新唐書卷二百二十二下 列傳第一百四十七下 南蠻下

環王(林邑)

  • 環王はもと林邑国、占不勞・占婆とも称する。交州の南、海路3000里。東西300里余、南北1000里。西は真臘の霧温山、南は奔浪陀州に接する。南の大浦には5本の銅柱があり、後漢の馬援が建てたという。援の従者の子孫「馬留人」が林邑と唐の南境を分けて住んだ。
  • 気候温暖多雨、虎魄・猩猩獣・結遼鳥を産する。2月を歳首とし稲は年2回実る。悍勇で戦を好み、身に麝香を塗り、文字を持ち仏道を信仰し金銀の大仏像を鋳造する。王を陽蒲逋、王妃を陀陽阿熊、太子を阿長逋、宰相を婆漫地と呼ぶ。王衣は白氎、金の纓を飾り章甫冠を戴く。象・馬を用いた戦兵5000を擁し、刑罰は象で踏み殺すか不勞山へ流して自然死させる。
  • 隋の仁寿年間、将軍劉芳の討伐で王範梵誌は逃走、隋は3郡を置いたが道が絶え通じず、梵誌は別に国を建てた。武徳中、方物を献じ高祖は九部楽で饗した。貞観中、王頭黎が馴象・鑞鎖等を献上、太宗は林邑の不遜な言辞に対しても苻堅・隋の高麗遠征の教訓を引いて出兵を控えた。
  • 頭黎の死後、子の鎮龍が継ぎ通天犀等を献上。貞観19年(645年)、摩訶慢多伽独が鎮龍を弑して宗を滅ぼし範氏は絶えた。国人は頭黎の婿婆羅門を王に立てたが大臣に廃され、頭黎の女が王となる。真臘に逃れていた諸葛地(頭黎の姑の子)が迎えられて王となり女を妻とした。永徽から天宝まで3度入貢。至徳以後は「環王」と改称。元和初年、朝貢が絶えると安南都護張舟がその偽の愛州都統を討ち3万級を斬り、王子59人を虜にし戦象・舠・鎧を得た。

婆利

  • 環王の東南、交州から海路で赤土・丹丹等を経て至る大洲。馬が多く馬礼とも号す。長さ数千里。大粒の火珠を産し、日中に艾を珠に置くと火が出る。玳瑁・文螺・堅い石坩を産する。人語を解する舎利鳥がいる。俗は黒身朱髪で古貝布を身にまとう。王は姓を剎利邪伽、名を護路那婆といい世襲。金榻に座し孔雀翣を用い、象車で出行する。

羅剎

  • 婆利の東に位置し同様の風俗。隋の煬帝が常駿を赤土に使わせた際に中国と通じた。

婆羅

  • 赤土の西南、海を入って至る。総章2年、王旃達缽の使者が環王の使者と共に朝貢した。

殊柰

  • 環王の南、交趾海を3ヶ月航行して至る。貞観2年入貢、9年に甘棠の使者、12年には僧高・武令・迦乍・鳩密の4国使者が朝貢。後に鳩密王屍利鳩摩・富那王屍利提婆跋摩らも使者を送った。僧高等の国は永徽後に真臘に併合された。

盤盤

  • 南海の湾曲部、北に環王、狼牙脩と接する。交州から海路40日。王は楊粟翨。仏・道の祠があり、貞観中に2度朝貢した。

哥羅

  • 個羅・哥羅富沙羅とも。王姓矢利波羅、名米失缽羅。石造の城、州24を有する。戦は象100を1隊とし、賦は銀2銖。死者は焼いて骨灰を金罌に納め海に沈める。

拘蔞蜜

  • 海路1ヶ月で至る。永徽中、5色の鸚鵡を献じた。

扶南

  • 日南の南7000里。王姓は古龍。田は1年で植え3年で収穫する。剛金(紫石英状の鉱物)を産する。武徳・貞観中に2度入朝し白頭人2人を献じた。後に真臘に併合された。

白頭

  • 扶南の西。人は皆頭髪が白く肌は脂のよう。山穴に住み参半国と接する。

真臘

  • 吉蔑とも。もと扶南の属国。京師から2万700里。王は姓剎利伊金那、貞観初に扶南を併合。戦象5000を有する。武徳から聖歴まで4度朝貢。神龍後、北の陸真臘(文単・婆鏤とも)と南の水真臘に分裂。開元・天宝時、王子26人が来朝。大歴中、副王婆彌が馴象11頭を献じ「賓漢」の名を賜った。徳宗即位時、献上された珍獣は荊山に放たれた。元和中、水真臘も入貢。

