史通題目第十一

  • 要旨: 書名や篇の題は実体を定めるものなのに、奇を好んで実に合わない名が付けられ、篇の標目も煩瑣になっている、という批判。

書名の変遷

  • 上古の書には三墳・五典・八索・九丘があり、次いで春秋・尚書・檮杌・志乗がある。漢以降は流れが繁くなり、史の名はおおむね書・記・紀・略を主とする。後の者はそれぞれ好みに従って祖述し、沿革が循環しているが、区域には限りがあってこれを越えない。
  • 孫盛には魏氏春秋があり、孔衍には隋尚書があり、陳寿・王邵は「志」といい、何之元・劉璠は「典」という。奇を好み俗を厭い、旧に習って新を捨てたもので、古に稽える宜しさは得ていても時に従う義には達していない。
  • 総括すれば、年月日を編むものを「紀」、記傳を列ねるものを「書」とするのが、時に順って最もよい。

名と実が合わない例

  • 名は体を定めるためのもので、実の賓である。その道を失えば大きく損なわれる。
  • 呂不韋と陸賈はそれぞれ一書を著したが、ただ篇章を並べるだけで時月に繋けていない。子書・雑記であるのに、どちらも春秋と号している。
  • 魚豢と姚察は魏・梁の二史を著し、巨細を残らず載せて蕪雑が多いのに、どちらも「略」と掲げている。名と実を問えば失われているというほかない。
  • 史傳の雑篇は類ごとに区分し、事に随って号を立てるので一定の規はない。しかし司馬遷が皇后の傳を撰しながら「外戚」と章に命じたのは筋が違う。外戚は皇后に因って名を得るもので、宗室が天子に因って称されるのと同じである。皇后を編んで外戚傳と呼ぶなら、天子を書いて宗室紀と呼べるだろうか。
  • 班固の人表は「古今」を題目とするが、載せるところはみな秦以前で漢の事ではない。「古」は確かにあるが「今」はどこにあるのか。
  • 司馬遷の史記は別に八書を創った。班固は漢書を書名としたので「書」の号を重ねられず、書を志に改めた。文を避けたという義がある。しかし何法盛が中興書で志を記に改めたのは、旧を革めることを貴んだだけで、新しさを得ているとは見えない。

僭偽の扱いと篇名

  • 戦争が続いて雌雄が決しない間は、正朔を奉ぜず自ら君長となる者が出る。国史が傳を立てるなら、別に科条を設けるべきである。
  • ところが陳勝・項羽ら諸雄は漢籍に篇を寄せ、董卓・袁紹ら群賊は魏志に付け列ねられている。臣子と同じ例に置いては、彼我の別をどう弁ずるのか。
  • ただ東觀漢記だけが平林・下江の人々を「載記」として列した。しかし後の作者はこれに倣わなかった。新修の晉書に至ってはじめて十六国の主を「載記」として表題に掲げた。善いものを択んで行い、古に師とするに巧みだというべきである。

列傳の標目

  • 旧史の列傳の巻の題は一定していない。文字の少ないものは姓名を書き(司馬相如・東方朔の類)、字数の多いものは姓だけを書き(母將・蓋・陳・衛・諸葛の類)、人が多くて姓が同じ場合は数をまとめて示す(二袁・四張・二公孫の類)。この標し方は十分に詳審である。
  • ところが范曄は例を挙げて姓名を全部録し、短い行を巻中に並べ、細かい字を標題の外に集めた。子孫で附出する者は祖先の下に注記する。俗文の類である。孔目や薬草の経方でも、これほど煩碎なものはない。
  • 周易の六爻は義が象の中にあり、春秋の万国は事が傳の中に具わる。読者は篇の終わりまで尋ねれば自ずと分かる。帙を開いた瞬間に目に一杯並べる必要はない。
  • 以後はおおむね范曄に倣い、魏收に至ってさらにひどくなった。魏の隣国を魏史に編むにあたり、人の姓名の上に領域を列し職官を添える。江東の帝王には「僭晉の司馬叡」「島夷の劉裕」と書き、河西の酋長には「私に涼州牧を置いた張寔」「私に涼王を署した李暠」と書く。いずれも篇中に具わっているのに巻首にも並べている。
  • 魏收の流儀でいくなら、両漢書・三國志を撰して盗賊傳と題する場合も「僭西楚霸王項羽」「偽寧朔王隗囂」と書き、陳勝・張歩・劉璋・袁術の位号も一つ残らず並べることになる。
  • 法令が細かくなることを古人は慎んだ。范曄・魏收の篇目の裁ち方は、まさにその甚だしいものである。大体を忘れてこの小手先を好むようでは、婉曲に文を成し一字に褒貶を寓する道を論ずるに足りない。