新唐書卷二百二十五上 列傳第一百五十上 史思明
史思明、寧夷州突厥種。安祿山と同郷の盟友で共に張守珪に仕えた。安史の乱では河北平定を担い、安慶緒の弑逆後は一時朝廷に帰順したが再び反乱、大燕皇帝を自称して洛陽を再陥落させた。乾元2年(759年)に慶緒を討って実権を握ったが、まもなく実子の史朝義に殺された。
安禄山との盟友関係
- 史思明、寧夷州突厥種。安禄山と同郷で生まれも一日違いという間柄。若くして奇策で奚の部将瑣高を捕らえるなど功を挙げ、共に張守珪に仕えた。天宝初年、玄宗に謁見し「四十にして貴きは晩し」と評された。
河北での転戦
- 祿山反乱後、河北平定を担当。常山の顔杲卿を破り、饒陽・河間などを攻めるが李光弼・郭子儀に度々敗れる。しかし平盧の劉正臣を破って勢力を拡大し、常山を再陥落させた。至徳2載、蔡希德・高秀巖と共に太原を攻めるが李光弼に阻まれた。
慶緒からの離反と帰順
- 安慶緒の弑逆後、慶緒に距離を置き、朝廷への帰順を進言する判官耿仁智の言を容れ帰順。范陽長史・河北節度使に任じられたが、内実は反乱の準備を続けていた。
- 承恩(烏承恩)による離間工作が露見し、思明はこれを誅殺。慶緒討伐の詔にも応じず、逆に魏州を攻略した。
大燕皇帝としての僭称
- 乾元2年(759年)正月、大聖周王を僭称し、慶緒を殺してその軍を併合。4月、国号を大燕、自ら応天皇帝と称した。洛陽を再度陥落させ、河陽の李光弼を攻めるが落とせず、上元2年(761年)、北邙で光弼を破り勢いを増した。
朝義による弑逆
- 陝州攻略に失敗した子の朝義を誅殺しようとしたところ、朝義配下の駱悦らが先手を打ち思明を殺害(「殺すのが早すぎた、長安に至れなかった」と最期に語ったと伝わる)。朝義が即位し顕聖と改元した。
朝義の敗走と滅亡
- 朝義配下の内紛(弟朝清との対立)を経て勢力は弱体化。代宗の詔により雍王を総帥とする討伐軍(仆固懐恩・回紇軍を含む)が編成され、横水の戦いで大敗。莫州で仆固玚に包囲され、田承嗣の裏切りにより退路を断たれた朝義は幽州で受け入れを拒否され、医巫閭祠で縊死した。史思明父子の僭号は4年で滅んだ。
史論(贊)
贊曰:祿山・思明は夷狄の卑賎な出自から天子の恩幸を借りて天下を乱した。臣として君に反した者が、その子にまた弑されたのは事の巡り合わせであり天道の当然である。しかし生民の厄運は必ず人の手を借りて成るものゆえ、この二賊は急に興り急に滅んだ。張謂は劉裕を「近くは曹操・司馬懿に倣い、遠くは桓公・文公の道を棄てた、禍は二代に及んだが福は三年に満たず、八代続いた子孫のうち六君は寿を全うしなかった、天の報いは明らかである」と譏った。杜牧は「隋文帝を帝の相ありと占った者は、後に楊氏が簒奪したことでその予言が当たったとされるが、周末に楊氏一族が柱国・公侯として久しく続いたのだから、一朝にして偷んで帝位を得れば二三十年ともたずに壮者も老いも幼児も皆非業の死を遂げると言うべきであった。それでこそ真に人相を知る者と言える」と論じた。張謂・杜牧の確論は今なお多く称えられる。祿山・思明のような者も、劉裕・楊堅に及ばんとして及ばなかった例として、ここにその論を著す。