参半

  • 文単の西北の属国。武徳8年に使者が来た。

道明

  • 真臘の属国。衣服を着けず、鉄器を持たず竹弩で狩猟する。

訶陵

  • 社婆・阇婆とも。南海中に位置し国は最も富む。木城、象牙の床、湧き出す塩の穴がある。文字と星暦を知る。貞観中に入貢し馬を求めた。上元間、女子「悉莫」が王となり厳正な統治を行い、大食が金を試したが3年触れられず、太子が誤って踏んだ際も足を斬らせるなど厳しさを示し、大食は畏れて兵を出さなかった。大歴中3度、元和8年にも僧只奴・鸚鵡等を献じた。咸通中には女楽を献じた。

墮和羅

  • 独和羅とも。犀を多く産する(墮和羅犀と呼ばれる)。曇陵・陀洹の2属国を持つ。

曇陵

  • 海洲中にある。

陀洹

  • 耨陀洹とも。環王の西南海中。交州から90日で至る。王姓察失利、名婆那、字婆末。楼居を「幹欄」と呼ぶ。貞観時2度入朝し婆律膏・白鸚鵡を献じた。

墮婆登

  • 環王の南、行程2ヶ月。俗は訶陵に似る。文字を持ち貝多葉に書す。死者の口に金を含ませ香を焚いて葬る。

投和

  • 真臘の南。王姓投和羅、名脯邪迄遙。官制は朝請将軍・功曹等が国事を分掌。銀を榆莢状の貨幣とする。貞観中、黄金函に表を納めて献上した。

瞻博

  • 瞻婆とも。顕慶中、婆岸・千支弗・舍跋若・磨臘の4国とともに朝貢。

千支

  • 西南海中、もと南天竺の属国。半支跋とも呼ばれる。

哥羅舍分・脩羅分・甘畢

  • 3国とも方物を貢いだ。甘畢の王名は旃陀越摩、兵5000。哥羅舍分・脩羅分は各兵2万を有した。

多摩萇

  • 東西1ヶ月・南北25日の広さ。王の名は骨利。兵2万、馬なし。顕慶中に貢物を献じた。

室利佛逝

  • 屍利佛誓とも。城14を有し2国で統治。王の号は「曷蜜多」。咸亨から開元にかけて数度朝貢し、後に子を献じ賓義王に冊封された。

名蔑

  • 12月を歳首とし、王号は「斯多題」。龍朔初年に朝貢した。

単単

  • 王姓剎利、名屍陵伽。乾封・総章時に方物を献じた。

羅越

  • 商賈往来の集散地。俗は墮羅缽底に似る。年ごとに船で広州に至った。

  • 古の朱波。永昌の南2000里、京師から1万4000里。属国18、鎮城9、部落298(うち名を伝えるもの32)を有する大国。王姓困沒長、名摩羅惹。青甓の円城で周百六十里、十二門を持つ。仏法を篤く信じ寺百を有し、七歳で出家させる風習を持つ。金銀の半月形貨幣「登伽佗」を用いる。南詔に軍事的に制圧されていた。
  • 歸唐:貞元中、王雍羌が南詔の帰唐を聞いて内附を望み、南詔王異牟尋の使者と共に楽人を献じた。西川節度使韋臯が『南詔奉聖樂』を作曲し、宮廷儀礼として整備された。
  • 舞・樂:奉聖楽は舞人16人・工人196人からなる四部楽(龜茲部・大鼓部・胡部・軍樂部)で構成され、「南詔奉聖楽」の5字を舞で象り、五均(黄鐘・太蔟・姑洗・林鐘・南呂)にわたる複雑な楽制が定められた。
  • :雍羌の弟悉利移城主舒難陀が驃国の楽器を献じ、韋臯がその音律を整理した。鳳首箜篌・龍首琵琶・雲頭琵琶・大匏琴・両頭笛・大匏笙など22種の楽器が記録された。
  • :曲名は12あり、《佛印》《贊娑羅花》《白鴿》《白鶴遊》《鬥羊勝》《龍首獨琴》《禪定》《革蔗王》《孔雀王》《野鵝》《宴樂》《滌煩》と伝わる。徳宗は舒難陀に太仆卿を授けて帰した。大和6年(832年)、南詔がその民3000人を掠め柘東に移した。

