新唐書卷二百十五上 列傳第一百四十 突厥上

総論――夷狄への対処をめぐる諸論

  • 異民族は古来中国の患いであった。唐が興ってから四夷のうち中国と拮抗しえたのは突厥・吐蕃・回鶻・雲南の四つである。
  • 劉貺は、周・秦・漢の対異民族策を比較し、「周は上策(徳による懐柔と防備)、秦は中策(長城による隔絶)、漢は無策」と論じた。厳尤は古代に「上策なし」としたが、それは臣従させえないというより、できるのにしなかっただけだと批判し、班固の「礼譲をもって接する」論も、礼譲は君子に対するもので禽獣同然の夷狄には適さないとして退けた。
  • 杜佑は、秦が関中の小勢力から六国を滅ぼせたのは農戦一体の制度と鄭渠・白渠による灌漑の充実にあったとし、当時(唐代)はその半分以下に灌漑田が減少し国力が衰えたと指摘、吐蕃は貧弱な国であり灌漑を復興し屯田を興せば河隴の地は回復できると説いた。
  • その孫杜牧は、平時の油断・兵員の水増し(実数を欠く「不責実」)・過大な論功行賞・軽い処罰・将の専断権の欠如という「五つの敗因」を挙げ、元和年間の淮西討伐に四年を要したのもこれらの弊害のためだとした。
  • 広徳・建中年間、吐蕃はしばしば南詔を先鋒として蜀に侵入し、韋皋の懐柔策以後も蜀は苦しめられた。孫樵は厳道・沈黎・越巂三州に守備兵を常駐させ屯田で自活させる策を提言している。
  • 以下、突厥・吐蕃・回鶻を盛衰の順に、東夷・西域をそれに次いで記し、最後に南蛮を記して唐の滅亡の経緯を伝える。

突厥の起源と官制

  • 突厥阿史那氏は古の匈奴の北部にあたる。金山の南に居り蠕蠕(柔然)に臣従していたが、吐門(土門)の代に強大化し「可汗」を号した(単于に相当)。妻は「可敦」と呼ばれた。
  • 官制は設・特勒・葉護・屈律啜・阿波・俟利発・吐屯・俟斤・閻洪達・頡利発・達幹など二十八等があり、世襲で員数の定めはなかった。衛士は「附離」と呼ばれ、可汗の牙帳は都斤山に置かれ、金の狼頭の旗を掲げ、常に東を向いて座した。

始畢可汗――隋末唐初の突厥

  • 隋末の混乱期、始畢可汗咄吉が立つと中原の人々が多く帰属し、契丹・室韋・吐谷渾・高昌も服属、竇建德・薛挙・劉武周・梁師都・李軌・王世充らも臣従を誓うほどの強盛を誇った(控弦百万)。
  • 高祖(李淵)は太原挙兵時、劉文靜を使者として和を通じ、始畢は馬二千・兵五百を援助した。武徳元年(618年)、骨咄祿特勒の朝見が九部楽で迎えられるなど厚遇されたが、同年始畢は病死し、子の什鉢羅が幼いため弟の俟利弗設が処羅可汗として立った。

処羅可汗――対隋・対唐の外交

  • 処羅可汗は隋の義成公主を妻とし、隋の蕭皇后と斉王の子楊正道を迎えて隋王に擁立し隋の年号を用いた。秦王(李世民)の劉武周討伐に際し弟歩利設の騎兵二千を援助したが略奪も働いた。まもなく発病して死に(毒殺説あり)、義成公主は弟の咄苾を頡利可汗に立てた。

頡利可汗――勢力伸長と唐との攻防

  • 頡利可汗は当初莫賀咄設として原(原州)の北に本拠を置き、薛挙と結んで唐を脅かしたが、高祖は宇文歆を使者として和議を結ばせた。頡利は義成公主を妻とし始畢の子什鉢羅を突利可汗として東方を治めさせた。義成公主の弟善経らの唆しもあり隋の後継楊正道の擁立を企図するなど親隋的で、歳々唐の辺境を侵した。しかし高祖は当初なお礼を尽くし多くの贈物で懐柔を図った。
  • 武徳四年(621年)以降、雁門・代州・原州などへの侵攻が繰り返され、我が使者の抑留・応酬が続いた。武徳七年(624年)には頡利・突利が悉くの兵で南下し、渭水の対岸まで迫った。太宗(秦王)は百騎で単騎渭水の対岸に赴き頡利を面詰し、離間策を用いて突利を懐柔、頡利は和議を求めて撤退した(便橋の盟)。
  • 貞観元年(627年)以降、薛延陀・回紇・抜野古の離反、大雪による家畜の大量死、突利との内紛など頡利の勢力は急速に衰えた。貞観三年(629年)、太宗は李靖・李世勣ら六総管十余万の兵で討伐を命じ、突利や郁射設らが唐に投降。貞観四年(630年)正月、李靖が悪陽嶺から夜襲、頡利は鉄山に逃れたが、唐儉の使者派遣に乗じた李靖の急襲で捕らえられ、行軍副総管張宝相に禽われた。頡利の国は滅び、定襄・恒安の地は唐の版図に復した。
  • 太宗は頡利の五つの罪(隋への不孝、盟約違反、部落統制の失敗、略奪、和親の空約束)を挙げつつも死罪とせず、家族を保護し、右衛大将軍・虢州刺史等を授けたが本人は赴任せず、貞観八年(634年)失意のうちに死んだ(諡「荒」)。頡利に殉じた臣下吐谷渾邪の逸話や、蘇尼失(啓民可汗の弟)の帰順なども記される。

