新唐書卷二百七 列傳第一百三十二 楊思勖

宦者上・序

  • 唐制では内侍省に内侍四人・内常侍六人・内謁者監と内給事各十人・謁者十二人・典引十八人・寺伯と寺人各六人を置き、掖廷・宮闈・奚官・内僕・内府の五局を宦官が統括した。太宗は内侍省に三品官を置かず職掌を守備・掃除に限ったが、武后期に人数が増え、中宗期には黄衣が二千員に達した。玄宗の代には宮嬪四万・宦官黄衣三千余・朱紫千余人となり、監軍の権が節度使を凌ぐほどになった。粛宗・代宗は宦官を守衛として頼り、李輔国・魚朝恩らが権勢を振るった。徳宗は朱泚の乱を教訓に神策軍等を宦官(護軍中尉・中護軍)に委ね、権柄が宦人に移った。
  • 小人は日夜天子に近侍するため、狎れれば威を失い、慣れれば疑いを解く。玄宗は遷幸のうちに崩じ、憲宗・敬宗は弑され、文宗は憂いのうちに崩じ、昭宗の代に唐は滅んだ。禍は開元に始まり天祐に極まった。ここに中葉以来の宦官の主だった者を集める。

武功の宦官

  • 羅州石城の人、もと蘇氏、養家の姓を冒した。内侍省に仕え玄宗の内難平定に従い左監門衛将軍。開元初、安南の梅叔鸞の反乱(三十二州・四十万衆を号す)を鎮圧し京観を築いた。十二年、五溪の覃行章の乱では黔中招討使として六万を率い行章を斬首三万級で捕らえ、輔国大将軍に進んだ。邕州の梁大海の乱、瀧州の陳行範の乱(何遊魯・馮璘を破り、行範を生け捕り六万を坑にした)も鎮圧し、驃騎大将軍・虢国公。享年80余で没した。
  • 残忍な性格で、捕虜の顔皮を剥いで見せしめにする手法で威を示した。牛仙童の贈収賄事件では箠打ちの末に心臓を抉り四肢を切断して食わせるという酷刑を執行した。

附 楚客

  • 楽安の人、桂州都督から致仕し松滋県侯に封じられた。