- 要旨: 史の叙事には語調を整える助辞のような部分があるが、そこに評価の言葉を軽々しく加えると、事実と食い違い、同じ書の中で矛盾が生じる、という批判。
助辞と、事を論ずる語
- 人の言葉には必ず余音や助字があって始めと終わりを成す。「伊」「惟」「夫」「蓋」は発語の端、「焉」「哉」「矣」「兮」は断句の助けである。除けば言葉が足りず、加えれば章句が全うされる。
- 史の叙事にもこれに似たところがある。晉の靈公が厚く斂めて牆を彫ったことを述べる前に「君たらず」と称し、司馬安が四たび九卿に至ったことを言う前に「巧宦」と標目する。事を説き起こす端である。
- また重耳が原を伐って信を示したことを書いた後に「一戦して覇たり、文の教えなり」と続け、匈奴が郅都に象った人形を作って馬上から射させたが誰も中てられなかったことを載せた後に「その憚られること此くの如し」と言う。事を論ずる助けである。
軽々しい評語の害
- 孔子が経を裁いたのは褒貶のためで、日月のように明らかで動かせない。史傳の書くところは伝え録することを貴ぶ。しかし本事の外に抑揚を寄せることがあり、得失が片言に懸かり是非が一句で決まる。談は容易ではなく、慎まねばならない。
- 近代の作者は煩富に溺れ、発言が中を失い字を加えるのに慎重でない。後の読者は信を取りにくい。
- 史記の世家に「趙鞅の諸子の中で無恤が最も賢い」とある。賢者は仁恕を先とし礼譲を本とすべきである。ところが無恤は偽って隣国と会し計を進めて伐ち、同母の姉が笄で自決するに至らせた。詐にして残忍、貪にして親しみが無く、鯨鯢の類、犬豕にも劣る。どうして賢と言えようか。
- 漢書に「蕭何は韓信の賢を知った」とある。賢者は世に処して平時も険難も変わらず、貧賤に落ちぶれず富貴に驕らない。傳に「進退存亡を知る者はただ聖人か」ともいう。淮陰侯は微賤のころ家業を怠って行いが無く、栄貴に居ると満ち溢れて禍を速め、身は逆臣となり名は悪徒に列した。身を守る備えを聞かず、足るを知る情はどこにも無い。その善を美めて才略と呼ぶのはよいが、賢と目するのは誤りである。
- また「厳延年は精悍敏捷で、子貢・冉有が政事に通じていたのにも及ばぬほどだ」とある。酷吏に名を編み屠伯と号された者を孔門の達者に比べるのは、釣り合うだろうか。しかも春秋から漢まで多くの年を経ており、姿を見て人を取ることも耳目を接することもできないのに、才術が類似して寸分違わないとどうして分かるのか。
同じ書の中の矛盾
- 古の記事は、あるいは経に先んじて伏線を張り、あるいは傳の後に結びを置く。配置は疎に見えて錯綜は緻密である。
- 今の記事はそうではない。巻や篇を隔てて矛盾し、行を連ね句を接して食い違う。
- 齊史が魏收を論ずるのに、良直・邪曲の三説がまちまちであり、周書が太祖を評するのに、寛仁と好殺の二理が食い違っている。言に基準が無いだけでなく、事も首鼠両端になっている。
- 人には一つのことしかないのに史の辞が二重三重になるのは、蕪雑な音を好んで正しい理を求めないからである。言が反覆すれば読者は惑う。
- また建国や家を承けることの美悪が星漢のように明らかで、磨いても染めても移せないのに、軽々しく汚点を加えたり曲げて粉飾したりする例がある。近い時代の史にこの類がとくに多い。
- 魏書は、登国年間に鳥の名で官を呼んだことについて「淳朴を好み尚び、遠く少皥に師とした」と言い、道武帝が蕃落と婚を結んだことについて「荒服の民を招き携え、追って漢の高祖を慕った」と言う。ほかの説もおおむねこの類である。
- しかし魏氏は辺境の北に興り典籍を知ることも少なく、蛮夷と縁組みしていた。秦・晉の婚とは違う。鳥の官の創設が郯子の言に関わるはずもなく、髦頭の一族との縁組みが婁敬(奉春君)の策に借りたはずもない。奢った言に限りが無く、厚顔も甚だしい。
- 周史は、元行恭が齊の滅亡で戻ったとき庾信が贈った詩「虢亡びて垂棘滅び、齊平らぎて寶鼎帰る」と、周弘正が来聘して館に在って韋敻に贈った詩「徳星なお動かず、直車あに肯て来らんや」を挙げ、庾信・周弘正にこれほど重んじられたと言う。
- 文が意を害するのは古来のことで、比べる相手を誤るのも昔からである。庾信・周弘正の作をすべて実録とするなら、その褒貶は一人にとどまらないのだから、趣旨全体を取るべきで、四句だけを採ってどうするのか。
- 題目が定まらず首尾が違うのは李百藥・令狐徳棻の例、心に愛憎を挟んで詞に出没があるのは魏收・牛弘の例である。いずれも鑑裁が遠く及ばず智識が周からないのに、軽々しく筆先を弄び、情のままに高下を付ける。繕いは行き届いていてもその跡はかえって目立ち、無知な者を惑わせて識者に嗤われる。
言葉を足す弊
- 詞の少ない者は一言で意を尽くし、蕪雑な者は数句を要してようやく行き渡る。
- 左傳は絳県の父が甲子を論じて趙孟に隠語で言ったと称し、班書は楚の老人が龔勝を哭したと述べるが、いずれもその名氏を記さない。一事を挙げれば類は推せる。
- ところが嵇康・皇甫謐が高士傳を撰したときは、この二人の老人のために傳を立て、左氏・班固の録をそのまま採ったうえで、傳論に「二叟は徳を隠して身を容れ、名利を求めず、乱害を避け、賤役に安んじた」と言う。古の意を推し量って新しい言葉を継ぎ足したもので、曹植が三良を詠み、傅玄が秋の婦を歌ったのと同じである。閨中で涙を落とし長歎するくだりは、語の多くは本傳に拠りながら事に異説は無い。
- 鳧の脛は短くても継ぎ足せば悲しみ、史の文は約でも増やせばかえって累となる。前哲の文に加減するのは容易ではない。
- 昔、孔子は唐虞以下から周までを断ち、浮詞を剪り取って機要を撮った。だから帝王の道が坦らかに明白になった。聖を去ること日ごとに遠く、史籍はいよいよ多くなったが、得失是非を誰が刋定できよう。才が改革に堪える者がいても、人によって言を廃するのでは、繞朝のいわゆる「秦に人が無いと言うな。私の謀が用いられなかっただけだ」ということになる。