新唐書卷二百十一 藩鎮鎮冀 李寶臣・王武俊・王廷湊

李寶臣――成徳節度使への道

  • 李宝臣は字を為輔、范陽内属の奚族出身。范陽の将張鎖高の仮子となり張忠志と名乗った。安禄山の射生官となり反乱に加わり、安慶緒配下で恒州刺史となった。九節度使が相州を包囲すると一時帰順したが、史思明が黄河を渡ると再叛。思明死後は史朝義に従わず、部将王武俊に賊将辛万宝を殺させ恒・趙・深・定・易の五州を献じて朝廷に降った。
  • 朝義平定後、礼部尚書・趙国公に封じられ「成徳」の軍号を賜り節度使となった。恒・定・易・趙・深・冀の六州、馬五千・歩卒五万を擁し財力も豊かで、山東随一の勢力を誇った。田承嗣・李正己と縁戚関係を結んで互いに支え合った。
  • 弟宝正が田承嗣の子田維を球技の事故で死なせ、逆に承嗣に鞭殺されたことから承嗣と対立、李正己と共謀してその討伐を朝廷に求めた。代宗は両者を戦わせて疲弊させようとし、宝臣・朱滔に承嗣の北を攻めさせたが、宝臣は独自に承嗣と裏取引し滄州を得る代わりに幽州を狙う密約を結んだ(承嗣の偽の讖文を利用した謀略戦もあった)。結局互いに欺き合い、隴西郡王・同中書門下平章事に進み、徳宗即位で司空となった。
  • 晩年は猜疑心を強め、子の惟嶽の凡庸さを恐れて骨鯁の将辛忠義ら二十余人を粛清した。妖術に耽り玉璽の偽物や甘露酒を偽作させたが、事の発覚を恐れた妖人に毒殺され(享年六十四)、建中二年(781年)のことであった。

李惟嶽(宝臣の子)――叛乱と敗死

  • 李惟嶽は行軍司馬・恒州刺史であったが、父の死後に軍中から留後に推され、節度使の襲位を求めたが徳宗は許さなかった。田悦の後押しで李正己と共に朝命に叛いた。府属邵真の諫言もあったが小史胡震らの主戦論に押し流された。
  • 張孝忠が易州を挙げて帰順すると朝廷は朱滔と孝忠に討伐させ、惟嶽軍は束鹿で大敗、深州を包囲された。田悦の督責と部将孟祐の勧告で邵真を斬るなど動揺の中、康日知の趙州離反でさらに追い詰められ、王武俊に討伐軍を委ねたところ、武俊自身が寝返り、恒州城内で惟嶽を弒して戟門で縊死させた。惟嶽の首は長安に送られ、朝廷は成徳の将士を悉く赦した。

李惟簡(宝臣の子)――帝への忠誠

  • 惟嶽の異母兄惟誠は儒学を好み謙譲の人柄で、寶臣に愛されたが正嫡の惟嶽に位を譲った。惟嶽の妹は李納に嫁ぎ、惟誠はその下で仕えた。
  • 弟の惟簡は惟嶽反乱時に母鄭氏と共に長安に逃れ、朱泚の乱で徳宗が奉天に難を避けた際にも従い、盩厔の道で天子を見つけて忠節を尽くし、太子諭德を拝命した。渾瑊の援軍到来をいち早く見つけるなど功を重ね、武安郡王・元従功臣の号を賜り、憲宗朝で左金吾衛大将軍・鳳翔節度使となり善政を敷いた。享年五十五で死し、尚書右僕射を追贈された。子の元本は素行不良で流罪となった。

王武俊――成徳の実力者

  • 王武俊は字を元英、契丹の怒皆部出身。李宝臣の裨将として仕え、寶応初、王師の井陘進駐に反対する献策で信任を得た。宝臣が恒・定など五州を挙げて帰順したのも武俊の謀による。御史中丞・維川郡王を兼ね、宝臣の娘婿となった子の士真と共に重用された。
  • 李惟嶽の乱では表向き従いつつ康日知の説得を受けて反転し惟嶽を弑した。以後、恒冀観察使となったが、深州・定州の帰趨をめぐり朱滔と共に怨みを抱き、田悦の危機に朱滔と共に馬燧・李懐光らの官軍を破った(連篋山の戦い)。
  • 建中三年(782年)、朱滔・田悦・李納と共に「三国連衡」を組み、武俊は「趙」を号して大王を僭称、真定府を建てた。しかし後に離間の策(賈林の説得)で唐朝への帰順を決意し、朱滔・李抱真との貝州の戦いで滔軍を撃破した。興元元年(784年)の大赦後、恒冀深趙節度使・同中書門下平章事・幽州盧龍節度使・瑯邪郡王に累進した。貞元十七年(801年)享年六十七で死し、太師を追贈され、諡は「忠烈」。子の士真が跡を継いだ。

王士真(武俊の長子)――安定期の統治

  • 王士真は父の下で功を立て節度使を継承後は兵を休め守りを固め、税賦も比較的忠実に納めるなど燕・魏に比べ恭順を保った。元和初、同中書門下平章事となり、元和四年(809年)死し司徒を追贈された。子の承宗が留後に推された。

