世に宣布した。ただし十篇は未完で目録だけがあった。元帝・成帝の間に會稽の褚少孫がその欠を補い、武帝紀・三王世家・龜策傳・日者傳を作ったが、辞に鄙陋が多く司馬遷の本意ではない。
- 晉の散騎常侍・巴西の譙周は、司馬遷の書が周・秦以前について家人や諸子の説を採り正経に拠らないところがあるとして、古史考二十五篇を作った。みな旧典に憑ってその誤りを糺したもので、今は史記と並び行われている。
漢書
- 史記の記す年は漢の武帝に止まり、太初以後は欠けて録さない。その後、劉向・劉歆および好事の者——馮商・衛衡・揚雄・史岑・梁審・肆仁・晉馮・段肅・金丹・馮衍・韋融・蕭奮・劉恂ら——が相次いで撰し続け、哀帝・平帝まで及んだが、なお「史記」と称していた。
- 建武年間、司徒掾の班彪は、その言が鄙俗で前史を継ぐに足りず、揚雄・劉歆が偽新(王莽)を褒め美めて後世を誤り衆を惑わせるのは後代に垂れるべきでないとして、旧事を採り異聞を傍観して後傳六十五篇を作った。
- 子の班固は、父の撰が一家を尽くしていないとして、上は高皇帝に起こり下は王莽に終わる十二世・二百三十年の行事を綜べ、上下に通じさせて漢書の紀・表・志・傳百篇とした。
- その事が終わらぬうちに「班固が私に史記を改作している」という上書があり、詔によって京兆が収監し、家の書をすべて封じて上らせた。弟の班超が闕に詣って自ら陳べ、明帝が引見した。班超は「兄は父の作を続けており、旧書を改易することは敢えてしない」と言い、帝の疑いは解けた。班固は釈放されて校書に召され、詔を受けて業を終えた。二十年余りを経て章帝の建初年間に成った。
- 班固は後に竇氏の事に坐して洛陽の獄で没し、書はかなり散乱して整理できなかった。妹の曹大家(班昭)が博学で文を属せたので、詔を奉じて校訂・叙述し、さらに高才の郎・馬融ら十人を選んで大家から読みを授けさせた。八表と天文志などはなお完成せず、多くは待詔東觀の馬続が作ったものである。古今人表だけは本書と類しない。
- 漢末から陳の世まで、その注解を作った者は二十五家に及ぶ。専門に受業することは五経に次ぐほどであった。
- はじめ漢の献帝は班固の書が文煩で読みにくいとして、侍中の荀悅に左氏傳に依って刪り漢紀三十篇とするよう詔し、秘書に紙筆を給した。五年で成った。その言は簡要で、本傳と並び行われている。
後漢書
- 漢の中興後、明帝はまず班固と睢陽令の陳宗、長陵令の尹敏、司隷従事の孟冀に世祖本紀を作らせ、あわせて功臣および新市・平林・公孫述の事を撰して列傳・載記二十八篇とした。
- それ以来、春秋の世も煥然と明らかになったが、忠臣義士については撰勒する者がいなかった。そこで史官の謁者僕射・劉珍および諫議大夫・李充に詔して、紀・表と名臣・節士・儒林・外戚の諸傳を雑作させた。建武に始まり永初に終わる。事業が終わりかけたところで劉珍らが相次いで没した。
- さらに侍中の伏無忌と諫議大夫の黄景に、諸王・王子・功臣・恩沢侯の表、南単于傳・西羌傳・地理志を作らせた。ある年にはまた太中大夫の邊韶、大軍営司馬の崔寔、議郎の朱穆・曹壽に、孝穆皇・孝崇皇の二皇および順烈皇后の傳を雑作させ、外戚傳に安思皇后らを入れ、儒林傳に崔篆らを入れた。崔寔・曹壽はまた議郎の延篤とともに百官表、順帝の功臣・孫程・郭願および鄭衆・蔡倫らの傳を雑作した。合わせて百十四篇、漢記と号する。
- 嘉平年間、光禄大夫の馬日磾、議郎の蔡邕・楊彪・盧植が東觀で著作し、紀傳のうち成せるものを続けた。蔡邕は別に朝会志・車服志の二志を作った。後に事に坐して朔方に徙され、上書して還って十志を続け成すことを求めたが、董卓の乱で西に遷り、史臣は旧文を廃棄した。散逸したものは許都に残った。
