新唐書卷二百十三 藩鎮淄青橫海 李正己・程日華・李全略

李正己――淄青の勢力拡大

  • 李正己は高麗人。営州の副将から侯希逸に従い青州に入り、希逸の母が正己の叔母であった縁で折衝都尉に推薦された。寶応中、史朝義討伐に従軍した際、驕り高ぶる回紇の大酋と力比べで打ち負かし、周囲の喝采を浴びた逸話がある。
  • 侯希逸の兵馬使となったが警戒され職を解かれ、軍中の反発で希逸が追放されると節度使に代わって任じられた(本名懐玉から改名)。淄・青・斉・海・登・莱・沂・密・徳・棣の十州を領し、田承嗣・薛嵩・李宝臣・梁崇義と姻戚関係を結んで互いに支え合った。薛嵩死後の李霊耀の乱では他鎮と共にその地を分割し、曹・濮・徐・兗・鄆を得て十五州を領する最大勢力となった。渤海の名馬を絶えず購入し、税制も均一で威は近隣諸国を震わせた。検校司空・同中書門下平章事・司徒兼太子太保・饒陽郡王に進んだ。
  • 建中初(780年)、汴州包囲を機に田悦・梁崇義・李惟嶽と共謀して叛乱を計画し済陰に駐屯したが、疽を発病し享年四十九で死んだ。子の李納が興元初(784年)に帰順すると、正己には太尉が追贈された。

李納――斉王僭称と帰順

  • 李納は若くして奉禮郎から兵馬防秋の任に就き、代宗に召見され殿中丞に抜擢された。正己の下で淄・青二州刺史、行軍司馬、濮・徐・兗・沂・海留後、御史大夫を歴任した。
  • 父正己の死を秘して田悦の濮陽救援に赴いたが馬燧に大敗、徳宗の諸軍討伐に対し従父の李洧が徐州を挙げて帰順すると激怒し攻撃、官軍に濮陽を包囲され窮地に陥り、子弟を人質に出して謝罪した。しかし讒言により赦免が阻まれると再び田悦・李希烈・朱滔・王武俊と結んで「斉王」を僭称し百官を置いた。
  • 興元元年(784年)の大赦で帰順し、検校工部尚書・平盧節度使に復し鉄券を賜り、同中書門下平章事・隴西郡王に進んだ。李希烈の陳州包囲を諸軍と共に破り検校司空を加えられたが、享年三十四で死し太傅を追贈された。子の師古・師道が跡を継いだ。

李師古――蛤鹽の利権争い

  • 李師古は蔭位で青州刺史となり、父の死後に軍中の推挙で右金吾衛大将軍・本軍節度使となった。棣州の蛤鹽池(塩産地)をめぐり成徳の王武俊と争い、三汊の砦を築いて対立したが、最終的に武俊が奪取して収束した。
  • 独孤造という属官を怒らせ密殺するなどの専横があったが、貞元末には杜佑・李欒らと共に妾を国夫人に封じる特権を得るなど権勢を誇った。徳宗崩御の際、遺詔を偽物と称して義成の李元素討伐を企てたが、順宗即位を知り中止した。元和初(806年頃)死し、太傅を追贈された。

李師道――淮西援護と滅亡

  • 李師道は師古の異母弟。師古が「民間の苦労を知らせるため」密州の知事を務めさせた人物であった。師古の危篤時、側近高沐・李公度らが師道を後継に立てることを進言し、その通り軍中と家人が師道を留後に推した。
  • 蔡州の呉元濟討伐に対し表向き中立を装いつつ実際は蔡州を支援し、密かに壽春へ兵を進めたり、河陰の漕運倉庫を焼いたり、宰相武元衡の暗殺と裴度の襲撃を企てたりと、朝廷に対する妨害工作を繰り返した。洛陽近郊に拠点を築き「山棚」と呼ばれる私兵を養う計画も呂元膺に発覚し失敗した。
  • 呉元濟平定後は自ら三州の割譲と子の入侍を約したが、部下の反対で撤回し、朝廷はついに官爵を削って諸道に討伐を命じた。武寧の李愿、横海の鄭権、宣武の韓弘、淮南の李夷簡、魏博の田弘正らが各方面から進撃し、師道は敗報のたびに病に倒れるほど怯えた。
  • 陽穀に駐屯していた大将劉悟が疑心から反乱し、師道は嫂の裴氏に「悟の兵が背いた、民として墓を守りたい」と語ったが捕らえられ、子の弘方と共に斬られた。屍は晒され、誰も収めようとしなかったが、士人英秀が城の左に葬った。師古はかつて劉悟について「後に貴人となるが、我が家を滅ぼすのはこの男だ」と予言していたという。

程日華――滄州の自立

  • 程日華は定州安喜の人、元の名は「華」で、徳宗が功を賞して「日華」の号を賜った。父元皓は安禄山配下で偽の定州刺史。張孝忠の牙将であった日華は、成徳から離反した滄州の前刺史李固烈を説得する使者に立ったが、固烈が財貨を持ち去ろうとしたため軍が怒って殺害し、日華は担ぎ上げられて刺史となった。
  • 朱滔・王武俊の攻撃を受けたが、参軍李宇の献策で朝廷に直接帰属することを願い出て建中三年(782年)横海軍節度使となった。王武俊の懐柔策を退け、義武への従属を保ちながら独立を維持した。貞元二年(786年)死し兵部尚書を追贈された。

程懷直(日華の子)――放蕩による失脚

  • 子の懐直は権知滄州刺史となり、後に節度使まで進んだが、狩猟に耽り数日も帰らぬ放蕩ぶりに従兄弟の程懐信が反発、入城を拒まれた懐直は入朝を余儀なくされ、懐信が留後、次いで節度使となった。懐直は右龍武軍統軍に転じ、元和十六年(821年、原文ママ)死し揚州大都督を追贈された。

程權(懷信の子)――淮西平定後の入朝

  • 程権(初名執恭)は元和元年(806年)節度使となり、検校兵部尚書・邢国公に進んだ。淮西平定後は不安を覚え入朝を願い出て軍政を辞し、華州刺史鄭権に代わられた。後に邠寧節度使となり死後、司徒を追贈された。宗族で朝請・宿衛に仕えた者は三十余人に及んだ。

李全略――滄景の反乱と平定

  • 李全略は本姓李王氏、名は日簡、王武俊配下の裨将であった。承宗の圧政を嫌って入朝し代州刺史となった。田弘正殺害事件を機に穆宗に忠誠を訴え徳州刺史となり、杜叔良の敗戦を受けて横海軍節度使・滄徳棣州観察使に任じられ「全略」と改名を賜った。
  • 密かに勢力を蓄え、棣州刺史王稷を族滅して排除するなどしたが、まもなく死に、子の同捷が留後を自称し節度使の襲位を求めた。文宗即位の機に乗じて弟同志・同巽を入朝させ帰順を装ったが実際は拒否を続け、朝廷は官爵を削り烏重胤らに討伐を命じた。
  • 同捷は河北三鎮に賄賂を送ったが李載義に拒絶され、王廷湊も介入を試みる中、王智興らの包囲戦(滄州七か月に及ぶ)を経て窮地に陥り、柏耆の説得で降伏したが、柏耆は約束を反故にして同捷とその一族を将陵で処刑した。四州の租税は一年免除され、同捷の母と妻は湖南に流された。異母兄弟の同巽らは死を免れ母と共に流刑地に送られた。