新唐書卷二百十四 藩鎮宣武彰義澤潞 劉玄佐・吳少誠・劉悟

劉玄佐――宣武軍の実力者

  • 劉玄佐は滑州匡城の人。若くして無頼で、県の捕吏を務めた際に法を犯し笞刑を受けたことから永平軍に投じ牙将となった。大暦中、李霊耀の汴州反乱に乗じ無防備の宋州を奪い、そのまま刺史となった。
  • 建中初、李納討伐で李洧を救援し万余を斬って東南の漕運路を回復、濮陽・濮州も攻略し検校兵部尚書・淄青兗鄆招討使等を兼ねた。李希烈討伐でも李勉・陳少遊・哥舒曜と共に功をあげ、同中書門下平章事に進み「玄佐」と改名を賜った。汴宋節度使・涇原四鎮北庭兵馬副元帥・検校司徒を兼ねる大勢力となった。
  • 豪放で気前がよく下を甘やかしたため軍紀は乱れがちであった。母は賢婦人で自ら機を織って質素を示し玄佐を戒めたという逸話がある。相国寺の「仏像が汗を流した」との噂を利用して民から巨額の寄進を集め軍資に充てるなど権謀にも長けた。李納との内通を疑われる女性を贈って情報を得るなど諜報にも巧みだった。しかし寵臣張士南や仮子楽士朝の不正蓄財が発覚し、士朝が発覚を恐れて玄佐を毒殺した(享年五十八、諡は「壮武」)。

劉士寧(玄佐の子)――暴虐と追放

  • 軍中は喪を秘し後継を待ったが、朝廷が陝虢観察使呉湊を後任に望んだのに対し軍は玄佐の子劉士寧を留後に擁立、反対者は殺害された。朝廷はやむなく士寧を左金吾衛将軍・節度使とした。
  • 士寧は諸鎮に無断で通交を図り、暴虐で父の妾を犯し民の妻女を辱めるなど乱行を極めた。信望のある大将李万栄を警戒し兵権を奪ったが、万栄は狩猟に出た隙に軍を掌握し「天子の詔で節度使を交代する」と偽って士寧を追放、士寧はわずかな従者と共に逃れ、長安で軟禁された。玄佐の仮子士幹はこの混乱の中で士朝を殺し帝の怒りを買って死を賜った。

李萬榮――宣武軍の一時的安定

  • 李万栄は玄佐と旧知の間柄で人望が厚かった。留後となったが、大校韓惟清・張彦琳らの反乱未遂などの混乱があり、士寧は郴州に流された。まもなく万栄は病を得て軍を鄧惟恭に託したが、惟恭は万栄の死後に軍権を奪い、監軍俱文珍と共に子(万栄の後継予定者)を長安に送って杖殺させ、董晋が後任となった。

吳少誠――淮西の勢力確立

  • 呉少誠は幽州潞の人、蔭位で諸王府戸曹参軍となった。荊南節度使庾準に仕え、梁崇義の叛意を察知して密奏、李希烈の目に留まり通義郡王に封じられた。梁崇義討伐で先鋒を務め、希烈の死後は陳仙奇、さらに軍中の推挙で少誠自身が申・蔡・光等州の留後となった。
  • 倹約に努め軍を再建し、申・蔡の民の悍勇(「騾子軍」と呼ばれる精鋭)を掌握、貞元五年(789年)節度使となった。曲環の死後、陳許節度使不在に乗じて許州を包囲、討伐軍を何度も撃退した(韓全義の大敗など)が、宰相賈耽の取りなしもあり最終的に赦免された。順宗即位で同中書門下平章事・濮陽郡王に進み、元和四年(809年)死し司徒を追贈された。

吳少陽――淮西の継承

  • 呉少陽は滄州清池の人、少誠と魏博軍時代からの友人であった。少誠に重用され申州刺史となり、少誠の死の際、家奴単于熊児の矯詔で少誠の子元慶を殺し留後を自称、後に節度使となった。賦役を定めず随時徴収し、寿州の茶山を掠め商人を襲うなど無法な統治を続けたが朝廷に馬を献じて懐柔した。元和九年(814年)死んだが、子の元済が喪を秘した。