- 楊彪はかなり注記を残したが、名賢君子については本初以後が欠けたままである。魏の黄初年間には先賢表を著しただけで、記は残缺し、晉に至っても成らなかった。
- 泰始年間、秘書丞の司馬彪がはじめて諸作を討論し、聞くところを綴った。光武に起こり孝献に終わり、十二世・二百年を編年し、上下を通綜して庶事を傍引し、紀・志・傳を作った。計十三篇、続漢書と号する。
- また散騎常侍の華嶠が東觀記を刪定して漢後書とした。帝紀十二、皇后紀・七十三譜・十典・列傳七十、総じて九十二篇。ただし十典は成らずに没した。
- それ以後、作者は相継ぎ、編年を作る者が四家、紀傳を創める者が五家ある。長所を推せば華氏が最上である。ところが晉室の東遷に遭って三分の一しか残らなかった。
- 宋の宣城太守・范曄は学徒を広く集め旧籍を窮覧し、煩を刪り略を補って後漢書を作った。十紀・十志・八十列傳、合わせて百篇である。ところが范曄は罪に問われて収監され、十志も未完のまま死んだ。
- これに先立ち、晉の東陽太守・袁宏が漢氏の後書を抄撮し、荀悅の体に依って後漢紀十三篇を著した。世に漢の中興の史をいう者は范曄・袁宏の二家だけである。
三國志
- 魏史は黄初・太和年間、尚書の衛覬と繆襲に紀傳の草創を命じたが、数年かかっても成らなかった。さらに侍中の韋誕・應璩、秘書の王沈、大将軍従事中郎の阮籍、司徒右長史の孫該、司隷校尉の傅玄らにともに撰定させた。その後、王沈が独りその業に就いて魏書四十四巻を勒した。この書は時の諱を憚ることが多く、まったく実録ではない。
- 吳の大帝(孫権)の晩年、太史令の丁孚と郎中の項峻に吳書を撰させた。二人とも史才が無く、その文は紀録に足りない。少帝のときに改めて韋曜・周昭・薛瑩・梁広・華覈に勅して往事を訪ね求め、ともに記述させた。この中では韋曜と薛瑩が首である。帰命侯のときには梁広・周昭が先に亡くなり、韋曜・薛瑩は徙され黜けられて、史官が長く欠け、書も聞かれなくなった。華覈が表して韋曜・薛瑩に前史を続け成させるよう請うた。その後、韋曜が独りその書を終え、五十五巻に定めた。
- 晉が命を受けて海内が大同すると、著作の陳寿が三国の史を集めて国志六十五篇を撰した。夏侯湛も当時魏書を著していたが、陳寿の作を見て自らの草稿を壊して止めた。
- 陳寿の没後、梁州大中正の范頵が表して「国志は得失に明らかで辞に勧誡が多く、風化に益がある。多く採録されたい」と言った。そこで河南尹に詔して家に就いてその書を写させた。
- これに先立ち、魏の時に京兆の魚豢が私に魏略を撰したが、事は明帝までである。その後、孫盛が魏氏春秋を撰し、王隱が蜀記を撰し、張勃が吳録を撰した。異聞が入り乱れ、その流れは最も多い。
- 宋の文帝は国志の記載が簡略に過ぎるとして、中書郎の裴松之に諸書を兼ね採ってその欠を補注させた。これによって世に三国の志をいう者は裴注を本とする。
晉書
- 晉史は、洛京の時に著作郎の陸機がはじめて三祖の紀を撰し、佐著作郎の束晢が十志を撰したが、中朝の喪乱に遭ってその書は残らなかった。
- これに先立ち、歷陽令の陳留の王銓に著述の才があり、私に晉書および功臣の行状を録していたが、成らずに没した。子の王隱は博学多聞で父の遺業を受け、西都の事跡を詳究した。江を渡って著作郎となり、詔を受けて晉史を撰したが、同僚の虞預に斥けられ、事に坐して免官された。家が貧しく資が無いので書は成らなかった。そこで征西将軍の庾亮を武昌に頼り、庾亮が紙墨を給したので完成に至った。晉書八十九巻、咸康六年にはじめて闕に詣って奏上した。
- 王隱は述作を好んだが辞は拙く才は鈍い。その書で編次に序があるところはみな王銓の修めた分であり、章句が混乱しているところは必ず王隱の作である。
