新唐書卷二百十二 藩鎮盧龍 李懷仙・朱滔・劉怦・朱克融・李載義・張仲武・李茂勛・李全忠・劉仁恭
李懷仙――盧龍節度使の初代
- 李懐仙は柳城の胡人。代々契丹に仕え営州を守った。安禄山の反乱で裨将となり、史思明が河南を制圧した際、次子朝清の幽州守備を助けたが、史朝義が朝清を殺すと懐仙は朝義に幽州節度使として起用され、対立する阿史那玉らを鎮圧した。
- 史朝義が敗走し范陽(幽州)に向かうと、朝廷の使者駱奉先の説得で懐仙は降伏、部将李抱忠に朝義の入城を拒ませて自害に追い込み、首級を献じた。僕固懐恩の推挙で幽州盧龍節度使となり、田承嗣・薛嵩・張忠志らと共に朝廷の統制外で独自の統治(城郭・甲兵の整備、独自の官吏任命、私的な税収)を行った。
- 大暦三年(768年)、部下の朱希彩・朱泚・朱滔兄弟に謀殺され、一族も滅ぼされた。希彩が留後を自称し、その後高密郡王に封じられたが驕慢で人望を失い、大暦七年(772年)李瑗に殺され、朱泚が留後に推された(朱泚は別伝)。
朱滔――冀王の僭称と敗走
- 朱滔は変幻自在の性格で、朱希彩の同族として親兵を統べた。朱泚が節度使となると三千の兵を率いて天子の西方防衛に赴き、代宗に才を認められ検校御史大夫となった。泚の入朝後、権謀で泚の兵権を奪い留後となり、有功者李瑗ら二十余人を殺して威を示した。
- 李惟嶽討伐では張孝忠と共に功をあげ検校司徒となったが、深州の帰属や恒・定七州の賦税をめぐり朝廷への不満を募らせ、田悦の窮地に乗じて王武俊と共に叛いた(連篋山の戦いなど)。建中三年(782年)、田悦・王武俊・李納と共に「四国連衡」を結び、滔は「冀」を号して盟主(孤と自称)となり、独自の官制(左右内史・執憲台等)を整えた。
- 一時は李晟の官軍を破るなど優勢であったが、朱泚の反乱に呼応して洛陽進撃を企て、回紇の援兵まで得たものの田悦との連携が破綻、王武俊・李抱真の連合軍に貝州で大敗、幽州に逃げ帰った。留守を任せていた従弟劉怦の温情で入府を許されたが、以後は失意のうちに病を得て貞元元年(785年)享年四十二で死し、司徒を追贈された。
劉怦――朱滔の後継
- 劉怦は幽州昌平の人。親の看病を理由にたびたび職を辞す孝行者であったが、朱滔の下で治政の手腕を発揮し涿州刺史となった。李宝臣が朱滔を瓦橋で破って幽州を狙った際にも巧みに防備を固めて守り抜き、朱滔敗走後も忠節を尽くしたため軍中の信頼を集めた。滔の死後、軍に推されて留後、節度副大使・彭城郡公となったが、在任わずか三月、享年五十九で死し、兵部尚書・諡恭を追贈された。子の済が跡を継いだ。
劉濟(劉怦の子)――奚討伐と譚忠の計
- 劉済は字を済、進士出身。父の看病から州事を代行し、正式に節度使となった。奚の侵攻を撃退し、青都山まで千里余り追撃して二万を斬った。
- 王承宗の叛乱に際し、裨将譚忠の機知(燕は趙を討たず、趙も燕に備えずという構図を見抜いた進言)を容れて七万の兵で先鋒を務め、饒陽を落として瀛州に駐屯、安平も陥落させた。
- 病がちになると次子劉総が謀略で偽の詔書騒ぎを起こして軍を動揺させ、済は多数の将を誅殺した末に毒殺され(享年五十四)、長子劉緄も総に矯詔で殺された。太師・諡莊武を追贈された。
劉總(劉濟の子)――僧籍への出家
- 劉総は父を毒殺したことを隠して節度使となり、朝廷から検校司空・楚国公を加えられた。王承宗が再叛した際は両属的な態度で私腹を肥やした。憲宗は表向き厚遇して同中書門下平章事とした。
