台頭の経緯
- 李林甫、長平粛王叔良の曾孫。舅の姜皎に愛され、源乾曜の縁戚関係を経て諭徳・国子司業と昇進。武恵妃の寵愛を得て壽王擁立を策し、裴光庭の未亡人や高力士との繋がりを通じて宰相に登用された。
張九齢との対立と専権
- 皇太子廃立問題で張九齢の諫言に不快感を示した林甫は、九齢を陥れる機会を窺い、牛仙客への実封付与をめぐる論争で二枚舌を用いて九齢を失脚させ、専権を確立した。太子妃の兄韋堅を陥れる獄事や、裴敦復・李邕らの粛清にも関与した。
- 忠王(後の粛宗)を太子とする決定に不満を持ち、王忠嗣を誣告するなど太子の廃立を繰り返し画策したが果たせなかった。玄宗の信任を得て君主の奢侈を助長し、政務への干渉を強めた。
蕃将登用と辺境政策
- 儒臣が辺功で入相する慣例を断つため蕃将の登用を進言し、安禄山・高仙芝・哥舒翰らを大将に据えた。これが後の安史の乱の遠因となった。士人試問を骨抜きにする策や、咸寧太守趙奉璋の告発を封じるなど、批判を封殺した。
- 奢侈な生活(薛王の別墅の下賜、多数の侍姫)を極める一方、暗殺を恐れて厳重な警護を敷いた。楊国忠との対立が深まる中、病を得て死去、太尉・揚州大都督を追贈された。
死後の断罪
- 死後、楊国忠の讒言により謀反の証拠が捏造され、官爵を剥奪、庶人の礼で改葬された。諸子は嶺南・黔中に流された。粛宗の代に至って肖像も撤去され、後に発掘・破壊された。