- 当時、尚書郎で国史を領した干寶も晉紀を撰した。宣帝から愍帝まで七帝・五十三年、計二十二巻である。その書は簡略で、直でありながら婉やかであり、当時に大いに称された。
- 晉の江左の史は、鄧粲・孫盛・王韶之・檀道鸞以下が相次いで作った。遠いものは二帝を編記し、近いものは六朝を叙べるだけである。
- 宋の湘東太守・何法盛がはじめて晉中興書を撰して一家を勒し、首尾が該備した。齊の隠士・東莞の臧榮緒はまた東西二史を集めて一書とした。
- 本朝の貞観年間、前後の史十八家は制作こそ多いが尽く善いとはいえないとして、史官に纂録し直すよう勅した。正典と旧説の数十部を採り、あわせて偽史十六国書を引いて、記十・志二十・列傳七十・載記三十、序例・目録と合わせて百三十二巻とした。以来、晉史をいう者はみな旧本を棄てて競って新撰に従う。
宋書
- 宋史は元嘉年間、著作郎の何承天が紀傳を草創した。それ以外はすべて奉朝請の山謙之に委ねて何承天の残缺を補わせた。後にまた裴松之に国史を続け成させたが、松之はまもなく没した。史佐の孫沖之が表して別に自ら創立し一家の言を成すことを求めた。
- 孝建の初め、南台侍御史の蘇寶生に勅して諸傳を続造させた。元嘉の名臣はみなその撰である。蘇寶生が誅されると、大明六年に著作郎の徐爰に命じて前作を踏まえて成させた。徐爰は何・孫・山・蘇の述べたところに因って一書を勒した。ただし臧質・魯爽・王僧達の諸傳は孝武帝が自ら造ったもので、叙事に虚が多く信じがたい。永光以後、禅譲までの十余年は欠けて載っていない。
- 齊の著作郎・沈約が遺漏を補綴して雑史を製し、義熙の建号から昇明三年までを、紀十・志三十・列傳六十、合わせて百巻とし、宋書と名づけた。
- 永明の末にこの書が行われると、河東の裴子野が改めて刪って宋略二十巻とした。沈約は見て「私の及ばぬところだ」と歎じた。以来、世に宋史をいう者は裴略を上とし、沈書を次とする。
齊書
- 齊史は江淹がはじめて詔を受けて著述した。史の難しさは志に過ぎるものが無いとして、まず十志を著してその才を示した。沈約もまた齊紀二十篇を著した。紀八・志十一・列傳四十、合わせて五十九篇である。
- 当時、奉朝請の吳均も表して齊史の撰を請い、起居注および群臣の行状を賜るよう乞うた。詔に「齊氏の故事は流俗に布いており見聞も多い。自ら捜訪せよ」とあった。そこで吳均は齊春秋三十篇を撰した。その書は梁帝を齊の明帝の佐命の臣と称した。帝はその実を憎んで焚くよう詔したが、私本はついに蕭子顯の撰と並んで後に伝わった。
梁書
- 梁史は武帝のとき、沈約と給事中の周興嗣、歩兵校尉の鮑行卿、秘書監の謝旻が相承けて撰録し、すでに百篇に及んだが、承聖の淪没に遭ってともに焼かれた。
- 廬江の何之元、沛国の劉璠が見聞によってその始末を究め、ともに梁典三十篇を撰した。ただし紀傳の書は作られなかった。陳の祠部郎中・姚察に撰勒の志があったが、功を尽くさぬうちに朝務に当たり国史の修撰を兼ねたので、陳が亡ぶまでその書は成らなかった。
陳書
- 陳史ははじめ吳郡の顧野王、北地の傅縡がそれぞれ撰史学士となった。武帝・文帝の二紀は顧・傅の修めたものである。太建の初め、中書郎の陸瓊が諸篇を続撰したが事が煩雑に傷んだ。姚察が刪改を加えてようやく条貫を得た。
- 江東が守れず、書を持って関に入った。隋の文帝はしばしば梁・陳の事跡を求め、姚察は成った分を篇ごとに続けて奏したが、ぐずぐずと引き延ばしてついに筆を絶たなかった。
- 本朝の貞観の初め、その子の姚思廉が著作郎となり、詔を奏して二史を撰成した。旧稿に憑って新録を加え、九年を経てようやく功を畢えた。梁書五十六巻、陳書三十六巻。今ともに世に行われている。
十六国の史
- 前趙の劉聰のとき、左国史を領した公師彧が高祖本紀および功臣傳二十人を撰した。大いに良史の体を得ていたが、淩修が「先帝を誹謗している」と讒し、劉聰は怒って誅した。
