新唐書卷二百十六上 列傳第一百四十一 吐蕃上

建国伝説と風俗

  • 吐蕃はもと西羌の属で、150種ほどに分かれ河・湟・江・岷の間に散在していた。発羌・唐旄などがあったが中国とは通じなかった。析支水の西に居し、祖は鶻提勃悉野といい、健武で智謀に富み、諸羌を併せてその地を領した。「蕃」「発」の音が近いため子孫は「吐蕃」と号し、姓を勃窣野とした。あるいは南涼の禿発利鹿孤の後という説もあり、その子樊尼が沮渠蒙遜に臣従した後、蒙遜滅亡後に西へ移り群羌を撫有したという。
  • 風俗として、君長を「賛普」、その妻を「末蒙」と呼んだ。官制は大相(論茝)・副相(論茝扈莽)・都護(悉編掣逋)・内大相(曩論掣逋、別名論莽熱)・副相(曩論覓零逋)・小相(曩論充)・整事大相(喩寒波掣逋)・副整事(喩寒覓零逋)・小整事(喩寒波充)などがあり、総称して尚論掣逋突瞿といった。京師の西八千里、鄯善から五百里、精兵数十万を有した。気候は寒冷で雷・電・風・雹が多く、盛夏でも中国の春のようで山谷は常に凍っていた。
  • 賛普は跋布川や邏娑川に居し、テント式の大拂廬(数百人を収容)に住んだ。衣は氈韋を用い、顔を赭で塗るのを好みとした。器は屈木に韋底を張り、あるいは氈で盆を作った。官の位階は瑟瑟・金・金塗銀・銀・銅の順で、腕に飾りを付けて貴賤を分けた。作物は小麦・青稞麦・蕎麦・荳豆、獣は牦牛・名馬・犬・羊・彘、天鼠の皮は裘にし、単峰駝は一日千里を走った。宝は金・銀・錫・銅。死者は塚を築いて葬った。文字はなく、結縄・刻木で契約とした。刑罰は軽罪でも眼をえぐる、あるいは刖・劓に処し、皮鞭で打つなど恣意的であった。獄は地に数丈の穴を掘り、二三年閉じ込めた。
  • 鬼神を重んじ巫を右び、原羝(羊)を大神として祀った。仏法(浮屠法)を喜び、呪詛を習い、国政は必ず桑門(僧)に諮った。婦人は政に関与せず、壮者を貴び弱者を賤しんだ。戦死を重んじ、代々戦没した家を「甲門」と称える一方、敗北した臆病者は頭に狐の尾を垂らして辱め、人並みに扱わなかった。拝礼は手を地につけ犬のように吠える所作をした。父母の喪では断髪・墨面・喪服とし、埋葬後に吉に復した。挙兵の証は七寸の金箭。百里ごとに駅を置き、急変には駅人が胸に銀鶻を付け、緊急度に応じて数を増やした。四時は麦の熟す時を歳首とし、囲碁・六博で遊び、螺・鼓で楽を奏でた。君臣は五、六人で「共命」と称する契りを結び、君主が死ねば皆殉死し、乗馬・服玩も共に埋め、大屋を墓上に築き木々を植えて祠とした。賛普は臣下と歳ごとに羊・犬・猴を用いた小盟、三年ごとに人・馬・牛・驢を用いた大盟を行い、牲を裂いて「盟に背く者はこの牲のごとし」と誓わせた。

