新唐書卷二百二十三下 列傳第一百四十八下 盧杞

醜貌と出世

  • 盧杞、字は子良。父の弈は『忠義伝』に見える。杞は弁舌に長けたが容貌は醜く肌は青白かった。仕官は清道率府兵曹参軍から始まり、忠州刺史・虢州刺史を経て官豚の処理をめぐる進言で徳宗の信任を得た。御史中丞・大夫を経てわずか10日で門下侍郎・同中書門下平章事に抜擢された。

専権と粛清

  • 賢者を妬み、逆らう者を陥れる性格で、共に輔政した楊炎を失脚させ死に追い込み、大理卿嚴郢も同様に排斥した。張鎰・幽州朱滔の対立を利用し軍司馬蔡廷玉を死に至らしめた事件、鄭詹の獄事に絡む謀略、杜佑・顏真卿・李揆・李洧らへの妨害など、多くの人物を陥れた。天下は彼の悪行に憤ったが、皇帝の寵愛ゆえに誰も声を上げられなかった。

財政失政と間架税・除陌銭

  • 財政逼迫の中、戸部侍郎趙賛の建言により商人から強制的に借り上げる政策を実施。取り立ては過酷で自殺者が続出したが得られた額はわずかで、京師の商業は麻痺した。続く間架税(家屋税)・除陌銭(取引税)の苛政も民の怨嗟を招き、涇原の兵変(涇師の乱)の際「商人からの借上げ、間架・除陌の税」への怒りが叫ばれるほどであった。

奉天籠城と失脚

  • 帝の奉天出奔に随行し、崔寧を反逆と誣告して殺害させた。杜希全の救援路をめぐる進言が渾瑊の正しい策と対立し、帝が杞の誤った策を採用したため援軍が阻まれた。
  • 河北から帰還した李懐光の入朝を妨害する策を進言し、これが懐光の反乱を招く一因となった。世論の非難が集中し、新州司馬に左遷された。

晩年の復用問題

  • 興元の赦令後も皇帝の寵愛は衰えず、饒州刺史への復官が図られたが、給事中袁高が詔書の起草を拒否し、諫臣趙需・裴佶らの反対もあり、澧州別駕にとどめられた。後に李泌の進言で復用は完全に阻止され、杞は澧州で死去した。
  • 郭子儀が病床でも杞との対面時のみ侍女を退けたという逸話が伝わり、その陰険さを恐れられた人物であったことを示している。