突厥処遇論争

  • 頡利滅亡後、その民十余万の処遇をめぐり朝議が分かれた。ある者は兗豫の地に移し漢化させるべしと主張、中書令温彦博は後漢の故事に倣い河南の地に部落を保ったまま安置すべきと説き、秘書監魏徴は「夷狄は弱ければ服し強ければ叛く、河南に置くのは虎を養うに等しい」と反対した。太宗は温彦博の案を採り、頡利の故地に定襄・雲中の二都督府を置き、酋長五百人を将軍・郎将に任じ、突利可汗を順州都督とした。

突利可汗と結社率の乱

  • 突利可汗は隋の淮南公主を妻としていたが、頡利の下で薛延陀・奚・霫の離反を招き、頡利に処罰されたこともあり、次第に太宗に接近して入朝、右衛大将軍・北平郡王に封じられた。都督となった後、太宗は「汝の祖父啓民の恩を父始畢が忘れて隋に敵対した」ことを戒めとして述べ、都督の地位に留めた。突利は入朝の途上、并州で死んだ(享年二十九)。
  • 突利の弟結社率は謀反を企て晋王を襲おうとしたが失敗、殺人を犯して逃走中に捕らえられ斬られた。この事件を機に朝議は突厥を中国内に置くことの是非を再燃させ、太宗は阿史那思摩を可汗に立てて突厥を旧地(黄河以北)へ戻す方針を採った。

阿史那思摩と車鼻可汗

  • 阿史那思摩は頡利の同族。啓民可汗時代から知られた人物で、頡利と共に捕虜となったが忠誠を評価され化州都督などを歴任、乙弥泥孰俟利可汗として旧突厥の地に復帰させられた。しかし薛延陀の圧迫を恐れ長く出立を躊躇い、太宗は薛延陀に境界不可侵の書を送るなど配慮した。三年後も部衆をまとめきれず入朝を願い出て右武衛将軍となり、高句麗遠征に従軍して負傷、没後は兵部尚書・夏州都督を追贈され昭陵に陪葬された。
  • 思摩の後、車鼻可汗(本名斛勃)が勝手に旧地を占拠した。金山の北に拠り勝兵三万、西の葛邏禄・北の結骨を統べ薛延陀の残党を掠めるなど独自に勢力を張った。貞観二十一年(647年)、朝見の使者との間で衝突が起き(韓華らが殺害される)、高偘の討伐軍に敗れ金山で捕らえられた。高宗は「頡利敗れて助けず、延陀破れて逃げた不忠者」と責めつつも赦し、左武衛将軍とした。以後突厥は完全に唐の封疆臣となり、単于都護府・瀚海都護府が置かれ北方三十年戦乱なしという安定期を迎えた。

骨咄祿・阿史德元珍の反乱

  • 調露初(679年)、単于府の大酋温傅・奉職が反乱し阿史那泥孰匐を可汗に立てたが、裴行儉の討伐で鎮圧され、伏念・温傅も相次いで捕らえられた。
  • 永淳元年(682年)、頡利の同族骨咄祿が総材山に拠って自立し可汗を称し、弟默啜を殺(後継の意)、阿史德元珍と結んで単于府北鄙・并州・媯州・蔚州を攻め、程務挺らの防衛戦が続いた。垂拱年間には忻州で唐軍が大敗(淳于処平戦死)、爨宝璧の独断の遠征も失敗し武后の怒りを買った。骨咄祿は不卒祿と改名させられた。

默啜可汗の専横と唐との攻防

  • 天授初、骨咄祿の死後、その子が幼く默啜が自立して可汗となった。契丹李盡忠討伐に協力する見返りに歸国公・遷善可汗などの称号を得たが、後に灵・胜二州を攻め、また女を諸王に嫁がせよと要求するなど強圧的態度を強め、糧種・農具・鉄の下賜を要求して拒まれると使者を抑留した。結局朝廷はこれを許し、突厥は勢いを増した。
  • 淮陽王武延秀の婚姻使節を欺いて拘留し、十万騎で南下して定州刺史孫彦高を殺すなど暴威を振るった。武后は「斬啜」と改称して懸賞をかけたが、趙州・相州も脅かされた。默啜は兵十五万で趙・定の男女八九万を悉く生き埋めにする蛮行を行い撤退した。
  • その後も霊・会・原・代州を繰り返し侵し、中宗即位後の嗚沙の戦いでも唐軍は大敗した。三受降城の構築(張仁亶)で防衛線が強化されたが、默啜はなお強勢を保ち、玄宗即位後もしばらく和親を求め続けた。
  • 晩年は老いて暴虐となり部落の離反を招き、十姓(左五咄陸・右五弩失畢)や葛邏禄・胡屋・鼠尼施三姓、高麗の莫離支高文簡らが相次いで唐に帰順した。開元四年(716年)、拔野古討伐からの帰途、拔曳固の残党に不意を突かれ默啜は斬られ、首は入蕃使郝霊佺により長安に送られた。
  • 骨咄祿の子闕特勒が旧部を糾合して小可汗と宗族をほぼ皆殺しにし、兄の默棘連を立てた。これが毗伽可汗である(詳細は次巻に続く)。