- 淮西・淄青の平定後、父兄の亡霊に苛まれるようになり僧衣を身にまとい祈祷に耽った。譚忠の説得もあり、幽・涿・営、瀛・莫、平・薊・媯・檀の三府に分割して朝廷に献上することを願い出た。穆宗はこれを容れず全土をそのまま張弘靖に授けたが、総自身は剃髪して仏門に入り「大覚」と号し、定州へ向かう途中で死んだ。太尉を追贈された。
朱克融――幽州節度使の再乱
- 朱克融は朱滔の孫。劉総の入朝に際し軍中の有能な者として朝廷に推挙されたが、官職を得られず長安で困窮した。張弘靖の赴任時に幽州へ送還された後、軍乱で弘靖を捕らえた際、父洄が老病のため克融が軍務を引き受け留後となった。
- 易州・蔚州・定州へたびたび侵攻したが、王廷湊の田弘正殺害事件が重なり、朝廷は幽州を討伐しきれず節度使に任じた(長慶元年=821年)。深州包囲などを繰り返しつつも、要求を通す駆け引きを重ね検校司空・呉興郡王に進んだ。
- 敬宗初、軍から与えられた粗末な服を不満として詔使を囚えるなど不遜な態度を続けたが、最終的に軍乱で子の延齢と共に殺され、司徒を追贈された。次子延嗣が留後となったが、大将李載義に殺され一族も滅ぼされた。
李載義――滄景平定の功
- 李載義は自ら恒山湣王の後裔と称し、豪傑と交わり武勇を好んだ。劉済に見出され朱克融の子延嗣を討ち滅ぼし節度使に任じられた。張弘靖の幽閉時に被害を受けた幕僚の妻子を丁重に護送し、李同捷の滄景反乱討伐でも功をあげ、同中書門下平章事・白玉帯を賜った。
- 大和四年(830年)、部将楊志誠に追われ易州に逃れたが、恭順な姿勢が評価され太保・平章事に留任、後に山南西道・河東節度使に転じた。回鶻の使者の横暴を毅然と抑えた逸話が知られ、開成二年(837年)享年五十で死し、太尉を追贈された。
楊志誠――幽州の混乱
- 楊志誠は李載義配下の牙将であったが、天子の使者を迎える宴で軍を扇動し載義を逐って留後を自称、文宗は形の上で嘉王を節度使に立てつつ志誠を実質的な留後とした。
- 検校吏部への昇進を軍中が誤解して不満を訴えるなど混乱が続き、天子の使者を軟禁する事件も起こしたが、八年後(838年頃)部下に追われ、天子の袞冕を勝手に作らせていた僭上の罪が発覚し嶺南への配流途中で誅殺された。通王を名目上の節度使に立て、史元忠が留後を継いだ。会昌初、元忠も偏将陳行泰に殺され、行泰も次将張絳に殺されるという混乱が続き、最終的に武宗は張仲武を起用した。
張仲武――回鶻撃破の功
- 張仲武は范陽の人、『左氏春秋』に通じた文人でもあった。会昌初、雄武軍使であったが、幽州の内紛(元忠→行泰→絳)に対し宰相李徳裕は性急な承認を避けて情勢を見極めた。回鶻の残党(烏介可汗)が天徳塞に迫る中、仲武の部下呉仲舒が朝廷に忠誠を訴えたことから李徳裕に評価され、兵馬留後を経て節度使となった(張絳は軍に逐われた)。
- 弟仲至と共に回鶻の那頡啜の軍三万を破り、密偵として送り込まれた回鶻の宣門将軍らを謀略で撃退するなど回鶻の勢力を大きく削いだ。功績を石碑に刻ませ李徳裕に銘文を書かせた。大中初、奚族も撃破し同中書門下平章事に進み、死後諡は「荘」。
李直方(張仲武の子)――暴慢な最期
- 子の直方は右金吾将軍から留後、副大使を経たが素行不良で軽罪の者を金吾使ごと笞殺するなどの咎で羽林統軍を追われ、思州司戸参軍に落とされた。母に「私より上の者がいるのか」と諫められるほど専横であった。晩年は洛陽で狩猟に明け暮れ「洛陽の鳥は皆彼を見知って群がって騒いだ」という。黄巣の乱では黄巣の暗殺を謀り一族を殺された。
張允伸――倹約の名将
