新唐書卷二百六 列傳第一百三十一 獨孤懷恩

外戚・序

  • 外戚の栄枯は君主の徳次第である。君主が賢明なら栄光を共にし、そうでなければ真っ先に禍を受ける。太宗は貴幸を戒め賞賜を抑えたため貞観年間は内寵による家門の破滅がなかった。高宗・中宗の代は寵愛が政治を歪め武氏・韋氏一族が誅殺された。玄宗初年は近親にも法を厳格に適用したが、天寶年間に楊氏一族へ政治を委ね、安禄山の乱を招いた。楊氏誅殺後は数十年の寵愛も一日の惨劇を償えなかった。代宗・徳宗以降は宦官が寵を分け、外戚の顕門も大戮もなくなった。長孫無忌・武平一・呉漵らの功績は内寵によらないため別伝に譲る。

謀反の顛末

  • 元貞皇后の弟の子。父の整は隋の涿郡太守。隋文帝の献皇后に幼くして養われ、財を厭わず豪猾と交わる性格であった。鄠令を病で辞した。
  • 高祖の京師平定後、長安令として厳明な統治を行い、工部尚書に抜擢された。虞州刺史韋義節の蒲州攻めが失敗した後、懐恩が代わって将となったが、貪欲で戦略に乏しく戦功を挙げられず、内心では怨望を抱いた。高祖の戯言「弟や姑の子が天下を取るなら次は君か」を真に受け、謀反を企てた。
  • 虞郷南山の盗賊、劉武周配下の宋金剛と結び、王行本の軍を引き入れ河東を割譲する計画を進めたが、部下の元君寶らの侮辱がきっかけで計画が漏洩した。秦王が武周を美良川で破ると懐恩は逃亡し帝に蒲州攻めを命じられたが、王行本の降伏に伴い謀反が発覚。高祖は懐恩を騙して捕らえ、獄中で縊死させ首を華陰市に晒し、家財を没収した。