兩爨蠻

  • 西爨(白蛮系、雲南本安邑人の子孫)と東爨(烏蛮系)に分かれる。爨瓚の代に延袤2000余里を治めたが隋代に叛き討伐された。唐初、爨弘達が昆州刺史となり内附。太宗が西爨を攻め青蛉・弄棟に県を置いた。
  • 永徽初、大勃弄の楊承顛が反乱を起こし、趙孝祖らが討伐して西南夷を平定した。爨弘達没後は爨帰王が南寧州都督となったが、両爨の大鬼主崇道兄弟の反乱が起き、玄宗は蒙帰義(南詔)に討伐させた。歸王の妻阿乇が復讐を求めて争いが続き、諸爨は乱れて弱体化した。

閣羅鳳

  • 閣羅鳳の代、西爨の20余万戸が永昌城へ強制移住させられ、東爨は山谷に逃れて残った。烏蛮の勢力が西爨の故地に興り、貞元中に都督府が置かれ羈縻州18を管轄した。

烏蠻

  • 南詔と代々婚姻関係にあり、7部落(阿芋路・阿猛・夔山・暴蛮・盧鹿蛮・磨彌斂・勿鄧)に分かれる。巫鬼を尊び言語は4回の通訳を要する。
  • 勿鄧・豐琶・両林は「東蛮」と総称され天宝中に封爵を受けた。貞元中、大鬼主苴那時・苴夢沖・驃傍が吐蕃と戦い戦功を挙げ、それぞれ順政郡王・懐化郡王・和義郡王に封じられた。吐蕃将乞蔵遮遮の戦死をめぐる敵の弔いの逸話も伝わる。後に苴夢沖の内附背反が発覚し韋臯に誅殺され、部族は六部に分割された。

昆明蠻

  • 昆彌とも。西洱河(葉榆河)を境とする。武徳中に朝貢が始まり、龍朔・咸亨年間に順次内附し祿州・湯望州や殷州・扌忽州・敦州が置かれた。
  • 東900里に牂柯国があり、開成元年に鬼主阿珮が内属、後に別帥が羅殿王・滇王に封じられた。開元中、酋長趙氏の系譜が続き、天宝中の趙国珍は南詔の閣羅鳳の叛乱時に功績を挙げ黔中都督となった。

東謝蠻

  • 黔州の西300里。畬田耕作、刻木の契約、銅鼓による賞与など独自の風俗を持つ。貞観3年、酋長元深が入朝し、その異様な冠服が『王会図』に描かれる契機となった。以後応州・莊州が置かれた。元和中、辰・漵蛮の張伯靖の乱があったが宰相李吉甫の献策で戦わず招撫された。

西趙蠻

  • 東謝の南。趙氏が世襲の酋長。貞観中に酋摩が内附し明州が置かれた。

松外蠻

  • 数十から百の部落があり趙・楊・李・董が貴族。稲・麦等を産し布・舟を用いるが車はない。喪礼・婚姻・盗賊への処罰など独自の慣習を持つ。貞観中、太宗は梁建方に討伐させ、酋帥雙舍を破り70余部・戸10万9千を降した。

西洱河蠻

  • 河蛮とも。梁建方の討伐で首領楊盛が降伏。顕慶元年、諸首領が来朝。後に吐蕃の勢力下に入り、南詔の攻略で浪穹詔・雲南柘城へと移された。

黎州

  • 羈縻奉上等州26(後に31を追加)を統轄。廓清道の部落主・婆塩鬼主のほか阿逼蛮14部落があった。

三王部落

  • 楊・劉・郝の3姓が世襲する「三王」部落。節度府から帛3000匹を受けて南詔を偵察する一方、南詔からも賄賂を受けて成都の情報を漏らした。

諸蠻

  • 雅州西の吐蕃道沿いに46部落が点在し、羈縻州として首領が刺史を世襲した。

六姓蠻

  • 巂州新安城傍の蒙・夷・訛・狼の4蛮と勿鄧・白蛮。戎州管内では董嘉慶が馴・騁・浪三州の大鬼主として代々内附し歸義郡王に封じられた。

部落

  • 劍山周辺の彌羌・鑠羌・胡叢等の部落は招討使が統括、また夷望・鼓路等12鬼主が巂州に隷属した。永徽3年、顯養・東魯の諸蛮が叛き、曹継叔が討伐して十余城を抜き首700を斬った。

