則天武后の父
- 字は信、代々資産家で交際上手であった。高祖が汾晋に駐屯した際に接待し、太原留守時代には行軍司鎧参軍として登用された。募兵事業で王威・高君雅の疑いから劉弘基らを守った逸話が伝わる。
- 大将軍府鎧曹参軍として長安平定に従い、光禄大夫・義原郡公。夢で高祖に乗って昇天したと語った際、高祖は「もと王威の党だったが功があったので官を与えた、今また私に媚びるのか」と笑ったという。工部尚書、応国公、利・荊二州都督を歴任し没し、礼部尚書・諡は定を追贈された。
- 高宗永徽中、娘(則天武后)が皇后となったため、士彟は并州都督・司徒・周国公を追贈され、咸亨中には太尉兼太子太師・太原郡王として高祖廟に配享された。武后が政権を握ると忠孝太皇と尊称され、七廟を建てて帝を追号したが、先天中に削られ太原王に戻された。
- 士彟は初め相里氏を娶り元慶・元爽を生み、後に楊氏を娶り三女(うち一人が則天武后)を生んだ。士彟没後、諸子が楊氏に礼を尽くさなかったため、武后は楊氏を代国夫人・榮国夫人とし、兄の子元慶・元爽・惟良を左遷させた(龍州・濠州・始州)。乾封年間、韓国夫人の娘が帝に寵愛されたことに武后が激怒し、惟良らの毒殺計画を利用して逆に自らの姪を毒殺、惟良らを「蝮氏」と改姓させ族滅した。
- 武后は甥の賀蘭敏之を武氏の後継とし蘭台太史令に取り立てたが、敏之は栄国夫人(祖母)と密通し、皇太子妃候補の楊思儉の娘を強姦し、太平公主の従者にも乱行を働いたため、雷州に流され自殺した。武后は元爽の子承嗣を武氏の後継として復権させた。
- 士彟の兄士稜(宣城県公、農稼を掌る)、士逸(六安県公、劉武周に捕らわれても間者を送った功で益州行台左丞、韶州刺史で終わる)についても記される。
承嗣
- 尚輦奉御から周国公を襲爵し、太常卿同中書門下三品を経て垂拱初、春官尚書同鳳閣鸞台平章事、文昌左相。左司郎中喬知之の愛妾窈娘を奪い、知之の恨みの詩を理由に酷吏を使って一族を殺した逸話が伝わる。
- 武后の革命に際し、唐の子孫を廃し先世を追王すべきと進言、元慶を梁王、元爽を魏王、士讓を楚王、士逸を蜀王に、承嗣自身は魏王に封じられ、多数の武氏一族が王号を得た(本文に詳細な系譜が列挙される)。密かに武氏の皇太子擁立を諷諭したが岑長倩・格輔元に反対され失敗、両者を誅殺する報復に及んだ。太子太保で鬱憤のうちに没し、太尉・并州牧・諡は宣を追贈された。
延基以下の子孫
- 承嗣の子延基は継魏王を襲ったが張易之兄弟に関する密語が漏れ自殺させられた。中宗復位後、諸武の王爵は敬暉らの反対にもかかわらず一段階の降格にとどまった(三思・徳静郡、攸暨・壽春など)。載德・攸歸・攸止は太后時代に没し封を削られずに済んだ。
- 攸宜は契丹討伐の総大将となったが功なく撤退、後に禁兵を統率した。重規は突厥討伐の総大将、延秀は默啜への和親の使者として送られたが默啜に抑留され、帰還後は安楽公主と通じ、韋后とも私通する乱行に及び、韋后敗死とともに誅された。攸寧は納言・冬官尚書として苛斂誅求を行い蓄財を火災で失った。
三思
- 太后朝で夏官・春官尚書、監脩国史。契丹討伐の後方支援を経て鳳閣鸞台三品。武后への諂諛と、張易之・張昌宗兄弟への阿附(懐義の馬丁を務め、昌宗を王子晋の後身と称える虚言を弄した)で寵を得た。嵩山の三陽宮、万寿山の興泰宮の造営で武后の遊興を誘い私腹を肥やした。
- 子の崇訓が安楽公主に尚した際の盛大な婚礼、中宗復位後の司空・同中書門下三品への昇進、桓彦範ら「五王」誅殺への関与、太后の遺法復活の建言(乾封・合宮など五県名の改称も含む)が記される。上官昭容とも密通し、節湣太子の廃立を謀ったことが太子の反発を招き、太子が羽林兵を率いて三思・崇訓を殺害した。
- 三思の専横は司馬懿になぞらえられ、宗楚客・紀処訥・崔湜らと結んで政敵を粛清し「崔・冉・鄭、乱時政」と評された。死後、太尉・梁王・諡は宣を追贈されたが、睿宗即位後、逆節の父子として棺を暴かれ墓を平らげられた。
懿宗・攸暨
- 懿宗は司農卿から契丹討伐(神兵道大総管)に任じられたが臆病で軍を後退させ賊の侵攻を許した。後に婁師德と河北を巡り、投降者を膽を剔り殺す残虐さから「両何(何阿小と並ぶ)」と称された。天授年間の大獄でも冷酷な取り調べで知られた。
- 攸暨は太平公主に尚し駙馬都尉、定王・司徒を歴任。慎重な性格で忤らわなかったが、公主の大逆に連座して墓を暴かれた。