- 要旨: 呼称は名分を正すためのものなのに、僭偽の君を王と呼び正統の君を姓名で呼ぶなど、愛憎や当代への追従で乱れている、という批判。
名を正すこと
- 孔子は「ただ名は人に仮すべきでない」と言い、また「名が正しくなければ言が順わない。必ずや名を正さんか」と言う。名の折衷は君子の急務であり、まして篇籍に列して不朽に伝えるならなおさらである。
- 孔子が春秋を修めたとき、吳・楚は王を称していたが旧のまま「子」とした。褒貶の大体であり、前修の楷式である。
- 司馬遷が史記を撰したとき、項羽は僭盗でありながら「王」と紀した。真偽が分かれず、後世を惑わせる元になった。
- 以後は訛謬が重なり、名や諱の付け方に軽重の別が無くなった。更始帝は漢室を中興し光武もその臣であった。事業は成らなくても暦数は結局その系に在る。それなのに班固・范曄の二史はどちらも「劉玄」と姓名で目している。侮りではないか。
三国の呼称
- 古くは二国が盟を争えば晉・楚をともに侯伯と称し、七雄が力を戦わせれば齊・秦をともに帝王と呼んだ。勝負に差があり大小が揃わなくても、勢いの窮まった者を庶民とし、力の屈した者を寇賊とするようなことは聞かない。
- 近古はそうではない。漢が亡んで天下が鼎立したとき、王道を論ずれば曹氏が逆で劉氏が順、国祚を語れば魏が短く吳が長い。ただ中原の地を占め、人が正朔を伝えるという点では、長短を較べれば魏が多くを占める。七国になぞらえれば、秦の繆公・楚の莊王が晉の文公・襄公と並んで覇を称したようなものである。
- ところが作者は吳・蜀の号や謚を没して孫権・劉備を姓名で呼ぶ。魏の側とはあまりに隔たっており、悪を懲らし善を勧める義はどこへ行ったのか。
- 続いて晉(金行)の版図が乱れ、戎羯が制を称してそれぞれ国家を持ち、実質は王者であった。しかし晉の臣子は君親に党し、華を乱した者を憎んで群盗になぞらえた。私の忿りに従って公を忘れたもので、胸を坦らかにして愛憎を離れなければ得失は定まらない。
- 蕭方等に至ってはじめて諸国の名や謚を残し、帝を僭称した者はみな「王」と称した。趙はなお人君だから王号を加え、杞は夷礼を用いたので子爵に貶したのと同じ扱いである。理を変通して事宜に合わせたもので、小道にも見るべきものがある。
廟号の濫用
- 古の天子の廟号は、功ある者を祖、徳ある者を宗とした。三代から両漢まで名実は相応じ、古今に伝わっている。
- 曹氏に降って祖の名が濫用された。慚じるところが無いのは武王(曹操)だけである。だから陳寿の三國志は武帝だけを「祖」と呼び、文帝・明帝はただ「帝」と称する。
- 晉以後、号を僭称した者は一人ではない。康帝・穆帝の二帝、劉宋・蕭齊の二朝、梁の簡文兄弟、齊の武成兄弟といった、家を承けた僻王や小国の凡庸な主がいる。虚謬な謚を付けられないだけでも幸いなのに、なお祖・宗と呼ぶ。誰が可とするだろうか。
- 史臣は載削にあたって弁別せず、書くたびに廟号を残す。それでどうやって勧沮の義を申べ、僭濫の源を杜ぐのか。
- 位は人臣でありながら跡が王者に参ずる者、たとえば周の太王・季歷、晉の司馬懿・司馬師・司馬昭は、追尊して名を立て天子に比べてよい。しかし曹氏の出自である宦官の養い親のように、帝号を加えても人望に適わない場合は違う。三國志の録するとおり匹夫と変わらないのだから、書くとしても「皇の祖考」と記すだけでよい。
- 元氏(拓跋氏)は沙漠の北に起こり、その君は一部族の酋長にすぎない。道武帝が追崇した先祖は二十八君に及ぶ。開闢以来これほどの例は無い。それなのに魏書の序紀はその虚号を襲い、生きていれば「帝」、死ねば「崩」と書く。沐猴にして冠し、腐鼠を璞と称するのと変わらない。
時代ごとの呼称と魏收の造語
- 古来、称謂は同じでなく、情に縁って作られ、もともと定まった基準は無い。諸侯で謚の無い者を戦国以前は「今王」といい、天子で位を追われた者を漢魏以後は「少帝」という。周が衰えては共和の相があり、楚には殺された郟敖の主があった。趙佗を尉佗といい、英布を黥布という。豪傑には平林・新市、寇賊には黄巾・赤眉の称があり、園公・綺里季らの友を「四皓」といい、石奮父子を「万石」と呼ぶ。
- いずれも当代から出たもので、史臣が録するにあたって伸縮させることはない。時に随って調和を取るので、古に稽える必要は無い。
- 後の作者もこの流れを継ぎ、時に新しい名を採って篇題を成した。王隱・晉書の「処士」「寒雋」、沈約・宋書の「二凶」「索虜」がその例である。
- ただ魏收だけは、遠くは古に師とせず近くは俗にも因らず、自ら故を作って憲章するところが無い。その撰した書では平陽王を「出帝」とし、司馬氏を「僭晉」とし、桓氏・劉氏以下を通じて「島夷」という。齊に諂って関右(西魏)を軽んじ、魏に党して江外を深く誣いた。愛憎が胸中から出て与奪が筆先で決まる。言は必ず経に外れ、名はただ人を驚かすだけである。
- 昔、漢の原涉が墳墓を大いに修め、道を開き表を立てて「南陽阡」と署し、京兆尹の跡を継いで名を並べようとしたが、誰も従わずただ「原氏阡」と呼ばれただけであった。事が妥当でなければ行われないのである。魏收が詭しい名を立て故実に依らないのも、竹帛に形を留めても諷誦に伝わることは少ないであろう。
諱と名の乱れ
- 帝王が命を受けて暦数が相承く以上、旧君が没しても敬意は変わらない。凡庶と同列にして名で書いてよいはずがない。
- 近代の文章は児戯に等しい。天子でありながら諱で呼ばれる例(姫満=周の穆王、劉莊=後漢の明帝の類)があり、匹夫でありながら名で呼ばれない例(阮籍を歩兵、陶潜を彭澤という類)がある。
- 史論の立言は雅正であるべきである。ところが班固の述は董賢(聖卿)を「董公これ亮らか」といい、范曄の賛は隗囂(季孟)を「隗王は士を得たり」という。習鑿齒は漢王を論じて昭烈帝を「玄徳」と呼び、裴松之は魏室を引いて文帝を「曹丕」と目する。
- 淫乱の臣にはすべて諱を隠し、正朔を承けた者にはその名を呼ぶ。奇を好んで文を作り、韻を追って句を成すためである。用捨の道に一定の例が無い。
- 近代の史はおおむねこの失が多い。上才ですらこうなのだから、まして中庸の者はなおさらである。今は一隅を略挙して標格を示すにとどめる。