- 劉曜のとき、平輿子の和苞が趙記十篇を撰したが、事はその年までで劉曜の滅亡までを終えていない。
- 後趙の石勒は臣の徐光・宗歴・傅暢・郭愔らに上党国記・起居注・趙書を撰させた。後にまた王蘭・陳宴・程陰・徐機らに相次いで撰述させた。石虎に至ってすべて刋削を命じ、石勒の功業を伝わらないようにした。
- その後、燕の太傅長史・田融、宋の尚書庫部郎・郭仲産、北中郎参軍・王度が石氏の事を追撰し、鄴都記・趙記などの書を集めた。
- 前燕には起居注があり、杜輔が全録して燕紀とした。後の建興元年、董統が詔を受けて草創し、本紀および佐命功臣・王公の列傳を著して三十巻とした。慕容垂はその叙事が富贍で一家の言を成すに足ると称したが、褒め方が美に過ぎ、董狐の直には慚じる。その後、申秀・范享がそれぞれ前後二燕を取って一史に合わせた。
- 南燕には趙郡の王景暉がいた。徳超(慕容徳・超)に仕えて二主の起居注を撰し、超の滅亡後は馮氏に仕えて中書令に至り、なお南燕録六巻を撰した。
- 蜀ははじめ成と号し、後に漢と改称した。李勢の散騎常侍・常璩が漢書十巻を撰し、後に晉の秘閣に入って蜀書と改められた。常璩はまた華陽国志を撰し、李氏の興滅を具さに記した。
- 前涼の張駿十五年、西曹の邊瀏に内外の事を集めさせ、秀才の索綏に付して涼国春秋五十巻を作らせた。また張仲華の護軍参軍・劉慶が東苑で二十年余り国史を専修し、涼記十二巻を著した。建康太守の索暉、従事中郎の劉昞もそれぞれ涼書を著した。
- 前秦の史官にははじめ趙淵・車敬・梁熙・韋譚がいて相継いで著述した。苻堅がこれを取って観たとき、苟太后が李威を寵幸した記事を見て怒り、その本を焼き滅ぼした。後に著作郎の董誼が旧語を追録したが、十のうち一つも残らなかった。
- 宋の武帝が関に入ったとき秦国の事を訪ね、梁州刺史の吉翰に仇池の人々に問わせたが何も得られなかった。これに先立ち、秦の秘書郎・趙整が国史の撰に参じ、秦の滅亡に遭って南洛山に隠れながら書き続けていた。馮翊の車歩がその経費を助けた。趙整の没後、吉翰が啓して纂成させ、元嘉九年から二十八年に至ってようやく終わり、三巻に定めた。ただし年月の順序が乱れ首尾が揃わない。河東の裴景仁がその訛りを正し、刪って秦記十一篇とした。
- 後秦では扶風の馬僧虔、河東の衛隆景がともに秦史を著した。姚氏の滅亡で残缺が多くなったが、姚泓の従弟の姚和都が魏に仕えて左民尚書となり、なお秦紀十巻を追撰した。
- 夏では天水の趙思群、北地の張淵が真興・承光の世にともに命を受けて国書を著したが、統万の陥落で多くが焼かれた。
- 西涼・西秦・北燕の史は、当代に書かれたものも他邦で録されたものもある。段龜龍が呂氏(後涼)を記し、宗欽が禿髪氏(南涼)を記し、韓顕宗が呂氏・馮氏を記した。分かるのはこの三つだけで、ほかは詳らかでない。
- 魏の黄門侍郎・崔鴻は諸家を考覈して同異を弁じ、煩を除き闕を補い、綱紀を錯綜させて、その国書の「録」を「紀」に、「正紀」を「傳」に易え、総じて十六国春秋と名づけた。
- 崔鴻は景明の初めから諸国の逸史を求め、正始元年に集め終えたが、なお蜀の事が欠けて書を成せなかった。十五年探し求め、江東でようやく購い得て篇目を増し、十巻を勒した。崔鴻の没後、永安年間に子が繕写して奏上し、秘閣に蔵することを請うた。これによって偽史が宣布され、当時大いに行われた。
後魏書
- 元魏の史は、道武帝のとき鄧淵に国記十巻を著させたが条例が成らなかった。明元帝の代には廃れて述べられなかった。
- 神䴥二年、詔して文士を集め、崔浩・崔覧(浩の弟)・高閭・鄧穎・晁維・范亨・黄輔らに国書十巻を撰させ、とくに崔浩に史任を総監させて実録に務めさせた。さらに中書郎の高允、散騎侍郎の張偉を著作に参じさせて前史を続け成させた。