王承宗(士真の子)――叛服と憲宗の討伐

  • 承宗は父の死後、河北三鎮の慣例に従い御史大夫として留事を総括した。憲宗はしばらく黙認したのち、翰林学士李絳の献策で穏便に節度使を認めつつ、姻戚の薛昌朝を保信軍節度使として徳・棣二州を分離させようとしたが、承宗は昌朝を捕らえて拒否、官爵を削られ吐突承璀率いる神策軍等の討伐を受けた。
  • しかし官軍側も統制を欠き大将酈定進の戦死などで士気が振るわず、太常卿権徳輿は「西戎に備えを空にする危険」を諫めた。討伐は数年続いたが、盧従史の裏切りや軍費の窮乏もあり、元和五年(810年)ついに赦免され旧領を回復した。
  • 元和七年(812年)、武元衡暗殺事件などで再び李師道と結んで朝廷に敵対する動きを見せ官軍の圧力を受けたが、元和十一年(816年)の六節度連合討伐でも決定的な打撃は与えられず、翌年の李師道平定後に自ら二子を魏博に送り帰順を申し出た。以後は謹慎した態度を保ち、元和十五年(820年)死し侍中を追贈された。弟の承元が留後に推されたが世襲を固辞し、義成軍節度使に任じられた。

王廷湊――田弘正殺害と成徳復帰

  • 王廷湊は回鶻阿布思の一族の出、曽祖五哥之は李宝臣配下、王武俊の養子となり王姓を冒した。生まれつき異相で沈鷙寡黙、『鬼谷子』や兵法書を好んだ。王承宗期に兵馬使、田弘正が鎮州に赴任した際、朝廷の軍資百万銭の到着遅延を利用して軍心を煽り、田弘正を殺害して留後を自称、冀州も奪った。
  • 穆宗は田布を魏博節度使として討伐させたが、幽州の朱克融の乱も重なり官軍は統制を欠き敗北を重ねた(王涯の献策も生かされず)。杜叔良の大敗などを経て翌年(823年)、魏の史憲誠の叛乱に乗じ、朝廷はやむなく廷湊を成徳軍節度使に任じた。
  • その後も李全略の子同捷の乱に呼応するなど不穏な動きを見せ官爵を削られたが、易定の柳公済らに敗れ最終的に景州等を返上して謝罪、赦免された。大和八年(834年)死し太尉を追贈された。史論は「鎮冀は李惟嶽以来朝命に逆らったが隣国と法を重んじる面もあった。しかし廷湊は凶暴で不臣不仁、夷狄にも劣る」と評している。

王元逵(廷湊の子)――劉稹討伐

  • 王元逵は礼法を弁え歳時の貢献を欠かさなかった。文宗は喜び絳王悟の娘壽安公主を降嫁させた。劉稹の乱で武宗の北面招討使となり宣務壁を抜き堯山の援軍を破るなど功をあげ、同中書門下平章事・太原郡公に進んだ。大中八年(854年)享年四十三で死し、太師・諡忠を追贈された。

王紹鼎(元逵の子)――暴政

  • 子の紹鼎は淫蕩暴虐で重税を課し、楼上から通行人を弓で射て楽しむなど悪政を行い、軍民の怒りを買ったが病死し、司空を追贈された。

王紹懿(元逵の次子)――幼君の後見

  • 紹鼎の子が幼少のため、宣宗は元逵の次子紹懿を留後とし、まもなく節度使となった。政は簡易で咸通七年(866年)死し、司徒を追贈。紹鼎の子景崇が跡を継いだ。

王景崇(紹鼎の子)――孝と忠勤

  • 王景崇は字を孟安、公主の嫡孫として特に寵愛された。龐勛の乱で王師を助け検校尚書右僕射に進み、母張氏の喪に礼を尽くして称賛された。同中書門下平章事・検校太尉兼中書令・趙国公を経て乾符五年(878年)常山王に進んだ。
  • 黄巣の乱では偽の詔を持参した使者を斬って忠節を示し、諸道と連携して天子への貢納を続けた。嗣位十四年、中和三年(883年)享年三十七で死し、太傅・諡忠穆を追贈された。子の鎔が跡を継いだ。

王鎔(景崇の子)――太原との抗争

  • 王鎔は十歳で軍中に留後として推され、李克用・楊復光の黄巣討伐を支援した。李克用が邢州の孟方立を攻めた際に協力したが、後に李克用自身が山東(河北)を狙って常山に迫り、幽州の李匡威と結んで対抗、堯山・元氏などで一進一退を続けた。
  • 李匡威が弟匡籌に追われて鎔を頼った際、匡威の忌日の弔問で暗殺未遂事件に巻き込まれたが屠者墨君和らに救われ、匡威は東園で自害同然に死んだ。以後も李克用・李匡籌との抗争が続いたが、朱全忠の勢力拡大に伴い羅紹威の勧めで太原(李克用)との断交を迫られ、朱全忠に人質(子の昭祚)を送り、その傘下に入った。
  • 母何氏の死後は財貨を蓄え姫妾千人を抱えるなど贅を尽くした。占い師の予言(「三十年後二王あり」)は景崇・鎔の代で実現したとされる。廷湊から鎔まで凡そ百年続いた。

史論

贊にいう。朱滔・王武俊は南面して王を称し、地を接して結んだ。朱泚が僭帝を称した際、朱滔もこれに応じようとし、当時は実に危うい情勢であった。しかし賈林の一言が武俊を目覚めさせ、両者を仲違いさせて幽薊の鋭鋒を挫き、朱泚は同盟者を失って孤城に留まり、ついに滅びた。賈林の功に対する恩賞は本人には及ばず、徳宗の不明を示すものといえよう。