弄賛の興隆と唐への通交

  • その後の君長系譜は瘕悉董摩-佗土度-揭利失若-勃弄若-詎素若-論贊索-棄宗弄賛(別名棄蘇農、弗夜氏)と続いた。棄宗弄賛は慷慨才雄の性質で、野馬・犛牛を馳せ刺すのを楽しみとし、西域諸国はこぞって臣従した。
  • 太宗貞観八年(634年)、初めて使者を派遣して来朝、太宗は馮徳遐を遣わして書を下した。弄賛は突厥・吐谷渾がともに唐の公主を娶ったと聞き、幣を持たせて求婚したが許されなかった。使者が帰って「天子は我を厚遇し、公主をほぼ得られたが、吐谷渾王の入朝により許されなかった、これは吐谷渾が我らを離間したのだろう」と偽って報告したため、弄賛は怒り、羊同と共に吐谷渾を攻め、吐谷渾は青海の北に逃れその財畜を奪われた。さらに党項・白蘭羌を攻め破った。二十万の兵で松州に侵入し、公主を求めると称した。松州都督韓威は軽率に偵察に出て敗れ、属羌が乱れて叛いた。太宗は侯君集を行軍大総管とし、執失思力・牛進達・劉蘭ら五万の歩騎を進撃させ、牛進達は松州から夜襲して千級を斬った。
  • 弄賛は戦が長引くと大臣が帰国を請うほどで、自殺者も八人出た。ついに恐れて撤退し、使者を送って謝罪し、重ねて求婚したので許され、大論の薛祿東賛が黄金五千両などの聘礼を献じた。

文成公主降嫁とその後

  • 貞観十五年(641年)、宗女文成公主を嫁がせ、江夏王道宗が護送した。弄賛は柏海まで出迎え、道宗に婿の礼をとり、中国の服飾の美しさに恥じ入った。帰国後、公主のために一城を築いて誇示し、宮室を建てて居住させた。公主が国人の赭面を嫌ったため、弄賛はこれを禁じ、自らも氈罽を脱いで紈綃を身につけ華風を慕った。豪族の子弟を唐の国学に送り、『詩』『書』を学ばせ、儒者を招いて書疏を扱わせた。
  • 太宗の高麗遠征凱旋に際し、祿東賛は黄金の鵝(高さ七尺、酒三斛を入れる)を献じた。貞観二十二年(648年)、王玄策が中天竺で襲われた際、弄賛は精兵を出して討ち破り、俘虜を献じた。
  • 高宗即位後、弄賛は駙馬都尉・西海郡王に進み、長孫無忌に忠誠を誓う書を送り、昭陵に金琲十五種を薦めた。賨王に進封され、蚕種・酒人・碾磑の工人を求め許された。永徽初年(650年頃)に死去、子がなく孫を立てたが幼少のため祿東賛が国政を代行した。
  • 顯慶三年(658年)、金盎・金頗羅などを献じ再び求婚した。祿東賛は吐谷渾内附に怨忿し攻撃、吐谷渾大臣素和貴が吐蕃に降って虚実を漏らしたため吐蕃が吐谷渾を破った。慕容諾曷缽と弘化公主は涼州へ逃れ、鄭仁泰・蘇定方らが乱を鎮めた。祿東賛は死去した。祿東賛は文字を知らなかったが明毅な性格で用兵に節度があり、瑯邪公主外孫を妻とした。子に欽陵・贊婆・悉多於・勃論があり、以後兄弟が国政を担い、諸羌の羈縻十二州を破り併せた。

総章~上元年間の攻防

  • 総章年間、吐谷渾部を涼州の南山に徙そうとする議があったが結着せず。咸亨元年(670年)、吐蕃は羈縻十八州を陥れ安西四鎮を廃させた。薛仁貴を邏娑道行軍大総管とし十余万で討たせたが、大非川で欽陵に敗れ、吐谷渾はついに滅んだ。
  • 大臣仲琮が入朝し、高宗の問いに「賛普は祖に及ばないが勤めて国を治め下に欺かれない」と答えた。上元二年(675年)、吐蕃は和議を求めたが許されず、翌年、鄯・廓・河・芳四州を攻め吏卒・馬牛を多数奪った。周王顕・相王輪を元帥に任じたが出征せず、吐蕃は疊州を破り、扶州でも守将を破った。劉仁軌を洮河鎮守使としたが功なく、李敬玄が代わったが青海の戦いで劉審禮が戦死、黒歯常之の夜襲でようやく虜を退けた。