- 書は国事を叙べて悪を隠さず、石に刻んで路傍に示した。崔浩はこれに坐して三族を夷され、ともに作った者で死んだ者は百二十八人に及ぶ。以来、史官は廃された。
- 文成帝の和平元年にその職が復されたが、高允が著作を典って国記を修めたときには年すでに九十、手も目も衰えていた。校書郎中の劉模が編集に長けていたので、筆を執らせて口授した。こうすること五、六年、成った篇巻には劉模の力が大きい。
- はじめ国記は鄧淵・崔浩以下みな編年体を継いでいたが、孝文帝の太和十一年、秘書丞の李彪と著作郎の崔光に詔してはじめて紀と傳に分けた。宣武帝のときには邢巒に孝文帝の起居注を追撰させた。その後、崔光・崔遵業が補い続けて孝明の世まで下り、温子昇がまた孝武紀を修め、濟陰王の元暉業が辨宗室録を撰した。魏の史官と私撰はこれで尽きる。
- 齊の天保二年、秘書監の魏收に勅して旧聞を博く採り一史を勒させ、刁柔・辛元植・房延祐・睦仲讓・裴昂之・高孝幹らに編次を助けさせた。魏收は取った史官が自分を凌ぐことを懼れたので、刁・辛らはみな史才に乏しく、学流に似せて縁故で進んだ者ばかりであった。
- そこで百家の譜状を大いに徴し、斟酌して魏書を成した。上は道武から下は孝靖まで、紀・傳と志で計百三十巻である。
- 魏收は齊氏に諂って魏室に公平でないことが多く、北朝に党したうえ江左を厚く誣いた。性は己に勝る者を憎み旧悪を念じるのを喜んだので、甲門・盛徳の家でも怨みのある者にはみな醜言を被せて善事を没した。怒りが及べば高祖父・曾祖父まで毀った。
- 書が成って奏すると、詔して尚書省で諸家と論討させた。前後に訴え出た者は百余人に及ぶ。当時、尚書令の楊遵彦は一代の貴臣で勢いは朝野に傾いていたが、魏收はその家傳を甚だ美しく撰したので深く庇護された。史を訴えた者はみな重罰を受け、獄中で斃れる者も出た。群怨と謗声は止まなかった。
- 孝昭の世に魏收に勅して研審を加えさせ、その後に外へ宣布した。書が成って群臣に諮ってもなお「実でない」と言われ、また改めさせた。その変えたところは甚だ多い。これによって世はその書を薄んじ、「穢史」と呼んだ。
- 隋の開皇年間、著作郎の魏澹に顔之推・辛徳源とともに魏書を改めて撰し、魏收の失を矯正させた。魏澹は西魏を真とし東魏を偽としたので、文恭帝を紀に列し孝靖帝を傳と称した。紀・傳・論・例合わせて九十二篇である。
- 煬帝は魏澹の書もなお善くないとして、左僕射の楊素に別に撰させ、学士の潘徽・褚亮・歐陽詢らに佐けさせたが、楊素が薨じて止んだ。今世に魏史を称する者は、なお魏收の本を主とする。
北齊書
- 高齊の史は、天統の初めに太常少卿の祖孝徴が献武(高歓)の起居を述べ、黄初傳天録と名づけた。当時、中書侍郎の陸元規は常に文宣帝の征討に従い、皇帝実録を著したが、行軍を記すだけで他の事を載せない。
- 武平以後は史官の陽休之・杜臺卿・祖崇儒・崔子発らが相継いで注記し、齊の滅亡まで及んだ。
- 隋の秘書監・王邵、内史令・李徳林はともに若くして鄴中に仕え、故事に詳しかった。王邵は起居注に憑り、聞くところを広めて編年書を造り、齊志十六巻と号した。李徳林は齊にあって国史の修撰に加わり、紀傳の書二十七巻を創めた。開皇の初めに詔を奉じて続撰し、齊史三十八篇に増やして官に送り、秘府に蔵した。
- 本朝の貞観の初め、その子の中書舎人・李百藥に勅して旧録に因り、他書を雑採して五十巻に演べさせた。今、齊史をいう者は王・李の二家だけである。
後周書
- 宇文周の史は、大統年間に秘書丞の柳虬が著作を兼領し、直辞・正色で称すべきことがあった。
- 隋の開皇年間、秘書監の牛弘が周紀十八篇を追撰し、綱紀を略叙したが、なお食い違いが多い。
