- 要旨: 篇の並べ方について。類の違うものを同じ列に置き、時の前後を取り違え、正統と僭偽の順序を当代への追従で入れ替えている例を挙げて批判する。なお底本はこの篇を「第十二」とするが、斷限第十二の次なので第十三が正しい。
類の違うものを同列にする
- 尚書は言を記し、春秋は事を記す。日月で遠近を、年世で前後を計るので、読む者は雁の列、魚の連なりのように辿れる。
- 司馬遷に至って錯綜して篇を成し、類ごとに区分するようになり、班固がその跡を継いでさらに祖述した。その間には体統が一定せず、名目が食い違い、朱と紫が混ざり、冠と履が逆になった例がある。
- 司馬遷の列傳が編むのは人だけのはずである。それなのに龜策のような異物を、形の似ない人々と同じ科に置いて「傳」と呼ぶのは怪しいことである。龜策の記述は全く志の体なのだから、八書と並べて「書」の名で定めれば、物が類を得て同声相応じたはずである。
分けるべきでないものを分ける
- 班固は一姓ごとに傳を立てて多くを付け足すが、事跡がとくに異なる者は別の部に分け入れる。だから博陸侯(霍光)と去病の兄弟が同じ篇に無く、外戚と元后が姑と嫁で二つの録に分かれている。
- 楚の元王は封を受けて孫の戊の代で亡んだ。その行事の記載はごく少ないのに一巻を独占できたのは、劉向・劉歆の助けによる。しかし劉交の封は漢初、地を啓いて藩に列した人物であり、劉向は劉氏の末で職は卿士にすぎず、昭穆も疎く家も国も別である。楚王の子孫を高祖・惠帝の世に分けて荊・代と並べ、劉向父子を元帝・成帝の間に分けて王氏・京房と並べれば、諸傳と揃ったはずである。
正統の年を切り落とす誤り
- 古来、王室が衰えても天命が改まらないうちは、周王が債を逃れて台に登った話でも「周」と呼び、秦の君がまだ頸を繋がれない間は「秦国」と称した。まして神璽が手にあり火徳がなお存するときはなおさらである。
- ところが居摂の年号は平帝紀の末に編まれず、孺子嬰が主として祭ったことはすべて王莽傳の中に書かれた。おかげで漢の残る数年は埋もれて見えない。正朔に照らして誣いというほかない。
- 漢の中興にあたっては、更始帝が壇に登って改元し、寒暑が三たび改まる間、世祖(光武帝)は臣を称して北面し誠節を欠かなかった。やがて更始が長安で敗れ、祚は高邑に帰した。兄が亡んで弟が継ぎ、暦数は相承けている。
- それなのに作者は聖公(更始帝)を傳の中に抑え、文叔(光武帝)を紀の首に登した。魯の僖公を閔公の上に躋らせ、不窋を先とするような転倒である。東觀の筆は当時に諂ったとしても、後の修撰では改めるべきところである。
僭偽の位置
- 兎を逐って先を争い、烏の行方も定まらないうちは、群雄の僭盗も我が方の駆除の対象にすぎない。だから史傳の区分では真偽に別があり、陳勝・項籍は高祖の後に編まれ、隗囂・公孫述は光武の前に列されない。
- ところが陳寿の蜀書は、まず二牧(劉焉・劉璋)を掲げ、次に先主を列して継がせている。劉璋は蜀が偽朝だからといって恒例に従わなかったのだろうか。鵬も鷃も同じ鳥であり、大小の差はあれ扱いに差をつける理由は無い。
即位に至らない君主
- 春秋では、嗣子が諒闇のうちに年を越えずに廃された場合、君として成っていないので別に篇目を加えない。だから魯公十二のうち惡(子般)と視はその列に入らない。
- 秦の子嬰、漢の昌邑王も、胡亥に因って記され、孝昭に付いて伝わっている。それなのに吳均の齊春秋は鬱林王を紀としている。古に師とせず、法を細かくすることの甚だしい例である。
- 梁・唐の二朝が齊・隋の二史を撰したときは、東昏侯がなお在位しているのに和帝の年を列し、煬帝がまだ没していないのに恭帝の紀を編んでいる。その趣旨は、和帝が梁王に立てられ、恭帝が唐に承けられたからであろう。永元を黜けて中興を尊び、義寧を顕らかにして大業を隠したのである。
- 当代に取り入るために前朝を軽んじたわけで、一時の権道には適っても、千載に伝える格言とはならない。
表志の位置、その他の錯誤
- 本紀に書くことは列傳にもなお現れるが、表と志は体が異なり互いに交わらない。旧史は表・志の帙を紀と傳の間に分けて置いた。范曄がこれを改め、沈約・魏收が相次いで踏襲した。蕭子顯の齊書と顔師古(潁達)の隋史は范曄の類に依らず、再び班固の法に遵った。善いものを択んで行うのに新旧の別は無い。義を聞いて移らないことこそ憂うべきである。
- ほかにも、黄老を先にして六経を後にし、外戚を後にして夷狄を先にし、老子と韓非を並べ列し、賈詡を荀彧と同じ篇に編み、公孫弘の博い賛を宣帝紀の末に置くべきなのにそうせず、宗廟の迭毀を韋玄成傳の終わりに入れる、といった錯誤がある。数えきれないので、とくに甚だしいものだけを挙げ、一つ一つは詳述しない。