- 要旨: 明の萬曆年間に張鼎思が陸深(儼山)の刻本を校訂した経緯と、劉知幾(子玄)の史通に対する評価を述べた序。
校訂に至る経緯
- 唐の長安・景龍年間、劉子玄は東觀で諸史を商榷し、史通二十巻を著した。ただし伝刻は広まらなかった。
- 張鼎思の家には抄本があったが、完全なものは十のうち一、二にすぎない。そこで任地に赴くたびに購い求め、さらに二、三の抄本を得た。いずれも誤りを含むが、突き合わせれば読める程度にはなった。
- 江西の按察使を務めていたとき、同僚と語る中で史方伯(莆田の吳公)から「ここに太史陸儼山が藩を守っていた時に刻した史通がある。校訂してはどうか」と勧められた。
- 儼山先生は才学ともに優れ、この刻本に心を尽くしたが、別本を得られず対校できなかったことを悔い、後人に望みを託していた。そこで自らの箱中の本を出して校勘した。
校訂の方針と結果
- 篇章は、合わせるべきものは合わせ、分かつべきものは分かった。書名は、削るべきは削り、補うべきは補い、定めるべきは定めた。
- 曲筆篇は四百三十余字を増補し、鑒識篇は三百余字を増補したうえで、他篇から紛れ込んでいた六十余字を除いた。
- 因習篇の上巻はすでに失われている。刻本の中に削るべき数行があったが、慎重を期してあえて削らなかった。
- ほかに拠るべき資料の無いものは、そのまま旧に従った。
劉子玄への評価
- 史官の職の難しさは久しい。左史以来、作者は肩を並べるほど多く、みな自負しているが、子玄は容赦なく批判し、完璧と認めたのは王君懋(王劭)ただ一人であった。柳子厚(柳宗元)が史官の職に就かなかったのも、理由の無いことではない。
- とはいえ子玄自身は史筆を執りながら一家を成さず、美業を光り輝かせたとは聞かない。史を論じては、冡書(汲冢書)を信じて墳典を疑い、堯舜を譏り、湯・文王をそしり、周公・孔子を非難して憚らなかった。
- そのため宋子京(宋祁)には工拙の譏りがあり、柳炤には析微の論がある。刻本が広まらなかったのもおおむねこのためである。
- しかし体裁を序し、典要を明らかにして史を作る者の準縄となる点で、この書は欠かせない。上は唐虞から下は陳・隋に及び、千年を網羅し百家を貫いている。「前に古人無し」と言ってよい。徐堅が座右に置くべきだと許したのもこのためである。
- 蕭至忠に上った書には、積薪の嘆き(後から来た者が上に置かれること)と蚕室の苦しみを述べ、「白首には期があるが汗青には日が無い」と嘆いている。その志は諒とすべきで、深く悲しむ。この編に三度も意を致すゆえんである。
- 萬曆壬寅(1602年)冬十月、後學の長洲・張鼎思 撰。