- 本朝の貞観の初め、秘書丞の令狐徳棻と秘書郎の岑文本に勅してともに修緝を加えさせ、周書五十巻に定めた。
隋書
- 隋史は開皇・仁寿のころ、王邵が十八巻の書を作り、類ごとに従わせて篇目を定めた。ただし編年も紀傳も体として欠けている。
- 煬帝の世には王胄らが修めた大業起居注があるだけで、江都の禍でなお多くが散逸した。
- 本朝の貞観の初め、中書侍郎の顔師古、給事中の孔穎達に勅してともに隋書五十五巻を撰成させ、新撰の周史と並び行われた。
- はじめ太宗は梁・陳および齊・周・隋にまだ書が無いとして、学士に分けて修めさせた(事は上に述べたとおり)。秘書監の魏徴にその務めを総知させ、賛論の類は魏徴が多く与った。貞観三年に創め、十八年にようやく成った。合わせて五代の紀傳と目録、計二百五十二巻である。
- 書が成っても史閤に入らず、十志だけが断って三十巻とされた。続けて奏そうとしたがその文が無かった。そこでまた左僕射の于志寧、太史令の李淳風、著作郎の韋安仁、符璽郎の李延寿に詔してともに撰させた。先に撰した史人では令狐徳棻だけが重ねてこの事に与った。太宗の崩後に刋勒がはじめて成った。その篇次は隋書に編入されているが実は別行しており、俗に五代史志と呼ばれる。
唐の史
- 本朝が命を受けると、義寧・武徳の間に工部尚書の温大雅がまず創業起居注三篇を撰した。以来、司空の房玄齢、給事中の許敬宗、著作佐郎の敬播がともに編年体を立て、実録と号した。三帝の代までその書がある。
- 貞観の初め、姚思廉がはじめて紀傳を撰して粗く三十巻を成した。顯慶元年には太尉の長孫無忌が于志寧・令狐徳棻・著作郎の劉胤之・楊仁卿・起居郎の顧胤らとともに旧作に因り後の事を綴って五十巻とした。繁雑とはいえ時に観るべきものがある。
- 龍朔年間、許敬宗がまた太子少卿として史任を総統し、傳を増作して百巻とした。高宗本紀および永徽の名臣・四夷等の傳の多くはその造るところである。また十志を起草したが半ばで没した。
- 許敬宗の作った紀傳は、曲げて時の旨に阿るか、猥りに私憾を晴らすかで、毀誉はおおむね実録でない。魏收(伯起)になぞらえれば、張衡に対する蔡邕のようなものである。
- その後、左史の李仁実が于志寧・許敬宗・李義府らの傳を続撰した。言を載せ事を記して直筆と推されたが、惜しくも年短くして功業を終えなかった。
- 長寿年間、春官侍郎の牛鳳及が武徳から弘道までを断って唐書百十巻を撰した。牛鳳及は喑聾にして才が無いのに一代の大典を議した。纂録するところはみな私家の行状を貴んだものだが、世人の叙事は自ら達しうるものがまれである。言はみな比興でまるで詠歌のようであるか、語は鄙朴で実は文案と同じであるかなのに、すべてそのまま編次して少しも改めない。自らの胸臆から出て機杼を申べたところは、発言すれば嗤うべき怪誕、叙事すれば参差・倒錯である。だからその篇次を閲しても観るに堪えず、章句を披いても意味が分からない。
- そのうえ姚思廉・許敬宗らの諸本をことごとく回収して自分の書だけを行わせようとしたので、皇家の旧事は残缺してほとんど尽きた。
- 長安年間、私(劉知幾)は正諫大夫の朱敬則、司封郎中の徐堅、左拾遺の吳兢とともに詔を奉じて改めて唐書を撰し、八十巻を勒した。神龍元年にはまた吳兢らと則天実録を重修し、二十巻に編んだ。
- 旧史の壊れようは絡んだ縄のようで、錯綜を解くのは難しく、一年がかりでようやく終わった。言に択ぶべきものが無く事に遺恨が多いとはいえ、将来に草稿を削る者の拠りどころにはなるであろう。
- 古来の史臣の撰録の梗概はおおむね以上のとおりである。辞を属し事を比べ、月を年に繋けるという史氏の根本、生きる人の耳目となるものは、ほぼここに尽きている。そのほかの編記・小説については、詳しく論ずる暇がない。