新唐書卷二百二十五中 列傳第一百五十中 朱泚

盧龍節度使から入朝

  • 朱泚、幽州昌平の人。父は安史二賊に仕えた懐珪。李懐仙の部将から朱希彩の死後に盧龍節度留後として推戴され、節度使に昇進。入朝して信任を得るが、弟の朱滔に実権を奪われ、京師に留まることとなった。

涇原の変と皇帝僭称

  • 建中4年(783年)、李希烈討伐に向かう涇原軍が待遇への不満から反乱(涇原の変)。徳宗は奉天へ逃れ、反乱軍は幽閉されていた朱泚を推戴した。泚は「大秦」を国号として皇帝を僭称、応天と改元した。段秀実の抵抗(顔を殴打する義挙)などがあったが鎮圧された。

奉天攻囲

  • 朱泚軍は奉天城を包囲し、雲梁(雲梯)などの攻城兵器で猛攻したが、渾瑊らの防衛と穴埋め焼き討ちの奇策で撃退された。李懐光の援軍により36日間の包囲は解かれた。

長安での統治と李懐光との結託

  • 泚は「漢」への改号(本封が遂寧のため)を試みるなど政権の体裁を整えようとしたが、糧食不足や民の負担増大で統治は行き詰まった。李懐光との連和を図り、懐光の反乱を誘発したが、最終的に李晟らの攻勢で長安を追われた。

敗走と最期

  • 姚令言・張廷芝らと西走するが、涇州長武城で田希鑒に拒絶され、彭原西城で腹心の裏切りにより殺害された(享年43)。関係者の源休・彭偃・姚令言らも次々処刑された。

田希鑒の末路

  • 李晟は田希鑒の逆心を疑い、宴席を装って諸将の名乗りをさせる中で希鑒を処断し、縊死させた(李観が後任の節度使となった)。