永昌蠻

  • 姚州境の永昌蛮は咸亨5年に叛き梁積壽が平定。武后時代に董期が2万戸を率いて内属。西の撲子蛮・望蛮は竹弓・毒矢を用いる俗を持つ。

群蠻

  • 黒歯・金歯・銀歯(歯を漆や金銀で飾る)、繡脚・繡面・雕題(体に刺青)、穿鼻(金環を鼻に通す)など多様な種族が記録される。

生蠻林睹符部落

  • 安南の林睹符部落は大歴中に徳化州、龍武州が置かれた。貞元7年、峰・都督府が設置され蜀の爨蛮と接した。

南平獠

  • 智州の東、渝州の南に位置し高床住居「幹欄」を用いる。王姓は朱氏、「剣荔王」と号す。貞観3年に内款し渝州に属した。飛頭獠・烏武獠など特異な風俗を持つ種族も記録される。
  • 首領寧氏は陳末以来の南平渠帥。寧猛力・長真と続き、隋末は蕭銑に、唐初は高祖に帰順して欽州都督となった。馮暄・談殿の乱は太宗の懐柔策により鎮定された。

諸獠の反乱

  • 武徳・貞観年間、劍南諸獠の反乱が相次いだ(巴州王多馨、眉州・洪雅・益州の獠、東西玉洞、巫州、鈞州、明州、巴洋集壁四州、羅竇諸獠、雅邛眉三州)。太宗は「獠は険阻に依るゆえ恩信で懐柔すべし」との方針を示した。
  • 高宗初年の琰州獠の乱、上元末の納州獠の乱、大暦の桂州山獠の乱などが続き、貞元中には西川節度使韋臯の懐柔策で葛獠・婆籠川の生蛮の反乱も鎮まった。大中末の昌・瀘二州の葛獠の乱は刺史の不正取引が原因で起こり、劉成師・柳仲郢が鎮定した。
  • 成都西北の附国、三濮(文面濮・赤口濮・黒僰濮)などの記録も併せ伝わる。

西原蠻

  • 広・容の南、邕・桂の西に居住。寧氏・黄氏(黄橙洞)が代々の豪族で、天宝初に黄氏が韋氏・周氏・儂氏と対立し勢力を広げた。
  • 至徳初、黄乾曜・真崇郁らが叛き武承斐らを推戴し20万の勢力で桂管18州を攻めたが、乾元初に朝廷の懐柔と討伐により鎮定された。以後も張侯・夏永らの乱、王国良の乱が続いた。
  • 貞元10年、黄少卿が邕管を攻め欽・横・潯・貴4州を陥落させたが、容管招討経略使陽旻が撃退。元和初、黄少卿は帰順するが再叛を繰り返した。
  • 元和11年、桂管観察使裴行立の強硬策は成果に乏しく邕・容両道は疲弊した。韓愈は「黄賊は洞獠であり城郭も持たず、威で臨むより招撫すべき」と建言したが採られなかった。
  • 大和中、経略使董昌齢の子董蘭が峒穴を討ち諸蛮を服させたが、その後儂洞が南詔と結んで最も強勢となり、懿宗の代に南詔との和議に伴い両者の関係修復が図られた。員州の儂氏内紛は辛讜の仲裁により収束した。

史論

贊曰:唐は北に頡利を捕らえ、西に高昌・焉耆を滅ぼし、東に高麗・百済を破り、夷狄を威圧する策謀の巧みさは史上稀であった。交州は漢代からの領土だが、その外の海に面した諸蛮の地には広い平地や堅固な城がなく守るに値しないため、中国の兵はほとんど出兵しなかった。唐が衰えるに及び、西原蛮・黄洞蛮が相次いで辺境の害となり、百余年に及んだ。そして唐の滅亡には南詔が関わった。『詩経』に「この中国を恵み、以て四方を安んず」とある。夷狄を諸夏より優先してはならないという教えである。