儀鳳~永隆年間

  • 儀鳳四年(679年)、賛普が死に子の器弩悉弄が立ち欽陵が擅政、贊婆・素和貴が河源を攻めたが黒歯常之が撃退、常之は河源軍経略大使となり屯田を開いた。永隆元年(680年)、文成公主が薨去。以後贊婆の攻撃も常之が撃退した。

武后期の攻防と和議交渉

  • 武后期、韋待価・岑長倩の遠征は失敗。大首領曷蘇の投降を受けたが吐蕃に奪回された。王孝傑が武威道行軍総管として大破し四鎮を回復、崔融が四鎮死守を建言し議は退けられた。
  • 証聖元年(695年)、欽陵・贊婆が濫洮を攻め、王孝傑が素羅汗山で虜を破った。吐蕃は使者を送り四鎮の兵を罷め十姓の地の分割を求めたが、郭元振が欽陵と会見し議は許されなかった。欽陵は久しく専政し諸弟が方面を分担、贊婆は東境をほぼ三十年守ったが、器弩悉弄が長じて欽陵らを除こうとし、欽陵は自殺、贊婆は唐に降り輔国大将軍・帰徳郡王を授けられた。
  • 賛普の死後、幼い棄隸蹜賛が立ち、姚州の乱(李知古殺害事件)を経て、玄宗開元年間に至る。

玄宗開元年間の攻防と和平

  • 開元二年(714年)、坌達延が臨洮を侵し、薛訥・王晙らが武階・長子で大勝、洮水が死体で塞がるほどであった。宰相の建言で河橋を毀し、以後小規模な侵入は続くも郭知運・王君㚟らが防いだ。金城公主が講和を求め、贊普も盟を望んだが実現せず。
  • 開元十年(722年)小勃律救援、十二~十四年に王君㚟が功をあげるも回紇に殺され、蕭嵩・張守珪が瓜州・玉門を守り抜いた。信安王禕が石堡城を抜き振武軍を置いた。
  • 忠王友皇甫惟明の建言で和議が成立し、金城公主を通じて名悉臘が入朝、崔琳が報聘した。赤嶺を境として交易し、碑を建てて約とした。『五経』を求められ写して賜った。

開元後期~天宝年間

  • 崔希逸が乞力徐と防備を解いたが孫誨の讒言で襲撃、以後吐蕃は朝せず。杜希望・王昱の攻防を経て、章仇兼瓊が安戎城を奪還し平戎と改称した。金城公主の薨去後、大規模な侵攻が繰り返された。
  • 天宝年間、皇甫惟明・哥舒翰が石堡城を攻略し神武軍と改称。楊国忠の欺瞞的な戦功報告の一方、哥舒翰は九曲故地を回復し神策軍などを設置。贊普乞黎蘇籠臘賛の死後、子の挲悉籠臘賛が継いだが、安禄山の乱により河隴の守りが空になった。

安史の乱後の侵攻

  • 至徳初年、吐蕃は巂州・威武等の城を取った。宝応元年(762年)、臨洮を陥れ秦・成・渭州を取り、隴右の地はことごとく失われた。広徳元年(763年)、涇州・邠州・奉天に侵入、高暉の手引きで長安に入り広武王承宏を擁立、僖宗改元・赦令発布まで行った。郭子儀が長安を奪還、吐蕃は十五日で退いた。

代宗期の攻防と和議

  • 吐蕃は鳳翔を囲むも馬璘が撃退。仆固懐恩の反乱に乗じて再侵し、郭晞が夜襲で撃退した。厳武が鹽川を抜き西山で大破した。永泰元年(765年)、宰相元載・杜鴻漸が虜使と盟したが、仆固懐恩は回紇・吐蕃・党項等を導いて侵入、京師は戒厳となった。渾日進らの奮戦、周智光の澄城での勝利を経て、仆固懐恩の死後、回紇と吐蕃が仲違いし、白元光が霊台西で吐蕃を大破、仆固名臣が降って代宗は班師した。