新唐書卷二百三 列傳第一百二十八 李商隱
令狐楚・李徳裕の党争に翻弄された才
- 字は義山、懷州河内の人。英国公李世勣の裔孫との説もある。令狐楚が河陽節度使として才を認め子弟と交わらせ、天平・宣武に転じても幕僚として重用した。開成二年、高鍇の貢挙で令狐綯の推挙により進士及第。弘農尉として活獄が観察使孫簡の怒りを買ったが、後任の姚合に赦され復官、抜萃科にも合格した。
- 王茂元の河陽幕府で才を愛され娘婿となり侍御史。茂元が李徳裕と親しかったため牛党から「詭薄無行」と排斥された。茂元没後、桂管観察使鄭亜の幕下に転じ、亜の循州左遷にも従い三年を過ごした。亜も徳裕党とされ、令狐綯から「家の恩を忘れた」と絶交された。京兆尹盧弘止の幕府、弘止の徐州転任にも従ったが、令狐綯への働きかけは効果なく太学博士に補されるにとどまった。柳仲郢の劍南東川幕府で検校工部員外郎、府廃後は滎陽で客死した。
- 文章は初め瑰邁奇古であったが、令狐楚の下で章奏の学を授かってからは対句と修辞が過度に技巧的になった。温庭筠・段成式と並び「三十六体」と称された。