- 要旨: 本紀は帝王一人の事を編年で記す体であり、諸侯や人臣を紀に入れたり、編年を捨てたり、臣下の事まで書き込んだりするのは体裁の取り違えである、という批判。
紀という体の由来
- 汲冢の竹書は「紀年」といい、呂氏春秋が「紀」の名を立てた。紀とは万物を綱紀するもので、篇目のうち最も大きなものである。
- 司馬遷が史記で天子の行事を本紀と名づけて以来、後世はこれを守って動かさない。時代が変わっても行われ続ける道である。
諸侯を本紀に入れる誤り
- 天子を本紀、諸侯を世家とした区分自体は正しい。しかし区域は定めたのに境界を分けなかったので、後の学者にその趣旨が伝わらなくなった。
- 周は后稷から西伯まで、秦は伯翳から莊王まで、爵位は諸侯なのに本紀に入っている。西伯・莊王以前は別に周世家・秦世家を立て、殷紂を武王に対させ、秦繆公を周赧王に承けさせれば、帝王の継承が明瞭になったはずである。
- 記事が簡略で一篇に足りないというなら、伯翳から莊王までを先に一巻にまとめておきながら世家と同列にせず本紀に編み込むのは、なおさら不可解である。
- 項羽は僭称の盗であって君主として終わっていない。古に求めれば齊の無知、衛の州吁の類である。名を隠して「王」と呼べるはずがない。春秋は吳・楚の僭称を列国並みに書いた。まして項羽は「西楚」と称し、号は霸王にとどまる。霸王とは当時の諸侯であり、諸侯を本紀と称するのは名実ともに何重にも誤っている。
編年を捨てた紀は紀ではない
- 紀の体は春秋の経に当たり、日月を繋いで歳時を成し、君上を書いて国統を示すものである。
- 曹操は人臣とはいえ実質は王者だった。帝位に登らず建元もしなかったので、陳寿は漢の年号を借りて魏紀を編んだ。両漢書が巻頭に秦・王莽の正朔を列するのと同じ扱いである。後の書き手はこれに準拠すべきである。
- ところが陸機の晉書は三祖の紀を立てながら、事を並べるだけで編年をしていない。年を編まないのなら紀とはいえない。
- 位が人臣で終わった者は、後から大号を追贈されても傳に入れるべきである。韋昭がその史に孫和の紀を立てなかったのは先例に適う。魏収が魏を叙するにあたって景穆を本紀に編み、虚号の謚を武帝・昭帝の間に挟んだのは、百世の後まで区別が付かなくなる仕儀である。
紀に臣下の事を書き込むな
- 紀は編年を主とし、天子一人について書くべき大事だけを年月の下に見せ、事の委曲は列傳に付す。これが本義である。
- 近代の魏收(後魏書)・李百藥(北齊書)は、諸帝の篇に臣下のことを雑ぜたり他の事まで書いたりして、大小すべてを載せてしまった。まったくの傳の体であって紀の文ではない。迷ったまま悟らないのは甚だしい。読者はこの点をよく見てほしい。