新唐書卷二百二十四上 列傳第一百四十九上 仆固懷恩

仆固懷恩、鉄勒部の人。安史の乱で朔方節度使郭子儀に従い各地を転戦し、史朝義討伐を主導して河北を平定した功臣。のち朝廷との軋轢から吐蕃・回紇と結んで反乱を起こしたが、遠征の途上で病没した。一族のうち46人が王事に殉じたと伝わる。

年表(4件)
  • 貞観20年646年鉄勒九姓の内附時に金微都督となった仆骨氏の家系に生まれる
  • 寶応元年762年回紇の登裏可汗と結んで史朝義討伐に従軍し、東都・河陽を収復した
  • 永泰元年765年吐蕃・回紇・党項ら20万を糾合して唐へ侵攻する途上、病没した
  • 大暦4年769年幼女が崇徽公主として回紇に嫁いだ

出自と安史の乱での戦功

  • 仆固懷恩、鉄勒部の人。貞観20年(646年)、鉄勒九姓の内附時に金微都督となった仆骨氏の家系。安禄山の乱で朔方節度使郭子儀に従い各地で戦功を挙げ、子の玢が敗れて降った際には自ら斬って軍を励ますなど厳格さを示した。回紇への使者としても活躍した。
  • 潼関失陥後の戦いや香積寺の戦いで回紇軍を率いて活躍し、両京回復の功により開府儀同三司・鴻臚卿、豐国公に封じられた。以後も朔方行営節度使として各地を転戦した。

史朝義討伐と河北平定

  • 剛毅で上に逆らうことも辞さない性格で、麾下は蕃漢の精鋭。子の玚も勇猛で知られた。寶応元年(762年)、娘婿の登裏可汗(回紇)と結んで史朝義討伐に従軍し、雍王(後の徳宗)の副将として西原・石榴園などの各戦で大勝、東都・河陽を収復した。
  • 玚を伴い衛州・鄭州・貝州と転戦し、朝義を幽州、さらに平州へ追い詰め自経させ、河北を平定した。功により尚書左僕射兼中書令・河北副元帥に叙せられた。

河北諸将の懐柔と辛雲京との対立

  • 河北平定後、薛嵩・張忠誌・李懐仙・田承嗣ら旧賊将を懐柔し河北諸鎮の分割授与を朝廷に求めるなど、独自の勢力扶植を図った。回紇を護送する道中、太原の辛雲京が閉門し接遇を拒んだことに憤り、監軍駱奉先との間でも疑心暗鬼が生じ、双方の讒言合戦となった。

陳情と反乱への道

  • 太保に進み、自らの功績を訴える上疏を行い、6つの「不忠の罪」(実際には忠義の証)を挙げて弁明した。宰相裴遵慶の説得に一時従おうとしたが、副将範誌誠の諫言や監軍の疑惑継続により入朝を断念。
  • 子の玚が辛雲京を攻めたことで事態は決定的となり、顏真卿の進言により郭子儀が懐恩に代わって軍を掌握することとなった。子玚は部下に殺され、懐恩は母の叱責(「国のためにこの賊を殺し、その心を軍に示す」)を受けながらも吐蕃と結んで反乱を続けた。

吐蕃・回紇との連合と最期

  • 永泰元年(765年)、吐蕃・回紇・党項ら20万を糾合して唐を侵したが、途上で病を得て靈武で死去。部曲がその屍を焼いて葬った。回紇はその後子儀に降り、吐蕃討伐に転じた。
  • 一族のうち王事に殉じた者は46人に及んだといい、帝も「懐恩は反したのではなく側近に誤られただけだ」と惜しんだ。大暦4年(769年)、懐恩の幼女は崇徽公主として回紇に嫁いだ。