- 張允伸は字を逢昌、范陽の人。李直方の出奔後、都知兵馬使として軍中に推され留後、次いで節度使となった。龐勛の乱に際し軍糧・塩を献上して朝廷を助け、同中書門下平章事・燕国公を加えられた。咸通十二年(871年)病篤く節度使を子の簡会に譲り、享年八十八で死し太尉・諡忠烈を追贈された。
張公素――白眼相公
- 張允伸の跡は簡会が入朝したため、軍中の信望を得ていた張公素が推された。性格は暴虐で瞳が白く濁っていたため「白眼相公」と呼ばれた。後に李茂勛に襲われて逃走し、復州司戸参軍に左遷された。
李茂勛――幽州の再統一
- 李茂勛は回鶻阿布思の裔。張仲武の時代に降り、辺境で功を積んだ。陳貢言(納降軍使)を偽の反乱の噂で襲殺し、張公素を破って主導権を握り節度使となった。病を理由に致仕し尚書右僕射を得て、子の李可挙が留後を継ぎ節度使となった。
李可挙――幽州の防衛戦
- 李可挙は中和末に強大化した太原の李克用を警戒し、吐渾都督赫連鐸・鎮州王鎔と連携、韓玄紹を派遣し薬児嶺で沙陀軍を破るなど戦功を重ねた。李全忠に易州を包囲させたが、王処存の奇襲(羊皮を被せた偽装作戦)で敗れ、可挙は敗北の責を負い一族と共に楼上で焼身自殺した。
李全忠――蘆の吉兆
- 李全忠は范陽の人、棣州司馬時代に室内に生えた奇妙な蘆(一尺三節)を吉兆と占われた逸話を持つ。可挙配下の牙将から留後、光啟元年(885年)節度使となったがまもなく死んだ。子の匡威が跡を継いだ。
李匡威――兄弟の抗争
- 李匡威は豪爽な性格で燕薊の精兵を背景に威を張り、赫連鐸と結んで太原と雲・代を争った。李克用の攻勢を退けたり雲州をめぐる攻防を繰り返した後、景福初、鎮州王鎔の求めに応じ李克用と戦った。
- 出征の宴で酔った勢いで弟匡籌の妻に無礼を働いたため、匡籌が博野で自立し留後となり、匡威は帰るところを失い深州に留まった末、鎮州王鎔を頼った。しかし匡威が鎔の簒奪を企てたことが露見し、匡威自身が王鎔の兵に斬られた。匡籌は朝廷に訴え鎔を攻めたが、劉仁恭の離反や李克用の介入で敗走、一族と共に長安へ逃れる途中、滄州節度使盧彦威に殺された。妻は身重のまま劉仁恭に捕らえられ李克用の側室となった。
劉仁恭――幽州の実権掌握
- 劉仁恭は深州の人、父晟は李可挙配下の新興鎮将。李全忠に従い「窟頭」と呼ばれた。瀛州の乱を平定し、蔚州守備で不遇を託つ中、李匡籌の簒奪騒動に乗じ幽州に進撃、李克用の援助で幽州を奪回、留守を任された。
- 乾寧二年(895年)、李克用の王行瑜討伐に功をあげ検校司空・盧龍節度使を授かった。以後は李克用と対立し、朱全忠に接近して同中書門下平章事を得た。光化初、子の守文に滄州を奪わせ滄・景・徳三州を領した。
- 幽州・滄州の軍十万を率い魏博・鎮州を攻めたが、朱全忠の援軍(李思安・葛従周)に貝州の戦いで大敗、勢力は衰えた。天祐三年(906年)、朱全忠の滄州包囲で人が人を食うほどの窮状に陥り、李克用に援軍を求めてようやく解囲した。
- その後は方士王若訥に長生の術を学び、大安山に館を築いて子女を集め、私鋳銭や自製の茶(「大恩」茶)で利を貪るなど乱行を重ねた。子の守光が寵妾を犯した罪で咎めたところ、李思安の来攻に乗じて守光が仁恭を大安山で捕らえ、盧龍の実権を奪った。
史論
贊にいう。朱滔は兄朱泚を脅して入朝させたが、自ら東方に兵を進めて帝を僭称するに至り、名目は泚を助けるためと言いながら本心は明らかであった。朱克融が再び幽州を得るに至り朱氏の血統は絶えたが、その禍は朱泚と同様であり、ただ一族の滅びる時期に先後があっただけである。