玄宗第一の側近
- 馮盎の曾孫。聖歴初、嶺南討撃使李千里が献じた二人の閹児(金剛・力士)の一人として武后に召され、罪により一度追放されたが高延福の養子として復権、武三思に取り入り再び禁中に入った。長身謹密で宮闈丞となった。
- 玄宗が藩邸にいた頃から傾心して結び、韋氏誅殺の功で内給事、先天中には蕭至忠・岑羲誅殺の功で右監門衛将軍・知内侍省事となり、四方の奏請を専決するに至った。玄宗は「力士が当直すれば安眠できる」と語ったという。宇文融・李林甫・楊国忠・安禄山ら多くの重臣が力士に結んで昇進した。粛宗も東宮時代は力士に兄事した。
- 母麥氏との再会譚(胸の黒子で確認)、河間の呂玄晤の娘を娶った逸話、佛寺・道観の造営費が国庫に匹敵した逸話が伝わる。
- 玄宗が長安を離れず和糴・漕運策で国用を賄う方針を語った際、力士は税制・和糴の弊害と権力の集中を諫めたが不興を買い謝罪、以後政治から距離を置いた。安禄山反乱後、粛宗即位の報に玄宗が喜んだ際、力士は「両京が失われ天下が痛心している中で何を喜ぶのか」と諫めた。
- 玄宗が西内に移された後、李輔国の讒言で除籍・巫州流罪となったが、宝応元年の赦免後、二帝の遺詔を知り血を吐くほど哭して没した。享年79、代宗は護衛の功により官を復し揚州大都督を追贈、泰陵に陪葬した。
- 太子瑛廃立の際、力士が「年長者を立てれば誰も争えない」と進言し粛宗の立太子が決まった逸話、辺将の専横と安禄山の危険性を諫めた逸話も伝わる。時勢を読み危機には距離を置いたため、大過なく生涯を全うしたが、議者は宇文融以来の権利争いが天下の禍の階を作ったと評した。