李元濟――淮西討伐と滅亡

  • 呉元済は少陽の長子。武将董重質(少誠の娘婿)の献策(迂回して揚州・潤州・襄陽を衝く大胆な戦略)があったが決断できずにいた。父少陽の死後、蘇兆・楊元卿・侯惟清らの入朝勧告を退け、蘇兆を殺すなど強硬姿勢を強め、舞陽・葉県・襄城・陽翟を焼き討ちして関東を震撼させた。
  • 憲宗は元済の官爵を削り、烏重胤・田弘正・韓弘・李光顔ら諸道の兵を動員した。緒戦では厳綬の敗北(磁丘の戦い)などもあったが、裴度の輔政を機に官軍は勢いを取り戻し、李光顔が郾城で大勝、烏重胤と合流して淩雲柵を陥落させるなど戦果を重ねた。
  • 元和十二年(817年)十月、李愬が投降した敵将李祐の策を用い、大雪の夜に文城から百二十里を強行軍して蔡州城を急襲、元済を捕らえて長安に献じた。淮西は平定され、韓愈が『平淮西碑』を撰したが、李愬の妻(唐安公主の娘)の訴えで内容が不公平とされ、後に段文昌に改めて撰文させることになった。功臣として韓弘・李愬・李光顔・烏重胤・李文通らが加官され、元済は西市で斬られた(享年二十五)。妻は掖庭に没収され、二弟・三子は江陵で殺された。李祐は神武将軍に、董重質は誅殺を免れ春州司戸参軍に左遷された。

劉悟――李師道誅殺の功

  • 劉悟は祖父劉正臣が平盧軍節度使として范陽を攻めて戦死した家系。叔父劉全諒の下で牙将となり、後に李師古に厚遇され、その死後は李師道に仕えて軍用金の督促役を務めた。師道の淄青討伐に際し曹州に駐屯、法を厳しく守り軍の信望を集めた。
  • 師道が悟への疑念を強め密殺を図ったところ、悟は逆に師道の使者を斬り、諸将を説いて反乱を鎮圧軍に転じ、夜襲で鄆城を攻略、師道と大将魏銑らを誅殺した。この功で義成節度使・彭城郡王となった。
  • 穆宗朝で昭義軍に転じ、朱克融の乱や王廷湊の反乱鎮圧に従軍したが、監軍劉承偕との不和から兵を動かして監軍を軟禁する事件を起こし、属官賈直言の諫言でようやく矛を収めた。宝暦初(825年頃)、李師道の亡霊の噂に怯えて祈祷中に血を吐いて死に、太尉を追贈された。子の従諫が跡を継いだ。

劉從諫――澤潞の専横と武宗の討伐準備

  • 劉従諫は母の身分が低く狡猾な性格であったが、李師道時代に父劉悟の間諜として師道の内情を探り、悟の成功に貢献した。悟の死後、賄賂で朝廷を動かし李絳の献策もあって留後、後に節度使となった。大和初、李聴の危機を救う功もあり検校尚書左僕射・司空・沛国公に進んだ。
  • 邢州から治所を潞州に戻し寛厚な統治で人心を得たが、甘露の変(835年)で宰相らが冤罪で族滅されたことに憤り上書したことから宦官仇士良らと対立、朝廷への疑心が深まった。奢侈を好み、私的な塩・銅鉄の専売で巨利を得るなど半独立の様相を強めた。方士李琢の予言に不安を覚えるなどした末、会昌年間、宦官との軋轢に病を得て享年四十一で死し、太傅を追贈された。

劉稹(従諫の従子)――澤潞討伐と滅亡

  • 劉稹は従諫の兄従素の子で、従諫の後継に定められた。従諫の死を秘し、大将王協・郭誼らに擁立されて留後を自称、朝廷の使者を欺いて時間を稼いだ。武宗は李徳裕の献策で官爵を削り諸道に討伐を命じた(河陽・河東・魏博・成徳・河中の五道)。
  • 緒戦では薛茂卿の奇襲で王茂元軍が敗れるなどしたが、茂卿が忠武の王宰との内通を疑われ誅殺されると形勢は逆転、劉沔・李石らの攻勢で邢州・洺州の将が相次いで投降し、澤潞は追い詰められた。大将郭誼・王協らが稹を誘い出して斬り、従諫の幼い子孫二十余人も殺された。稹の首は長安に送られ、郭誼らも後に石雄によって捕らえられ処刑された。澤潞は劉悟から稹まで三代・二十六年で滅んだ。

李丕――澤潞討伐の功臣

  • 李丕は従諫に厚遇された大将であったが、稹の反乱に反発し朝廷に帰順、劉稹討伐で忻州刺史に抜擢された。楊弁の乱の鎮圧にも功をあげ、大中初、振武節度使・検校刑部尚書となった。党項の叛乱で鄜坊に移されて死んだ。

史論

贊にいう。『易伝』は「易を作った者は盗みを知っていたのではないか」と言うが、盗の実情は聖人でなければ見抜けない。唐は中頃から衰え、奸雄が虎視眈々と機を窺い、魏・趙・燕の地はことごとく盗賊の巣窟と化し、百年にわたり反乱が続き、その民は夷狄同然となって二度と回復しなかった。暗愚な君主と無能な補佐役が、盗の何たるかを知らなかったからにほかならない。妖しきものに引き込まれて明を失ったのは、蕭俯・崔植らの罪と言うべきであろうか。